原題:TAKE SHELTER(G)
2011年・アメリカ(120分)
製作総指揮:グレッグ・ストラウス、コリン・ストラウス、サラ・グリーン
監督&脚本:ジェフ・ニコルズ
出演:マイケル・シャノン、ジェシカ・チャステイン、シェー・ウィガム、
ケイティ・ミクソン、、キャシー・ベイカー、レイ・マッキノン、
リサ・ゲイ・ハミルトン、ロバート・ロングストリート ほか
鑑賞日:2012年3月30日 (渋谷)
それは、見たこともない巨大で不気味な暗雲。
見るからに禍々しいエネルギーを孕んでいる嵐雲だった。
しかも、降り始めたのは黄色い雨。
カーティスは、呆然と見つめるしかなかった。
「これから一体、何が起きるんだ?」と。
それが、カーティスを襲った悪夢の始まりだった。
田舎で愛する妻や娘と穏やかに暮らしていた男を襲った突然の不安感。
「恐ろしい嵐が来る!かつて誰も見たことがない恐ろしい嵐が!!」
だが、からみつくような強迫観念に囚われたカーティスをよそに、
周囲の人々はいつもと変わらぬ日常を送っていく。
彼一人が、夜ごと悪夢に襲われ、命の危険度が増しているのを感じていた。
一方で、
「まさか、自分もまた精神が病んできているのか?」
認めたくはないが、カーティスには心当たりがあった。
そこで、かかりつけの医者に相談もし、薬を処方してもらった。
おかげで、その夜は悪夢にさいなまれずゆっくりと眠れた。
「やはり、自分は病気だったのか?」
だが、今度は悪夢の代わりに幻覚を見始めた。
いや、カーティスにとってそれは、むしろ確信だった。
「嵐が来る前にシェルターを作らなければ。」
他人に説明できる確かな根拠は何一つない。
理由は、毎晩見る悪夢。
カーティスは、
裏庭にあるトルネード・シェルターを頑丈に改築し、
家族が長期間過ごせるよう準備を始めた。
次第に、狂信染みていく彼の行動を、
周囲の人間も奇異な目で見るようになるが、
それでも「間もなく、人類は災厄の時を迎える。」と信じ、
ひとり孤独に準備を整えるカーティス。
そしてある日の真夜中、ついに避難警報が田舎町に鳴り響く。
強風と降りしきる雨の中、シェルターの中へと避難するカーティス一家。
はたして、
カーティスの悪夢は予知夢だったのか?
それとも、
すべてはカーティスの妄想に過ぎなかったのか?
静まり返ったトルネード・シェルター内で、
カーティスと妻と娘は、真実に向き合うべく決断の時を迎える・・・。
おおっ?!
オオオ!!
オオ、
オオオオオオオオオ!!!!!!!!
この映画のラストには、
ゾゾゾゾゾゾゾッ!と、背筋がゾクゾクして、
同時に、
ゾワゾワゾワッ!と、両腕に鳥肌が立った。
そして、流れるエンディング曲。
だけど、シェルターは遠い~
良い!!この映画、気に入りました。
カーティスを演じたマイケル・シャノンの鬼気迫る怪演に圧倒され、
本心を打ち明けない夫に対して不安や苛立ちを感じ、理解できなくても、
最後まで夫を見捨てなかった妻を演じたジェシカ・チャステインの繊細な演技に惚れ惚れし、
しっかりと描かれていた家族愛に感動。
120分間、静かに静かに進行していく展開に、飽きるどころかすっかり引き込まれ、
次第に高まる緊張感と、“まさか、まさか!”のラストシーンに、
かつてない感覚に襲われました。
第64回カンヌ国際映画祭批評家週間グランプリをはじめ、
さまざまな映画祭で絶賛されたサイコ・スリラーは、
予想以上に、心に刻まれた。
総合満足度:
『テイク・シェルター』は新婚1年目の最中に書き始めたというジェフ・ニコルズ監督。
「公私ともに順調だったにもかかわらず、
世の中の流れや経済的なこと、
老いに対する漠然とした不安を抱えていたのは、
人生の中で失いたくないものをとうとう得たからだ。」と考えたそうだ。
“不安は、失うものをもった時に生まれる”と感じた監督は、
その感情を主人公カーティスに反映させている。
追記:
未曾有の嵐が、本当に襲来したのか?
嵐は何を意味していたのか?
答えは、嵐の隠喩の受け止め方と、イマジネーション次第。
この物語は、決して破たんしてはいない。
キルスティン・ダストン主演『メランコリア』('11)も似た作品。
見比べてみるのも面白いかも。
ただし、続けて観るのは厳禁。耐えられなくなる・・・かも(笑)
追記2:
ネタバレ的に書くと、
主人公は、妻と障害のある娘を抱えた作業員。
彼が抱えているのは、
これからも、この生活を続けていけるのか?
これからも、家庭を守り切れるのか?
といった経済的な不安であり、未来への不安。
家族をもった男性ならば誰もが襲われる不安が、
やがて、悪夢に襲われるほど、彼を精神的に追い込んでいく。
彼にとって最愛の存在は娘であり、
娘を守ることがこそが男親としての使命となっている。
その彼にとって、周囲の人間も含め、
全てが彼の家族を襲う敵になるかもしれないという恐怖も抱えている。
(現実社会でいつ犯罪の被害者になるかもしれないという恐怖は、私たちの日常でもある。)
場合によっては妻さえ、自分と娘を引き離す敵に思えてしまうのは、
男親の心情の最たるものだろう。
本作の嵐は何の隠喩なのか?
つまり、いつ、どこから何が襲ってくるかもしれない恐怖の正体は、
たとえば、
リーマンショックやユーロ危機のように連鎖的に世界を巻き込む経済的な影響か?
あるいは、
二酸化炭素の排出による地球温暖化といった環境破壊なのか?
原発事故による放射能汚染か?
地震や津波による自然災害か?
そのどれもが、明日起きるかもしれないとは、
誰も予想していなかったはず。
大多数の人間が、明日も今日と同じ日が来ると思い、疑ってはいなかったはず。
だが、たったひとり、それを理屈ではなく、感じ取っていたとしたら・・・?
どんなに一個人が必死になり懸命に家族や家庭を守ろうとしても、
とうてい太刀打ちできない規模の災厄が襲ってきたら・・・。
監督が描こうとした本作の未曾有の嵐の正体は、
そういった恐怖であり、
本作のラストに嵐が襲来したのが本当かどうかの判断は、
上記の出来事が空想ではなく現実に私たちの身に起きていることであると考えれば、
自明ではないだろうか?
だからこそ、シェルターは遠いのだ。
そこでラストシーンですが、「だけど、シェルターは遠い~」ではないように思います。
何故かと言いますと海上に不気味な竜巻を見ている妻と夫の位置関係は夫達ははじめは海辺だったのに、いつの間にか妻の背後にいます。これは今度は妻が幻覚を見ていることを意味しているのではないでしょうか?
間違っていたら教えて下さい。
この作品は、3月にミニシアターで観ました。
時間も経っているし、せっかくコメントを頂いたので、
ぼくもDVDを借りてチェックしてみました。
>妻と夫の位置関係は夫達ははじめは海辺だったのに、いつの間にか妻の背後にいます。
についてですが、
ほんの短いカットなので、多分見落とされたのだと思いますが、
夫は娘を抱えたまま身を翻し、砂浜から引き返す足元が映っていましたよ。
妻が黄色い雨が降り出したことに気づき、手元を見つめている間に、夫と娘が部屋の前まで戻ってきていたということだと思います。
ラストの嵐は、ストーリー上、本当に来襲したと思います。
だからこそ、嵐雲を前に夫と妻が無言のまま目と目で見交わすシーンが生きてくると、ぼくは感じたのですが。
また、エンドロールで流れる曲の歌詞“The Shelter still so far away”の訳が、シアターでは「だけど、シェルターは遠い」でしたが、DVDでは「シェルターは彼方」になってました。
いずれにしても、この曲の歌詞が、主人公である夫の心情を表しているのだと受け取りました。
いかがでしょう?
質問への答えになってるでしょうか?
細かい観察までしなくて、勝手なコメントと書いてしまい、ご迷惑をおかけしました。
最後のシーンだけ幻覚ではなくて、現実の出来事と言うことになりますね。確かに夫と妻が無言のまま目と目で見交わすシーンは妻だけの幻覚では説明ができませんですね。
わかりにくい映画でしたが、ボクは夫が妻の元に駆け寄ってもいいと思いましたが、妻の後ろまで行ったのが気になっていました。その一点だけが記憶に残ってしまいました。
大変明快なお答えで感謝しています。ありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました。
もう一度見て、改めてこの作品の良さが再認識できました。