豆で鬼を追い払うという、節分の豆まき。
その発祥となったとされる「豆塚」の伝承が遺る霊場を訪れました。
どうも、こんにちは。
仕事などオフの多忙が続き、前回記事から長いこと更新を滞らせてしまいましたが、ぼちぼちと、少しずつでもシリーズ再開していきたいと思います。
シリーズ前回の深泥池地蔵堂の前から。
少し北へ歩きますと。
目指す深泥池貴船神社の出入り口が見えてきます。
入り口鳥居の付近に由来が書かれた石碑が。
石碑の記述によれば、古くから京都の水源ともされた貴船神社の神様「たかおかみのかみ(注:名前の漢字が難し
すぎてここでは変換できないのでひらがなで表記)」を祀られています。
当時は洛中から山奥の貴船神社への参詣は大変だったようですから、寛文年間(1660-1670)の10月23日に分霊と勧請が行われたのがはじまりだそうです。
それだけ当時から、貴船の神様は熱心に信仰されていたのでしょう。
なお、貴船神社について詳しい記事は、本シリーズの『貴船・鞍馬関連エントリー集』に幾つもあります。
まずは本殿へ。
本殿に礼拝。
さて、ここで。
節分の豆まきの由来ともなった「豆塚」の伝説について語ります。
昔、深泥池のほとりに、大きな洞穴があった。
ある夜、一人の村人がその近くを通りかかり、二人の鬼が「村を襲って、食糧や家畜を略奪し、娘をさらおうか」という話をしていたのを聞いてしまう。
恐ろしくなった村人は、村の庄屋にそれを伝えた。
しかし庄屋もどうしていいかわからず困っていたら、庄屋のおばあさんが「それなら貴船の神様に相談してきたらどうか」と言ったので、庄屋は御神酒と供え物を携えて、貴船神社へと参拝に行った。
貴船神社の本殿で祈り、事の次第を訴えると、神様からお告げがあった。
まずあの鬼たちは、深泥池まで続いている神社端の穴を通って村へと行くので、穴の入り口を塞ぐこと。
そして、柊の先に鰯(いわし)の頭を付けて岩の戸口に結びつけて、鬼に対する目突きとすること。
そして田の神様にズイキで作ったなますを供えて田を守ってもらうように頼むこと。
以上のお告げを受けた庄屋は村人を集め、神様のお告げを伝え、鬼を迎え撃つ準備をはじめた。
節分の夜、穴から出てきた鬼は、匂いにつられて村の家の戸口に付けられた鰯の頭にかぶりつき、柊の葉で目を突かれて怯む。
そこを村人総出で、鬼が苦手な炒り豆を投げつけた。
鬼は元の穴に逃げ帰り、村人たちは多くの豆で穴の出口を塞ぎ、その上に土を盛って「豆塚」とした。
また入り口には豆を入れた枡をを埋めて「桝塚」と名付けた。
以上が、節分の豆まきの由来ともなったという、この地に伝わる「豆塚」と「桝塚」の伝承です。
しかしながら、現在ではその「豆塚」と「桝塚」の場所はわからなくなっているそうです。
(その真偽のほどはわかりませんが)昭和のはじめ頃までは、節分に豆塚を訪れて豆を捨てる風習があったそうですが。
何とも惜しい、残念な話です。
私がここを訪れた時も、その痕跡らしきものすら発見することはできませんでした。
ここで境内散策へと戻ります。
弁財天社へ。
役行者も祀られています。
役行者が二人並んで立っているのは珍しいですね。
最初私は、道祖神の一種かと思いましたが。
ところでここで。
先ほどの「豆塚」「桝塚」の伝承には続きがあったので、それについても少し語ります。
穴を塞がれて地上に出て来られなくなった鬼は、払いせに地中で暴れるが、田の神の怒りをかい、モグラにされてしまう。
しかしモグラにされても鬼は懲りず、田畑に穴を開けてまわった。
そこで、子どたちが棒などを持って「ウンゴロモチ(もぐら)や おやどのか まんまくどうの おんまえどう」と掛け声をかけて鬼を追い出したという。
それ以来、この辺りでは節分になると、一銭銅貨と年の数だけの豆を包んで身体の悪いところをさすり、田んぼの四隅に置くという風習が出来たという。
そうすると鬼が豆と共に悪いところを持って行って、悪いところは治ると信じられてきた。
以上が、現在でも西賀茂地域の一部に伝えられているという、「ウンゴロモチ」という子どもの祭の由来だそうです。
もし次の節分に休みが取れたら、是非とも訪れたいものです。
しかし、「鬼という、自分たちに脅威となる存在さえ、現世利益の為に祀って利用する」という発想がいかにも日本人的だと、私は思うのですがね。
さて、ここで境内散策に戻りますが。
あともうひとつ。
面白い伝承が・・・というより、明治・大正期の話ですから・・・面白い話の遺されている場所を巡ります。
火伏せの神様が祀られている秋葉神社です。
ここには、京漬物の一種「すぐき(すぐき漬け)」が出来た由来を記した石碑も建っています。
その内容は次の通り。
この地域には火伏せの神様である秋葉権現が1200年程前から祀られてきたが、明治の廃仏毀釈の折、賀茂神社(上賀茂神社か?)の社家によってその神
社は破壊された。
修復しないまま放置していると、その翌年、村が大化に見舞われ、家財一切が消失した。
村人が失意の中にいると、各家の漬け物桶だけが焼け残り、中からいい匂いがした。空腹に耐えかねて中身を食べたところ、「酸い(すっぱい)茎だった」というので、それを「すぐき(すぐき漬け)」と名付けた。
これが「すぐき」の発祥となったそうですが、村人は「日の神である秋葉神社の神様が私共に罰を与えると共に反省を求め、声明の根源である酵素の漬物を
恵み賜った」として、今日に伝えているのです。
前回記事と同じく、ここはかつて平安京と外の世界との境界だった
場所。
それもあってか、面白い鬼や神様などの伝承が遺されている。
現在も続く、我々日本人にも馴染みである節分の豆まきの由来となった話も。
しかしその地が、一見何の変哲もない、ごく普通な郊外の住宅地の中にある。
やはり、京都の霊場魔所巡りは、面白くて、まだまだやめられませんね。
今回はここまで。
また次回。
※ところで2024年の目標で、「本シリーズでの新規スポットの記事を最低でも20以上、出来れば30以上書く」としましたが、今回で8カ所目。
目標まであと9本(9カ所)です。
・・・とは言っても、もう今年最後の日になってしまったので、達成は無理そうですが。
来年の抱負・目標含めて考え直さざるをえないですね。
*「深泥池貴船神社」の周辺地図かこちら。
*『京都妖怪探訪』シリーズ
https://kyotoyokai.jp/