A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

脳楽と古武術

2007年09月27日 22時26分01秒 | 思想、警句
 私が、この場所を訪れて、感じたことは、様々であった。歌舞伎に、昔の江戸の雰囲気等々、それらがかもしだす空気が、私に、新鮮な印象を与えた。昔から、歌舞伎や脳楽には、興味があった。ここで、脳楽について、話すことにする。もっとも、感慨深いのは、能楽とは、日本固有の文化であり、独特のものであるということだ。ゆったりとした、動きには、考えられないほどの力を消費する。私自身、古武術をしていて、分かることだが、動きをゆっくりとし、いかにも、きれいに演舞するということは、実際、大変なことである。人間とは、もともとゆっくりとした動きをする動物ではない。それをさも楽々と、見せるところに脳楽のすばらしさはあるのである。熟練した動きを見せる脳楽とは、いかにすごいものであるだろうか!私は、その動きの一つ一つに釘付けになった。ゆったりとした舞、それはそれだけですばらしいものである。しかし、もっともすばらしいのは、彼らの風体である。まるで、風が何もないところを、通り抜けるように、彼らは演舞をする。これは、古武術と相通じるところがある。古武術では、その基本は脱力にある。脱力したまま、拳を上げれば、それは通常の筋力をこめた拳より、早く動く。もちろん、当たる瞬間には、力をこめる必要がある。これは、怪我防止の為に行うことである。この動きは、脳楽と通ずるところがある。たしかに、彼らも脱力し、演舞を行う。これは、そのような動作をしっかりと習得しているものには、すぐ分かる。そして、舞だ。空中を、飛ぶように彼らは舞う。それは、一見、常人離れしているような巧みな技に見える。だが、これも身体操作の基本を知っているものに、とっては実にたやすく身につく。体の力を抜き、脱力したままで、地面を強く蹴る。そうすると、すぐに舞いが完成するのが分かる。
私の所見としては、脳楽と古武術は、同じ道筋をたどってきたと思う。「風姿花伝」を書いた世阿弥は、七歳の頃から、脳楽にはげんでいる。また、古武術も日々の鍛錬なしには、進歩しない。まず、もっとも厄介なのは、先ほど述べた、脱力である。人とは、どうしても力任せに、動作を行おうとする。けれども、それは間違いだ。私も、柔道の黒帯の人に、一本背負いをかけてもらったことがある。力をこめていれば、まともに地面に叩きつけられる。しかし、脱力していると、不思議なことにまったく相手の技がかからないのである。反対に、相手のほうが、地面に叩きつけられてしまうくらいである。もっと言えば、脱力とは、日本語独特の言葉である。私は、英語と少しフランス語ができるが、いまだかつて、外来語に脱力という言葉を聞いたことはない。最初に、脱力とは、肩の力を抜くことから、始まる。次には、体重移動が始まる。どちらか、片方の足に重心を置き、そこから一気に片方の足に、体重を移す。すると、自然に足の力が直接、手に加わり、相手をいともたやすく屈服させることができるのである。そして、結局は脳楽もこの動作を、舞いなどに応用しているに過ぎない。空中を舞う、天使のように、彼らは演舞する。これもまた、古武術と同じである。沖縄琉球空手も、同じ動作を用い、信じがたいことだが、八十歳の老人が、若者五人を相手取り、楽々と彼らをのしてしまうのである。これが、武芸、演舞に必要な脱力の重要性である。それから、私は、こう言いたい。脳楽が用いる言葉の音調、これは一種独特の雰囲気をかもしだす。静かに、低音調で流れる言葉の数々は、まことに感慨深い印象を与える。これは、人間本姓に根ざした感官を刺激するために、起こる現象であろう。かつてヒトラーが、演説をする時に、用いた低音調の音楽機器は、脳楽と通じる部分がある。もちろん、彼の場合は、それを洗脳に用いたために、悪行になったのであるが、それでも音調に対する考え方としては、客観的に見て、正しいと言える。人々は、あまりに、音調の重要さを軽視する。言葉を変えれば、脳楽とは、民衆を一種の催眠状態に導くものである。だから、民衆は、すがすがしい顔をして、舞台を後にするのである。
最後に、私は、こう思う。脳楽とは、今だ、完成されえない文化である。紆余曲折しながら、古代より伝わってきたものであるが、それでもなお完成はされてはいないのである。私は、ここに進言したい。外国の戯曲や、オーケストラの演奏を聞いて、より幅広い見識を、脳楽をやる人には、持ってもらいたいと。