ロシアの北都 サンクトペテルブルク紀行

2005年秋から留学する、ロシアのサンクトペテルブルク(旧レニングラード)での毎日を記します。

スティーブン帰国

2005-10-07 19:05:24 | Weblog
2005年10月07日 最新の出来事
・日本センターでニュースをチェックしていると、横浜事件(戦時下最大の言論弾圧事件とされる)の再審が60年の長い時間を経て10月17日に横浜地裁で開始されるという記事を見つけた。(朝日新聞インターネットサイトhttp://www.asahi.com)再審が開始されることに安堵しながらも、日本の刑事訴訟は真実を明らかにするのにかくも時間を要するものかと危機感を感じた。
・ブログの記事、やっと10月に突入。ヨーロッパ豪遊を計画中のM(アメリカ留学中)から私の予定を早めに決めてくれと言われている。2006年をロシアで迎えるかチェコで迎えるか、私にとって一個の問題である。

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2005年10月01日
ロシア滞在31日目
【今日の写真:"Fish Fabrique"に集まったメンバー(左からエリン(スウェーデン)、スティーブン(スイス)、ニコラス(スウェーデン)、名前分からず(スコットランド)、名前分からず(アメリカ)、エイブリ(アメリカ)】

今日の主な動き
04:37 帰宅
09:19 起床
09:38 メモリースティックからコンピューターウイルス検出
12:31 タクシーで出かける
13:01 Пулково国際空港
13:17 スティーブンと別れる
13:30 バスで空港出発
13:44 モスコフスカヤ駅
14:06 ネフスキー通り駅 乗り換え
14:10 ガスティニードヴォル駅
14:13 マヤコフスカヤ駅
14:24 帰宅
15:57 出かける
16:07 マヤコフスカヤ駅
16:15 ガスティニードヴォル駅
16:30 洗濯屋
16:55 カザン聖堂向かいのインターネットカフェ
18:29 ネフスキー通り駅
18:37 マヤコフスカヤ駅
18:46 薬局
18:50頃 帰宅
19:40頃から 部屋を引っ越す

 早朝、スティーブンと帰宅する途中に歴史の話をする。「日本も中世、産業革命など、ヨーロッパと同じ時代区分があるのか?」と彼が聞いてきたことがきっかけ。日本にはヨーロッパと異なる時代区分があり、産業革命もヨーロッパのそれよりだいぶ遅れたことを説明した。彼は「これまで日本の歴史はほとんど知らなかった」と言っていたが、日本語だけでなく日本の歴史にも興味をもったようだ。

 ロシアに来てからというもの珍事が後を絶たない。今日はあろうことかコンピューターウイルスに感染してしまった事実が発覚。
 朝デジカメのデータをパソコンにコピーする作業をしようとすると、ウイルスを発見した旨の警告が画面に表示された。私が使っているノートパソコンはウイルス対策として、日本でもロシアでもネットワークから一切隔離しているため、何らかの外部メディアから感染したとしか考えたれない。どこにウイルスがあるか調べると、デジカメのメモリースティックの中。見たこともない101MSDCF.exeなどというファイルがいくつか勝手に出来ていて、bloodhound.W32.VBWORMなど7つのウイルスが検出された。即座にウイルスを除去したが、ハードディスクが心配。これでパソコンが使えなくなってしまったら私にとっては大きな痛手。そこで約40分をかけてメインのドライブをスキャンした。幸い異常はなかったが、ウイルスに感染したのは15年近いパソコン歴の中で初めての出来事。こんな形で感染することもあるのかと参ってしまった。
 メモリースティックを渡したカメラ屋は昨日、一昨日で2件あるが、どう考えてもプリントを注文した方のカメラ屋が怪しい。機械が遅かったのは、今思えばウイルスのせいではないのだろうか。いつもならCDからプリントを注文するのだが、安易にメモリースティックを渡すことは実に危険であることを痛感した。

 さて、今日はスティーブンがスイスへ帰国する日。出発前に彼は私の部屋へ来てテレフォンカード、ガイドブック、メトロのコインなどをくれた。ガイドブックはスティーブンが気に入ってよく使っていたものである。「これは記念に持ち帰りなよ」と言うと「君にあげたいのだ」と言われ、ありがたく頂戴する。
 15時のフライトに間に合うように彼はお昼に家を出る。最後にナジェージュダと私と3人で記念写真を撮り、やたらと重い巨大なかばんを私も手伝って一緒にひきずりながら
外へ。出口のソファーに座るようナジェージュダは私達にすすめ、スティーブンの隣に座って彼に何か言っていた。彼女は階段の下までは見送りに来なかった。これもロシア風の別れ方なのだろうか。
 スティーブンを空港まで見送るため、通りで待っていたタクシーに乗って一緒に出発。3ヶ月滞在したペテルブルク最終日、彼はどんな思いで街の様子を眺めているのだろうか。車内で、彼にもらったガイドブックを眺めていると、最後のほうのページにメッセージが書かれているのを見つけた。昨日私もメッセージカードをあげていたが、このメッセージはそれに対して「私はあなたほど上手いこと言えないけど」で始まり、その中には、「日本への興味が10倍増加した」とも書かれてあり、最後には私が考案した彼の名前、「馬手資吉」の文字もあった。スティーブンとともに過ごした1ヶ月は短かったが、彼のおかげでロシアでのスタートが上手くいった。ホストファミリーとの会話が通じないときは通訳をしてくれた。映画や飲みに誘ってくれて、友達というかけがえのない財産を与えてくれた。彼には本当に感謝している。
 タクシーの中で、スイスまでどれくらい時間がかかるのかたずねた。乗り継ぎのドイツ・フランクフルトまで3時間、ドイツからジュネーヴまでは1時間。スイス時間の18時(こちらの時間で20時)にはジュネーヴに着くというから、乗り継ぎ時間も含めてわずか5時間でスイスに到着するわけだ。日本から20時間以上かかったのに比べればかなり短い。ヨーロッパの近さに衝撃を覚えた。

 空港の入り口でセキュリティー検査があり、案の定私はひっかかり、スティーブンもひっかかっていた。出発便の電光掲示板には彼の乗るフランクフルト行きFH3217便を筆頭に、ワルシャワ、パリ、アムステルダム、ロンドン、ビシュケク、アスタナ、ソウルなど各地への飛行機がずらりと表示されていた。ペテルブルクからこんなにいろんな便があるのかと感心した。ところでその電光掲示板には英語の表記のみでロシア語の表記がなく、どうしたことかと思った。海外に行く人は英語が出来ることが前提なのだろうか。英語が出来なければ出国を認めないとか?
 荷物も大きいことだし、ぎりぎりまで見送って中でお茶でも飲もうと話していたのだが、セキュリティーチェックの先は"Passenger Only"。そこの係は英語も出来たので、「見送りたいのだがだめか?」と一応聞いてみるがやはりだめ。やむを得ずスティーブンとはそこで別れることに。

 出口へ向かう途中、警官みたいな人に声をかけられ、パスポートの提示を求められた。私はそんなに怪しかったのかな?ビザ更新手続きのため今のビザには無効印が押してあったが、ペテルブルク大学の学生だと言うと分かってくれた。

 空港からは地下鉄の駅までバスが出ている。バス乗り場にいたおばちゃんに声をかけて乗り場を確認すると、「向こうだ」と教えてくれた。バスを待つ間、すぐそばでタクシーの運転手らが「タクシーどうだい!」と声をかけてくる。タクシーの何十倍も安いバス乗り場の前で客引きをするのだから度胸がある。こんなところで待ってても乗る人いるのかな?せめてもうすこし離れたところでやったらいいのにと思った。
 バスは10ルーブル、地下鉄も10ルーブルで、わずか20ルーブルで家に帰れた。行きのタクシーが600ルーブルだったことを思えば、30倍の違い。タクシーが高いと言うより、バスや地下鉄が安すぎるのだ。

 帰宅後洗濯屋へ行く。アントンが店番をしていたが今日は混んでいるらしく、また出直すことに。帰り道にインターネットカフェに寄ったがUSBメモリーが使えずブログを更新できなかった。

 夜、ナジェージュダが部屋を引っ越すようすすめてきた。今までスティーブンがいた部屋の方がやや大きく、そっちを用意してくれたとのこと。これまでの部屋は夕陽が差し込んできて良かったのだが、今度の部屋も大きくて良さそう。ジュコフスキー通りに面しており、窓からは通りの様子が見える。

 話は変わるが、冬休みにヨーロッパ旅行を計画中。アメリカ留学中の同期、M原K太氏が冬にヨーロッパへ豪遊しに来るというので、ヨーロッパ留学組のうちフランスのI、チェコのMとロシアの私の3人も一緒にイギリスやイタリア、オーストリアなどを観光しようという話。
 今日出発前にスティーブンにその話をしたところ、「連絡くれれば、例えばフランスなら車で6時間だから、可能ならば会いに行く」と言ってくれた。その言葉にヨーロッパの人々の意識が現れていることを感じた。ヨーロッパの人々にとっての外国観は、私達日本人にとってのそれとだいぶ異なるようだ。日本は島国で、古来他国に列島を支配された歴史を持たない。(もっとも、戦後のGHQによる占領や、騎馬民族征服王朝説など一部の学説を除けばであるが。)私達日本人の中には、日本列島をもって明確に日本という領域を画することができるという意識があると言って間違いないはず。
 それに対してヨーロッパでは古くから諸勢力が領土の統一と分割を繰り返し、それらの境界線は常に変化してきた。その過程で諸共同体、諸王朝は緊密な交流で結ばれ、システムやネットワークを共有してきた。ウェストファリアで主権国家体制が確立したのは今からわずか350年前のこと。そんな歴史を考えればむしろ当然と言えるかもしれないが、今日でもヨーロッパの人々の中には自分は~人と言うより、多くの共通性を共有してきたヨーロッパの一員であるというような意識が根底にあるように私には思えるのである。
 だからこそ彼らはいとも簡単に国境を越えるし、当たり前のように近くの国の言葉を勉強して何カ国語も話したりする。それがヨーロッパ統合へと向かう原動力の一つになっているのではなかろうか。これまでスティーブンはじめ各国からの留学生と語りながら、私はそう感じた。物理的にも精神的にも、ヨーロッパは「近くて近い国」なのだ。