
日本の歴史・伝説上で怨霊になった(とされる)人物は何人も居ますが、その中で最も有名で、恐れられた者が3名。
菅原道真、崇徳上皇、そして平将門。
この3人が「日本3大怨霊」と呼ばれています。
しかし……。
京都で活躍中の妖怪絵師・伝道師である葛城トオル氏によれば、その「3大怨霊」よりもさらに恐ろしい、日本史上最大・最強(最恐)の怨霊が居るそうです。
それが、平安京遷都を行った桓武天皇の実の弟だった早良親王(さわらしんのう)です。
そして早良親王の霊を祀っているのが、今回紹介します「祟道神社」です。
先日、葛城トオル氏によって行われた「京都魔界ナイトドライブ」にて案内していただいた場所のひとつが、この「崇道神社」です。
崇道神社へのアクセスは、叡山電車の「三宅八幡」駅か、京都バスの「上橋(かみばし)」停留所が近いそうですが、今回は葛城氏に車で送っていただきました。
夜の崇道神社入り口です。

真っ暗で見えにくいかもしれませんが、奥の方に大きな鳥居があるのが見えますか?
一の鳥居をくぐって、夜中の参道を進んでいきます。本当に真っ暗闇です。

参道の途中に立つ石碑。

「御神域地」と刻まれているようです。
ここが神様の領域であることを表しているのでしょう。
二の鳥居。

これも見えにくいかもしれませんが、鳥居の看板には「崇導神社」と書かれています。
照明などもなく、本当に真っ暗闇です。
さて、ここで。
この神社で祭神として祀られている「早良親王(さわらしんのう)」とはどんな人物だったかを、少し説明します。
早良親王。天平勝宝2年(750年)? ~延暦4年(785年)。
光仁天皇の皇子。生母は高野新笠。つまり、平安京遷都を行ったあの桓武天皇の実弟です。
しかし延暦4年(785年)、当時遷都したばかりの新都・長岡京の造営長官・藤原種継(ふじわら のたねつぐ)が暗殺されるという事件が起こります。
その事件の犯人として、当時藤原氏と対立していた大伴氏と、早良親王が捕らえられます。
早良親王本人は無実を主張しましたが、皇太子の地位を剥奪されて乙訓寺に幽閉されます。
そして、嫌疑への抗議の断食によって最期を遂げています。
早良親王の遺骸は配所の淡路島へと送られ、埋葬されます。
早良親王が本当に事件の首謀者であるのかどうか。
その真相は不明ですし、また当方にはそれを確かめるすべはありません。
しかし桓武天皇によるこの仕打ちには、「息子の安殿親王(あてしんのう。のちの平城天皇)に皇位を継がせたい」という桓武天皇本人の意図があったと言われています。
当初は父・光仁天皇の遺言により、「桓武天皇の皇太子(後継者)は実弟・早良親王」と決まっていたので、桓武の望みどおりにするには早良親王が邪魔だったというわけです。
そのために早良親王に冤罪を被せてつぶした。そんな説が有力です。
菅原道真のケースだけでなく、古今東西、冤罪の捏造は権力闘争の常套手段のひとつです。
ここに、早良親王が怨霊化する、あるいは「怨霊になった」と囁かれる原因があります。
話を戻します。
参道を進み、本殿へと続く階段を上ります。
階段を上がっているのが、葛城氏です。

本殿前の手水舎付近。

この付近は照明があって、境内でも比較的明るい場所です。

ぶれてしまってみえにくいですが、写真の階段上を歩いているのは葛城氏です。
さて、ここでまた話をはさみます。
早良親王の死後、桓武天皇とその周辺で、祟りとも思えるような不幸が続きます。
桓武天皇と早良親王の生母・高野新笠の病死。
藤原旅子(たびこ)・藤原乙牟漏(おとむろ)・坂上又子(さかのうえまたこ)・多治比真宗(たじひのまむね)と、4人の妃の病死。
そして、皇位を継がせようとした息子・安殿親王も発病で生死の境を彷徨います。
天皇個人にだけでなく、社会的にも桓武政権を揺るがす凶事が頻発します。
天然痘の流行。洪水や干ばつなどの災害。皇室の守り神である伊勢神宮の焼失など。
「これは早良親王の怨霊の仕業に違いない」と恐れを抱いた桓武天皇は、淡路島にあった早良親王の墓周りに堀を掘らせたり、祈祷を行ったり、早良親王に「崇道天皇」の称号を贈ったりしました。
延暦11年にはついに造営したばかりの長岡京を放棄し、延暦13年には、怨霊から霊的に防御できるための新しい土地……現在の京都・平安京に遷都します。
なお、桓武天皇が恐れたのは、早良親王の怨霊だけではありません。
地位と権力を手に入れるために桓武は、異母弟の他部親王(おさべしんおう)やその母・井上内親王(いのえないしんのう)など、親族を含めた何人もの人を死に追いやっています。そうして葬ってきた人たちの恨みや怨霊も恐れなければならないほど、心にやましいことがあったのです。
そして、怨霊からの霊的防御のために、風水を行ったり(注:京都が風水で言う「四神相応」の地として選ばれたことは有名)、多くの寺社仏閣を建立したのです。
つまり今の京都が存在するのは、桓武天皇などの権力者によって葬られてきた多くの怨霊のおかげとも言えるのです。
言い換えれば、「怨霊や人の恨みを恐れなければならないような、心にやましさのある権力者たちが千年の都・京都を造った」とも言えます。
そう考えれば、少し複雑な気もしてきます。
なお、葛城トオル氏が「早良親王は3大怨霊を上回る最大・最強の怨霊」とした理由。
それは、「国・社会全体にもたらした被害の大きさ」です。
都をひとつ潰すほどの被害をもたらした怨霊は、早良親王だけですから。
再び、話を戻します。
いよいよ、本殿へと参拝します。

日本最大の怨霊が眠る夜の魔所。
そう思えば正直、少し怖いと感じると共に。
不謹慎だというお叱りを覚悟の上で言えば、妖怪ヲタクとして、オカルトマニアとして、「夜の魔所に立っている」というある種の興奮があったことは否定できません。
崇道神社境内の裏山には小野毛人(おののえみし)という人の墓もあったのですが、さすがにこんな真っ暗な中を進むのはやめて、ここで帰ることにしました。
ところでこの崇道神社は、都(現在の京都市街)から見て北東の方向にあります。
そのため、「怨霊神となった早良親王は、都の鬼門を守る神としてこの地に祀られた」とする説もあるそうです。
しかし葛城トオル氏は、こうした説に異を唱えておられます。
何故なら、当時は「鬼門(=北東)」という概念はまだ確立されていなかったから、とのこと。
では何故、このような場所に早良親王が祀られているのか?
それは、この地が小野氏の領地だということに関わりがあるそうです。
この地に関係の深い「小野毛人(おののえみし)」という人物。
そして、小野篁(おののたかむら)や、小野小町などの有名人を輩出した小野氏という氏族。
彼らは一体何者なのか?
どのような人たちだったのか?
葛城氏から小野氏や小野毛人についてのお話も聞きましたが、それはここでは敢えて言わないでおきましょう。
もし、そうした話にご興味のある方は、葛城氏に直接尋ねられるか、あるいは葛城氏主催のイベントに参加されるとよいでしょう。

それでは、今回はここまで。
また次回。
*「崇道神社」へのアクセス・周辺地図はこちら。
*『妖怪堂』のホームページ
http://www.maekake.com/yokai_index.html
*葛城トオル氏のブログ
http://blog.livedoor.jp/maturowanumono/
*葛城トオル氏のツイッター
http://twitter.com/yokaido
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm




