■ ■■■■■ ■ 日刊 こならの森 ■ ■■■■■ ■

* * * *  *  * * * *
東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森 36号

2008-04-02 | 創刊~100号
       36号 1991.4発行

………………………
2p…看板娘 中沢さん
3-4p…トピックス
5p…結婚しました
6p…としこ/カラムコラム
7-10p…町案内/黒袴町 西浦町
11-14p…セミナー「藤田祐幸」
15p-22p…【みてある木】
23p…モータースポーツ
24p…アウトドアー/祈り
25p…美容と健康/街角
26p…本/絵本紹介
27-28p…情報
29p…コーヒー
30p…コンサート
31-32p…協賛店名
33p…子育て編集日記
………………………


【本文抜粋記事】

佐野市青年団体連絡協議会創立20周年記念
(ユースフォーラム・セミナーより抜粋)

■講師紹介■
藤田祐幸(ふじた ゆうこう)
1942年千葉県生まれ。東京都立大大学院卒。慶応大学物理学教室で化学哲学を教える。83年には槌田敦氏らとエントロピー学会創設に参加。三浦市で、自然と人間が文化を介して共生する宮澤賢治の理想を実現するための「ポラーノ村」の運動を展開。90年には、5月と8月の二度チェルノブイリ事故調査団の一員としてソ連を訪問。


 ひとことに言って我々は何千年、何万年も前からひとつの流れ、巨大なる流れの中にいて、先祖からその命の流れを受け継ぎ、また次の世代に受け継いでいくという事が最大の責務であると考えます。その命の流れを支えるにはどうしても、豊かな自然環というものが必要なんです。自然環境、水の循環システム、あるいは物質の循環システムというものが命を支える源になります。その自然の循環システムの中で人は命を育て伝えていく技術を産みました。ですが、この数十年の間に我々は、森を切り、水をけがし、海を潰し、そして遺伝子に放射能を塗りたくって、次の世代に譲り渡そうとしている。このことを真剣に思うべきなんですね。しかし、お金と交換に何でも手に入るようになって、我々は生活を支える技術を次の世代に受け継げなくなった。そういう事態に今いると思うんです。
 小網代の森の「ポラーノ村」というのはそういう時代認識の元に始まりました。具体的には、僕が住んでいます神奈川県の三浦市に奇跡的に残された五〇万坪程の自然林があります。これは、ひとつの独立した集水域と言いまして分水嶺で囲まれたひとつの谷なんです。そこに、降った雨は中央に集まってひとつの川を作っている。海に流れ出す前の川は一面に広がった湿原、低層湿原としては全国で希にみる湿原を形作り、そして海に注いで今度は干潟を作り出した。という訳で、わずか全体で二キロくらいしかない川ですけれどそこには独立した、博物館のように完壁に揃った自然がある。一番上流には沢蟹が住み、その下には赤手蟹や葦原蟹がいて、蟹だけを取っても教科書にあるように本当に住んでいる。そういう理想的な環境です。しかし、その五〇万坪の森林をブルトーザーで平らにしてゴルフ場を作るという計画が持ち上がり、すでにその開発業者は六〇パーセント以上の土地を買い占めてしまった。だから、単に「森を守れ、ゴルフ場計画粉砕」というような斗争を展開しても勝てるような状況ではない。そこで、もっと積極的にこの森を我々の生きる命を伝える場として活用できる、対案を提起する運動がないかという事で、宮沢賢治の理想であった『ポラーノ広場』というのをここに作ろう、というプランを作り、「ゴルフ場よりこっちの方がいいんじゃないですか、こっちの方が資本家も儲かりますよ」という対案提起をしました。
 この運動は三つのステップ状態があるんです。まず、一つはゴルフ場建設を撤回させる。第二にはその自然の森を出来るだけ自然な状態のままで残す。第三には、その森を中心とした周辺地域に、生活技術を次の世代に伝えて、命の流れが本当にリアルに目の前で流れて行くような、文化と芸術の村を作る。そして、地域の経済活性化につながる町づくりを作って行く。そういう「村」を作るということで進んで来た。その第一の局面であるゴルフ場撤回というのは、神奈川県知事に議会で「神奈川はこれ以上ゴルフ場を作りません。」という答弁をさせる事で勝ちました。第二番目は、この森をどう残すかという問題です。ここは湿原ですから、歩きますと僕達が自然観察で入っても田んぼのように荒れてしまう訳で、そこに尾瀬のような木道を作って、この森全体を巡る巡回路を作る。今、森の自然状態はだいぶ荒れて来ているし、水も汚くなっている。だから水をきれいにし、いろんな植物や動物が増えるような条件、場所を作ってやって、より完成度の高い生態システムの完備した森に作り直しながら、学校のカリキュラムの中にこの森での体験学習というものを位置付けてしまおう。そういう事によって何百、何千という子供達がそこで自然体験をして、本来あるべき自然はこういうものだと学ぶ、そういう教育の森にする。という主張を県に向かって、あるいは知事に向かってしている訳です。 最近、県が動き出しました。「この森の自然状況は極めて良好である。これを保全する形で計画を再検討したらどうか」という事を明確に言い出し、開発業者の方が慌てました。あの、池子を潰してかかったという神奈川県が突如この僕達の『小網代の森』というところの自然が大事だと言い出した。という事で、この森を次の世代に伝えるという第二段階の所もほば見通しは明るくなって来ました。残った三〇万坪程の土地に僕達は芸術と文化の村を作ろう、有機農業の農場を作ろう、そういう事を盛んに主張していますが、おそらく開発業者はそこにミニ・ディズニーランドを作ろうとしてくるに違いない。その戦いが始まります。こういう、具体的な対案提起運動で、僕達はパンフレットを作ってそれぞれの所に、どういうものを作ったら良いかを明らかにした。基本的なコンセプトとして「人間と自然が、共生できる町づくりをしよう。」それから「自然と自然が共生できる町づくりをしよう。」「人間と人間が共生できる町づくりをしよう。」この、三つの共生という、町づくりの基本的なコンセプトを持ち出して来た訳です。

地域の経済活性化につながる町づくり

 まず、自然と人間との共生というのは、農地を有機化する。その地域の人々の欲する野菜を多品種少量生産で作って、地域内物質循環を計る。そして、家庭から出るごみを有機肥料の材料として畑に戻す。そうすれば生態循環システムが、自然と人間の共生を成立させるだろう。それは農業の経営にとってもずっと安定的で、経済的だ。そういう事を主張しています。 そうした自然と自然、森と森の共生構造に着目した町づくりとしなくてはいけないと主張しました。自然と人間、あるいは自然と自然が共生する町の中にあって、人々はもはや選別と差別の世界に生きる必要が無い。全ての人々がそれぞれの能力に合わせた仕事を分担する事が出来る。つまり、どのような人間もその中で共に生きる。原発という特殊な技術を選択して、そのことによって子孫にとんでもないつけを回してしまったのですが、それを無くす運動をやると同時に、二十一世紀に(我々の次の世代に)人々はどのように暮らすか、というライフスタイルを町づくりの中に、あるいはそれぞれの運動の中に作りあげて行くような運動を同時に作りながら、原発を止めていく運動のエネルギー源にして行く必要がある、と思います。
 実は、チェルノブイリの事故が起こる前に我々は日本の原発がそろそろ事故を起すという予測をしていました。これは二〇〇〇炉/年に一度大事故が起こるという統計があるんです。それはどういう事かと言うと、ひとつの原子炉を二〇〇〇年運転すると破局的な事故が起こる。そういう統計が出ていた。ひとつの原子炉を二〇〇〇年という事は、ふたつの原子炉だったら一〇〇〇年、四つの原子炉だったら五〇〇年ですね。スリーマイル事故の頃、だいたい世界に三〇〇基くらい原発がありましたので二〇〇〇を三〇〇で割りますと、だいたい七という数字が出ました。そこで、スリーマイル島から七年目あたりに大事故が起こるんじゃないかという危機感を持ちまして、「スリーマイル島事故七周年記念集会」というのを開いたのです。そうしたら何と一ヶ月後、誤差一ヶ月でチェルノブイリの事故が起こって、ぞっとした訳です。今、世界の原発は四〇〇体制です。そうすると、今度は二〇〇〇を四〇〇で割りますと、五という数字が出てくる。すると、チェルノブイリから五年目あたりに次の大事故が起こる。これはあくまで統計なんです。ですから、確率的に何年に一度という事なので、何年目に必ず起こという訳では無いという事を、申し添えておきます。しかし、現に七年目に起きたという事で、僕達は非常に重みを持って考えています。世界の原子炉の運転状況をみると日本が一番危ない、無謀な運転しているんです。 原発というものは二〇世紀後半の半世紀の間のうたかたの夢で、おそらく二〇世紀が終わり二十一世紀になるまで続いているなんて考えられないんです。世界趨勢も撤退路線ですし、ぐずぐずしていれば大事故でおしまいなので、二十一世紀に原発が動いている事は考えにくい。しかしその結果、今後数十万年に渡る我々の子孫はこの放射性廃棄物の処理や管理の責務を負わなければならない。我々の子孫が、その管理に手抜きをすればその段階で地球の生態系というものは終わってしまう。ですから、この放射性廃棄物を誰の目にも触れない、どのような物になっているか分からないような地面の下に埋めようとする事が一番犯罪的なんです。だから、政府の「下北・幌延に処分を」というのは全く誤った選択なんです。後世の子孫達に管理しやすい形にして置くしか手はないんです。我々の子孫は何百世代、何千世代たってもその放射能が消えない訳ですから、子孫達は二〇世紀後半に生きた我々の事を犯罪人であるとして糾弾するに違いない。例えば縄文人、平安時代の人々はというような見方で、二〇世紀後半の連中は石油を使い果たし、鉄を使い果たし、森を壊し、川を汚し、放射能を作り、全ての生き物の存在を危うくして、そういう地球を我々に残した。縄文人の中にもいやあらかたこういう奴もいた、ああいう奴もいた、なんて事はもう見えない訳なんですね。それからこれはとことん第三世界の差別構造の中に存在している。ウランの採掘の現場で被曝しているのは、インディアンだったり、アボリジニーであったり、アフリカの黒人であったりする。いずれも白人支配の中で居留区に追い込まれ、その居留区からウランが出て、結果的に鉱山労働を強いられ、被曝をして倒れて行く。しかも、差別をされているがゆえに彼らの被害は、二〇年も三〇年も時間が掛かってから見えてくる。そういう所からウランが運ばれ、日本に入ってくる。また電気は、原発の中で毎日の労働が被曝量でノルマを課せられている労働者によって支えられている。そして下北や幌延といった貧しい過疎地に最後のつけが回される。そういう重層的な差別構造の上にこの原発というものが存在して、電気がついている。言うならば我々はそういう差別された第三世界の人々に対しての犯罪性であるとか、二重のあるいは僕は全体としては五重の犯罪性という事を思うんです。そういう加害側にあるんだという事を認識し、我々の生活の質を問い直すところから原発を止める運動を作り上げていくという事が必要だと思うんです。そのためには、我々都会に暮らす、あるいは都会的ライフスタイルを送るものも考えを問い直さなくてはいけない。
 その事が実は原発を頂点とする全ての産業構造を支えてしまっている。例えば、食品にこだわろうとする時、どうして添加物が入っているんだろう、防腐剤が入っているんだろうと考える。これは単なる企業戦略で入っているんじゃなくって、我々が選択してしまっていたんです。そういう、ライフスタイルを近代的なライフスタイルだと思って選択してしまった。そのつけが今、回って来ている。我々は、反対派であろうと、推進派であろうと、無知なるが故に推進派に加担してしまったのであろうと、二〇世紀後半の人類は二〇世紀後半の日本人はという形でひとくくりにくくられ糾弾される立場にある。我々は、被害者のような顔をしていますけれども、実はそういう時間の流れの中では加害者の立場にあるという事をけして忘れてはならないんです。


最新の画像もっと見る