A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

大衆の不安定さ

2007年06月09日 04時04分12秒 | 思想、警句
 人がこぞって言う謙遜などはまがい物である。なぜなら、一般の人々には判断力がかけており、そのために正確な判断を下せないのである。私が述べた判断力とは慧眼の事である。そしてその慧眼を携える者が少ないのも現状である。
 したがって、ヒトラーが引き起こした戦争の罪は全ドイツ国民に科せられるべきである。だがここで誤った判断をしてはいけない。たとえ全ドイツ国民に対して、罪をかせようとも、それはゆるやかに行う必要がある。クレチュマーは当時のドイツの状況を冷静に分析していた。純粋なナチ、いやおうながらも国に屈服する民衆。浮動性のある若者などである。これらの事を総括すると、やはり判断力年齢の差異で生ずるものではなく、先天的に与えられてるものだという事が分かる

理解不能な日本の礼節

2007年04月09日 03時31分32秒 | 思想、警句
 世間では謙虚や礼儀正しさが求められているが、それは違う。表面上礼儀を重要とする考えが蔓延している中で、礼儀の本来の意味は失われつつある。本来、礼儀とは本当に尊敬する人に使うものである。もし礼儀正しさを頑強に求める人がいるならば、その人には自信がないことになる。なぜなら自分の弱さを他人に露呈する事を恐れているからだ。
 「天才に謙虚さは必要ない」と、よく言われる。確かにそうだ。天才ともなれば、自信に満ち溢れ、謙虚さは必要なくなる。もっとも謙虚さとは他人を欺く行為なのである。こちらが腰を低くすれば、相手は満足し、充実感を得るだろう。だがそれは凡人の何の才気もない人々にしか通じない。もっと博識な人々に言わせれば、謙虚さと言うものの存在価値すら、認めない。これは真に当を得ている。謙虚とは自分に自信がない人が好んでする事である。したがって、年上なので敬語を使え、などという戯言に耳を傾ける必要はない。まず独立独歩で学問を開拓した人に謙虚な人はいない。それを顧みて思うのが、社会構造の問題である。社会とは単なる馴れ合いでしかない。頭を下げ、自分の能力に自信を持てないものは、そっこく謙虚になるべきである。なんと言っても自分に力のないものは謙虚さを求める。それは明らかに不条理である。
 例えば、昔の武士が通行人に会うときに軽く手を挙げ、会釈をしていた。これを礼儀作法と勘違いする人々は多いが、それは違う。武士はとっさの攻撃に備えて、会釈をしていたのである。
 ほかにも色々と曲解されていることが多い。まず古来の日本では、礼儀ではなく、実生活にそくした挙動が多く見られた。いつ殺されるかも分からない状況において、様々な技術があみ出されたのである。したがって、昔の日本では礼儀作法より、それをいかした実践的な行動が多かった。もし礼儀を用いるとすれば、せいぜい大名の前ぐらいである。ほかは決まって常に武士は臨戦態勢だったのである。


虚栄心について

2007年03月12日 00時04分31秒 | 思想、警句
 昔から言われてきた人の持つ醜い特徴、虚栄心についての論述を行いたいと思います。まず目に付くのが、女の人の虚栄心の強さだ。彼女らは絢爛豪奢に着飾り、いつも周囲からの目線を気にしている。これがほとんどの女性に見られる。もちろん、それをしない女性もいるが、圧倒的に虚栄心をふりまく女性が多い。いくら年をとってもきれいになりたい。その飽くなき欲望の結果、整形手術や化粧に彼女らは奔走している。
 哲学者の視点から見て、これほど愚かしい事は無い。初めて、会った時の第一印象はとかく重要だと言われがちだが、それは違う。次第に親交が深まれば、化けの皮ははがれ、必然的に本性を相手に見られてしまう。それに人から見られる事を顧慮するのもおかしな話だ。大抵の人は身なりや体面を気にするが、そんなものに大した意味はない。なぜならもし街中で汚い身なりをした人物を見ても、そんなものは三日もすれば、忘れてしまうからである。なお、それでも身なりを気にするのなら、より客観的に自分を見れば良い。もし自分がこういう場面に遭遇した時に自分はどう思うか?などの客観的な見解を踏襲していけば、自ずと虚栄心の愚かさが分かるはずである。
 だがこれでも女性の虚栄心の強さはなくならないであろう。生物学的な見地から述べて、女性とは男性とくっつくためにあくせくする必要がある。これは全ての動物にも言える。孔雀の羽を広げる行為はその良い例であろう。確かにこう考えれば、虚栄心の大切さは少なからず、分かる。しかしそれでも理性的に生きたいと望むならば、虚栄心などと言うくだらない衣装は破棄して、より自分を高める道を選ぶべきである。ただし、それには相当の困難を要する。私の男友達にも少なからず、虚栄心のかげりは看取できるし、それに私にだってそれはある。そもそもこういう文章を書いている時点で私は虚栄心が強いと言えるのである。したがって、虚栄心のある程度の自制、客観的に自分を見る事によって困難な人生を歩く中で少しでもその困難さは軽減されるであろう。

人の見方について

2007年03月04日 23時41分23秒 | 思想、警句
 様々な友人の話を聞くと、どうやらほとんどの人は第一印象を大切にするようである。だが私はこの見解を浅はかなものだと思う。いくら着飾っても長い付き合いをすれば、その化粧は落ちてゆく。そしていまや第一印象は、単なる過去の残像に追いやられる。その時になって、人々は知るはずである。自分の能力の限界、性格、思考方法などを知る事になる。もちろん、この時点に至れば、再度身繕いをしても無駄である。したがって私は第一印象で人を見極める事を浅はかなものだと思う。もちろん、ギリシャ時代から観相学と呼ばれる独特の人の見方は、学問として存在した。それは現代に至っても、なお精神医学の分野でそれは盛んに行われえている。ただし、この方法にも一定の限界がある。せいぜい出来てその人の性格の枝葉と才気ぐらいである。しかも後者は精確な判断力を持たなければ、出来ない。そのため、観相学とは直観に全てをゆだねていると言える。感受性豊かでさらに現実主義的な思考を持つ人しか、この方法は使えない。だから、観相学とは諸学問から揶揄されたのである。
 だがそれでも人の見方に対する重要な知見は今なお存在する。ドイツの精神医学者クレッチュマー「性格と体格」において、観相学を不可解な学問から精神医学にとっては欠かせない重要な知見にまで引き上げたのである。その後、それは体系化され、現代の精神療法に活用されているのである。

勉強とは

2007年02月19日 21時49分59秒 | 思想、警句
まず人々が勉強という言葉を耳にしたときに、喚起するもの、それは種々雑多である。受験勉強、政治の勉強、医学の勉強などなど、あらゆるものに対して勉強という言葉は用いられる。有名な大学に進学したいと強く望む学生は、夜を徹して受験勉強に励むことであろう。
さて、そろそろ本題に入りたいと思うのであるが、その前にいくつかの注意点を明記しておきたい。

 第一、 私が最初に述べた勉強の亜種は本来の勉強の意味とはかけ離れている。それは勉強本来の観点から見ての洞察である。この勉強本来の意味は次項で分かる。

 第二、 まず勉強とは自己を知ることである。「汝自身を知れ」という言葉が示すとおりに本当の勉強とは自分を知る事にある。

 第三、 自己を知るという事は自己の特徴を把握する、という事である。そこに慢心があってはならない。積極的に自分の悪い部分を見つめ、それを是正する。また良い部分はすなおに良いと認め、その良い部分を伸ばしていくこと。順序から言えば、前者が先で後者が後の方が望ましい。

 第四、「いうは易(やす)し、やるは難(がた)し」と、この言葉を最初に肝に銘じておく事。実際、いくら頭が良くとも私の提唱している本当の勉強を実行できるものは少ない。なぜなら人とは本能的に自分の弱い部分を見るのを嫌がるし、それに良いところばかりを見たがる傾向がある。そのため、私の提唱した勉強を実行できる人は少ないのである。