A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

哲学の領域に一歩踏み込んだ男

2009年03月20日 17時15分37秒 | 今までに、こなしたレポート代行
学の領域に一歩踏み込んだ人間

 この本の特徴を最初に述べることにする。この本は日本の哲学書にしては珍しく悪書ではない。されど良書でもない。この本は悪書と良書のちょうど中間ぐらいに位置するものである。そしてこの本の内容は簡素な言葉遣いで分かりやすく書いてある。この点が最も評価に値する所である。
「難しいことを難しく書くことはたやすい。しかし難しいことを分かりやすく書くことは困難である。」
 この言葉は哲学の根本的形式を表す。プラトン、セネカ、キケローも哲学を言い表すときに簡素な言葉を好んで使った。このことを模範とするならば、この書も基本を忠実に守っている、と言えるであろう。
 次にこの書の内容に移ることにしよう。だがこの書の内容は広範である。それをこの短い文章中に書き記すことはできない。したがって私は数箇所の論点を取り出し、それを説明、批判することに努めることにする。
 この本の著者はまず生きること、考えることを論じている。このことも賞賛に値する。この問題は哲学の基本的意義であり、なおかつ生と呼ばれる深遠なる森の源泉なのである。しかし早速彼は最初の一歩でつまずいている。それをここに引用することにしよう。彼は述べる、「生きていく上で何も思わず、何も考えないわけにはいかない。」この言葉は明らかに現実と調和しない。その原因としては、彼がこの概念を人間にだけ当てはめていること、さらには自我と外界の境界線がおぼろだった幼少期のことを忘れていることが挙げられる。最初の批判から説明すると、確かに概念とは人間だけにしか持てない能力である。それは理性と言う機能が人間に備わっているからである。脳生理学的に言えば、前頭葉の発達(これは猿より脳の発達した人類の頭蓋の形、及び過去の精神医学者、脳科学者の資料を参考にすれば分かる。)、さらには脳側頭葉、後頭葉の損傷時において現れる、見当認識障害を参考にすると、科学的にもある程度解明できる。脳側頭葉、後頭葉と前頭葉は密接な連関を持ち、もし外部から損傷を受けた場合は速やかにその症状が出る。この部分は主に感覚を実態的に形成する、いわゆる形成度及び実態度と関係している。しかしここで忘れてはならないことがある。外界の印象とは概念に形成される前に一度観念になり、それから概念となる。このことは重要である。生き生きとした空想と死んだ概念の違いがそこにあるのである。これが直観に生きる動物と、概念と直観を持ち合わせた人間の大きな違いだとも言える。(詳しくはショーペン・ハウアー著「意志と表象としての世界」参考) 
 しかしそもそも生物とは直観的に生きるものである。これは生物全てが漠然と生きているともいえる。だが彼はすでにそこで間違っている。彼は言う、「まだ幼かったり、あるいは漠然と生きたり、何かに心を奪われて夢中に生きたりして、特にものを考えないで生きることもあるだろう。しかしそういう時期があっても、それがいつまでも続くわけではないし、(中、略)何も考えないわけではない。」
 この文章は如実にこの本の著者の現実逃避を示している。真実を言えば、ほとんどの人間が漠然といき、漠然と思想しながら生きているのが現状である。これを立証したければ、何年間か会っていない友人と再会してみれば良い。彼は前と変わらず、同じ調子で話し、同じ考えをぶちまけるであろう。このことはいつでも確かめられる。静止して変わらぬ性格。これを哲学用語で言えば、叡知的性格と言う。しかしいつまでも生物とは普遍ではない。この点は私もこの本の著者と見解を同じくした点である。ダーウィン「種の起源」の生存闘争、自然選択、アンリ・ベルクソン「創造的進化」から言葉を引用すれば、「生の跳躍」と呼ばれる現象がいつでも生物には環境から微力ながら作用されているのである。しかしこれらの真理も人間が考える生物だとする根拠にはならない。ユスト「遺伝学生物学全書」の中でゴットシャルトが報告している環境素因対遺伝素因の比率は遺伝素因のほうが環境素因よりおよそ二倍半まさっている、という研究結果はことごとく後世の真摯な研究家たちによっても検証された。と、言うことは私たちの身に起こる変化はごく微量であるということになる。それは当然である。たかだか千年やそこらで生物が突如として、進化することはありえない。少なくとも百万年単位の年月が生物の進化には必要である。それも才能の陶冶を必須とする、混沌とした環境がなお必要なのである。
しかしここまでの私の見解では彼の意見を論破する根拠は無い。したがってここからは深遠な哲学の力を少し借りることにしよう。プラトン「ソクラテスの弁明」でソクラテスは必死に民衆に自分の無罪を訴えかけた。それも単に自己の保身のためではなく、誠心誠意を込めて、民衆に真理を訴えた。だが彼らは口を閉ざし、ソクラテスを処刑した。この悲惨なる現実を知ったときに我々はまだ人間は考える生き物である、と言えることができるであろうか?ほとんどの人々が無造作に世の賢人を葬り去り、彼らは知らぬが花、とんと関心払わぬ、と決め込んでいる。こんな阿呆な人間たちのどこに日々考え、邁進する精神があるのであろうか?ソクラテスはその後、偉人と称えられた。しかし彼が生きているときに、人々は彼を忌み嫌い、そして彼を死の深淵に追い込んだのである。ここまで資料があるのに、人間を考える生物である、と言うのは明らかにおかしい。もし人々が考える、と言ってもそれは自己の身の回りにある役立つことだけである。自分さえ良ければ良い、自分が死ななければ良い。こんなふざけた考えが闊歩している世の中に真に考える者は少ない。ヒポクラテスから今までに残っている本を数えてみればいい。きっと、結果は散々なものになるであろう。これとあわせて、今までに生まれてきた人の数も調べてみれば良い。明らかに非凡なる者の書物とは数が合わないであろう。これこそが人を考える生物ではない、と呼ぶ根拠である。私は最後にその形而上学的真理を述べておく。生物とは、本来自己の生存を第一とし、その親である自然は種の保存を第一とする。「自然からいずる人間たちは、利己心を払い捨てた純粋な見解を通常、持たない。もしそれを持つ人間がいるとすれば、彼は明らかに常軌を逸している。考えることとは普段、自己の関心に限られる。それを超越するものは天才と呼ばれ、また彼は精微な精神医学者からは『人類中の稀有にして極端な変種』と呼ばれるのである。」