公民・歴史教科書問題を中心に教育問題を考えていくブログ

恐るべき公民教育の問題を中心に扱っています。かなりの割合で小山常実氏のブログ(特に教科書資料)や著書を参考にしています。

【教科書採択運動】公民は自由社の「新しい公民教科書」、歴史は自由社の「新しい歴史教科書」を採択すべき!【報道されたほど保守ではない令和書籍/自由社は令和書籍のような右翼ではありません】

2024-04-22 00:41:43 | 恐るべき公民教育

↓前回の記事で述べたように、自由社の「新しい公民教科書」「新しい歴史教科書」、令和書籍の「国史教科書」はともに「極右」性を大きく改善し、むしろ他社よりも使いやすくて、自由社に至っては「他社の方が極右なのでは」と思わせるほど改善されていました。

【歴史も公民も自由社一択】「新しい公民教科書」「新しい歴史教科書」は「普通の教科書」である!【令和書籍の「国史教科書」もあり】

今は教科書採択の時期です。ぜひ、公民は自由社の「新しい公民教科書」、歴史は自由社の「新しい歴史教科書」、令和書籍の「国史教科書」を採択するよう呼びかけてください!

どうして改善されたとは言え、保守色が残る令和書籍を出すのかというと、「自由社は極右」という先入観を排除するためです。保守色が残る令和書籍と自由社を比較すると、本当に自由社は極左のように見えてきます。保守色が残る教科書との比較ですから、実際には中道(むしろ左翼)です。

自由社は、令和書籍のような右翼ではありません。

各自治体のホームページに意見欄があるので、ぜひそこで訴えてください。私は、例えば次のような文を送りました。これをコピーするだけでも良いので、教科書採択に少しでも関心を持ってください!!!!

1 機能面に特化したもの。※字数の問題で令和書籍の所に「せめて」がないので2を用意しました。

公民教科書は自由社の「新しい公民教科書」、歴史は自由社の「新しい歴史教科書」、令和書籍の「国史教科書」を採択してください!

自由社の「新しい公民教科書」には

①単元の内容が一発で分かる!「ここがポイント!」

②振り返りから「考える学習」へ!「学習のまとめと発展」

③章ごと・単元ごとの「学習課題」で主体的に学べる!

④生徒の考察力を育む「やってみよう!」「アクティブに深めよう」

⑤分かりやすい!「概要→詳細→課題・議論」の構成

⑥どれぐらい学習してるか一目で分かる!単元の「通し番号」

⑦家族と国家の機能をしっかり解説

⑧近隣諸国の人権問題で学ぶ!世界的視野を持てる最先端の人権教育

⑨自由を守る!経済的自由権の意義をしっかり解説

⑩日本も世界も大切に!「世界の公民」としての生き方

という特徴があります。

自由社の「新しい歴史教科書」には

①どのタイミングで見れば良いか一発で分かる!コラムにまで拡大した「注釈番号」

②アクティブ・ラーニングが最も充実!

③どれぐらい学習してるか一目で分かる!単元の「通し番号」

④レベルの高い折り込み年表付きで習熟度別学習に最適!

⑤親しみやすいオール敬体

⑥学習への興味・関心が深まる!章の導入の「登場人物紹介コーナー」

⑦学習した内容を一発で振り返られる!「まとめ図」(簡単な年表)

⑧良いことも悪いこともしっかり書いて基礎的な考え方が分かる!

⑨人物や面白い資料が豊富で楽しく学べる!

⑩政府見解を押し付けない

という特徴があります。

令和書籍には

①時代の主役がタイムスリップした!?興味・関心をそそる各章1枚ずつのアニメ調の挿絵

②アクティブ・ラーニングに最適!単元ごとを超えて「小見出しごと」にある学習課題

③普通の学校から進学校まで全ての学校に最適!基本的な事項は「本文」、ハイレベルな内容は「側注」と明確に区別して分かりやすい!

④これは覚えやすい!導入は重要事項だけの「簡略年表」、最後は細かいところまで書く「詳細年表」

⑤賛成か反対かだけではない!日本を超えて外国など、複数の立場を考える「まとめ学習」

⑥教科書史上最も高画質!豊富な写真がもちろんフルカラーで掲載された「日本美術図鑑」

⑦「大宝律令の完成は独立国の証」など、明快で分かりやすい小見出し

⑧右翼的なのは見出しだけ!読んだら右翼的じゃないと分かるコラム!

という特徴があります。

※1000文字制限に対応しています。

2 思想比較に優れたもの。

公民・歴史教科書は自由社の「新しい公民教科書」と「新しい歴史教科書」を採択してください。比較すれば分かりますが、自由社は令和書籍のような右翼ではありません。「世界の公民」になることを推奨し、政府見解を押し付けず、生徒の自主性を育む「真っ当な教科書」です。暗記中心でつまらない、東京書籍の公民・歴史教科書、学び舎・山川出版の歴史教科書は絶対に採択しないでください!!!!教育出版や帝国書院、日本文教出版も面白みに欠けています。読んでいて一番面白いと思ったのが自由社です。教師用指導書は一箇所でも「公立が」採択すれば確実に発行されます。心配する必要はありません。

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【歴史も公民も自由社一択】「新しい公民教科書」「新しい歴史教科書」は「普通の教科書」である!【報道されたほど保守ではない令和書籍/自由社は令和書籍のような右翼ではありません】

2024-04-15 02:42:51 | 日本

●「極右教科書」から「普通の教科書」になった自由社

新しい歴史教科書をつくる会が執筆する公民・歴史教科書は発行元が「扶桑社」だった時代は「極右」としかいえない代物でした。他国を排除することを是とする間違った愛国心や戦争することが良いことだという思想を押し付けていました。

しかし、現行版(令和元年度検定合格・令和3年度使用版)から、最近、検定結果が公表された次回版(令和5年度検定合格・令和7年度使用版)を経て、その「極右」性は大きく改善され、次回版ではついに完全に「普通の教科書」となりました。

私は以前、同じようなものだろうと思って「極右」の令和書籍と比較したのですが、その差にびっくりしました。「極右」の令和書籍と比べれば、むしろ自由社は「極左」のようにすら見えてきます。

※今回、教科書検定に合格した令和書籍も見てみたのですが、検定過程や執筆者の努力で大幅に改善されていて報道されほど、右翼ではありませんでした。右翼色はありますが、そこまで気になるものでもなかったです。むしろ、使いやすいので、他社より良いと思います。一つ確かなのは、自由社は令和書籍のような右翼ではないことです。

●新しい公民教科書の大幅な改良

まず、自由社の「新しい公民教科書」の変化を見ていきます。実は新しい公民教科書は自由社が初めて出した平成24年度使用版の時点で結構良くなっていました。

平成24年版からの改善も含めて新しい公民教科書の良くなった点をあげていきます。

まず、機能面では、次の6点で非常に良くなりました。

①単元の内容が一発で分かる!「ここがポイント!」(自由社だけ!)

②振り返りから「考える学習」へ!「学習のまとめと発展」(自由社だけ!)

③章ごと・単元ごとの「学習課題」で主体的に学べる!(自由社だけ!)

④生徒の考察力を育む「やってみよう!」「アクティブに深めよう」(自由社だけ!)

⑤分かりやすい!「概要→詳細→課題・議論」の構成(自由社だけ!)

⑥どれぐらい学習してるか一目で分かる!単元の「通し番号」(自由社だけ!)

まず、①から見ていくと、自由社は、他社と異なり、単元(見開き1ページ)の右下に「ここがポイント!」という単元を簡単にまとめたものを入れています。

例えば、単元24の「身体の自由と精神の自由」では、「ここがポイント!」で「①日本国憲法は自由権を最大限に重視し、身体が不当な拘束や侵害を受けない身体の自由、内心における思想や信教と、その表現に関する精神の自由を保障する。②表現の自由は、健全な民主政治に不可欠である。」と記述しています。

単元の内容を一発で振り返ることができ、非常に優れた記述です。このような記述は、他社の公民教科書、なんなら歴史教科書まで読みましたが、一個も存在しませんでした。中学生の身としては普通に使いやすいので全社が導入すべきです。

②では、自由社は他社のように振り返りなしにひたすら「考える」ことだけをせず、振り返り(まとめ)→考える(発展)と段階を踏んでいます。さらに、振り返りでも、生徒の考える力も一緒に育めるよう工夫されています。

例えば、「第4章 国民生活と経済」では、1ページを半分に分け、左側で「学習のまとめ」と題して、章の中で登場した最重要語句(太字の重要語句の中でも重要なもの。)を単元ごとに掲げ、それについて3つの課題を課しています。

例えば、問題1では「最重要語句の中から最もよく理解している語句を3つ選び、その語句の意味について約100文字でノートに書き出してください。選ぶ数は増やしてもかまいません。」としています。他社には一切存在しない、学習内容が「本当に」理解できる教科書です。

③に移ります。さらに、自由社は章ごと、単元ごとに学習に向けた「問い」を設けています。例えば、第1章 個人と社会生活では、「私たちは、家族や学校などの小さな社会に、そして地域社会や国家という大きな社会に暮らしている。そうした社会の仕組みは、どのようになっているのだろうか。」という問いを設けています。

その上で序章の単元6 家族の役割と形態の変化では「いちばん身近な社会集団である家族とは何だろうか、考えてみよう。」という問いと設けています。この問いも、他社と異なり、本文を丸暗記するだけでなく、考える必要があるものが多く、思考力を育む点で優れたものになっています。

さらに、自由社は大コラムでも、問いを設けています。他社でも単元や章レベルで問いを設けるものは多いですが、大コラムで設けているものはありません。明らかに、自由社は「主体的な学び」という点で飛び抜けた教科書です。例えば、もっと知りたい 選挙制度と政治参加では「選挙は国民にとって、最も重要な政治参加の方法である。選挙制度と政治の関係はどうなっているだろうか。」という問いを設けています。

④です。自由社は他社と異なり、ほとんどの単元で「やってみよう!」という課題を設けています。例えば、単元4 日本の自画像では「外国人に「日本はどんな国ですか」と聞かれたらどのように答えるか、考えてみましょう。」という課題があります。

それだけでなく、自由社は章ごとに2つぐらい「アクティブに深めよう」という大コラムを設けています。例えば、経済編の「お店を出店しよう」では、①まちにはどんなお店があるか、②何のお店を出店するか、③具体的なお店の内容、④お店の経営方法、⑤主力商品、⑥企業の社会的責任について話し合ったあと、企画書を書かせる構成になっています。しかも、企画書のベースが教科書に載っています。他社にはない構成です。

⑤に移ると、内容面のところでも少し触れますが、自由社は一貫して「概要→詳細→課題・議論」という構成をしています。例えば、政治編の冒頭では、国家の成立からはじめ、国民の権利の保障など国家の基本的な役割を記した上で、民主主義や立憲主義を語っています。これに対して他社は全て民主主義や立憲主義から政治を語っています。

東京書籍以外は政治権力の説明だけはありますが、自由社にはある「社会秩序の維持」という国家の役割も書かれておらず、政治権力の意味が良くわかりません。比較的良いもので言えば教育出版が「国家は国民の自由と安全を守るために強大な権力を持っています」などと記しています。

自由社は政治編以外でも、経済編などでも、経済財(有形財とサービス)、私的財と公共財など経済の基本的なことを説明してから入っています。これに対して他社はいきなり貿易の話から入るものが相当数あります。これでは意味不明です。

最後に⑥です。自由社は単元ごとに番号を設け、しかもそれを章をまたいでつなげています。他社にも単元番号はありますが、章ごと、節ごとなどで切れてしまいます。章をまたいでつなげていると、自分が今どれぐらい学習したのかがすぐに分かり、また、学校の先生が授業計画をつくるさいの目安にもなります。通し番号の方がいろいろと使いやすいです。

続いて内容面では、次の点で優れています。

①家族と国家の機能をしっかり解説(自由社だけ!)

②近隣諸国の人権問題で学ぶ!世界的視野を持てる最先端の人権教育(自由社だけ!)

③自由を守る!経済的自由権の意義をしっかり解説(自由社だけ!)

④日本も世界も大切に!「世界の公民」としての生き方(自由社だけ!)

①に、自由社は他社と異なり、家族と国家の機能をしっかり解説しています。自由社は、家族について共同体と定義し、いこいの場、人間形成の場、生活の場、家族の絆を深める場、伝統文化を継承する場、世代間のつながり(縦のつながり)を感じられる場などの機能があると説明しています。

また、人間形成の場を説明するにあたって、親は子どもを養ったり教育したりする権利や義務があることを紹介しています。その上で、現代の家族の多様性に触れ、個人の尊厳と両性の本質的平等、男女共同参画社会について詳しく解説しています。

これらを全て合わせて2単元(基本的に1単元1時間)4頁の分量を当てています。20代後半以上の人なら、この程度の説明は当たり前だろと思うかもしれません。しかし、平成23年版以降、家族について説明している公民教科書はごく少数です。例えば、東京書籍や教育出版は数行の中で単に人間形成の場としているにすぎません。しかも、親子関係には全く触れていません。家族の定義は単に社会集団とするか「身近な社会集団」とするのみです。

自由社と比べれば劣りますが、帝国書院と育鵬社が若干マシです。しかし、両者とも家族の絆を深める場、伝統文化を継承する場、世代間のつながり(縦のつながり)を感じられる場については書いておらず、親子関係にも触れていません。帝国書院は8行ほど、育鵬社は1単元2ページほどで説明しています。一応、家族の定義については両社とも共同体とはしないにせよ、「基礎的な社会集団」とはしています。

家族の説明もなしに人間が本来社会的存在であることなど分かるでしょうか。家族などの身近な集団で自分が担っている役割と自分が受けているものを教えて自覚させることではじめて、人間が本来社会的存在であると分かるのではないでしょうか。

学習指導要領は主体的・対話的で深い学びを要求しているのに、公民教科書はどんどん暗記ものになっています。家族についてしっかり説明する自由社を採択することが生徒のためになります。

先ほど少し話しましたが、自由社は国家についても基本的なことを説明しています。まず、国家を農作業の共同と外敵からの作物などの防衛の必要性から生まれた共同体と定義し、古代は防衛、社会資本の整備、社会秩序の維持、近代以降は国民の自由と権利の保障も担うようになったと説明ています。

このように説明されてはじめて民主主義や立憲主義が本当の意味で理解できるでしょう。これに対して暗記型の他社は国家の基本的なことを全く説明しません。単語を教え込んでるだけです。日本会議の「教育は押し付けるもの、植え付けるもの」を連想させます。自由社はなんとなく日本会議と一番近そうなイメージがありますが、実は一番遠い存在なのです。本当に日本会議と近いのは東京書籍、帝国書院、教育出版、育鵬社、日本文教出版なのです。

ただし、育鵬社は民主主義や立憲主義を説明してしまったあとではありますが、国際社会編で「国家と私」という単元でわずかながら国家の基本的なことを説明しています。また、東京書籍も、やはり民主主義や立憲主義を説明してしまったあとではありますが、地方自治のところでわずかながら地方と国の役割分担を書いています。

自由社のように家族や国家をしっかり解説する教科書が求められています。生徒の主体的な学びの観点からも自由社は最も優れています。

②に、自由社は人権教育の面でも優れています。自由社は、基本的人権全体の説明、自由権の説明、平等権の説明、社会権の説明、参政権の説明、請求権、新しい人権の説明などにおよそ20ページほど当てています。これは他社よりもずば抜けて多い分量です。

さらに、自由社は人権の副題として国際社会における人権問題も扱っています。アパルトヘイト、難民問題、日本人拉致問題、ウイグル、チベット、満州、内モンゴル、北朝鮮などの人権問題をおよそ10ページほどかけて説明しています。また、人権問題とは少し外れますが、差別問題の一貫として日米合同委員会についても秘密会やアメリカ側が圧倒的な発言権を持つなどの問題点を指摘しながら書いています。

これに他社は国際社会における人権問題は1ページから多くても2ページ程度しか扱っていません。自由社が国際的な視点を持っているのに対し、他社は日本という狭い視点でしか見ていないのです。日本のことが大事なのは分かりますが、わざわざ国際社会編がある意味を考えてほしいものです。このことは最後の「世界の公民」にも影響してきます。

③にいきます。自由社は、人権教育の中でも今まであまり重要視されていなかった経済的自由権の説明にも力を入れています。もちろん、経済的自由権がほかの自由権より制限を受けやすいことは書いています。一方、経済的自由権は、個人を自立させ、精神活動の自由を根底的に支えます。そのことを自由社はしっかりと書いています。他社は「生活のためにお金を使う」ぐらいしか経済的自由権の意義を書いていません。

④を見ると、自由社は、国際社会編の最後のところで「「世界の公民」としての役割を果たす」と書いています。さらに、側注では「公共の精神をもって、世界が平和になり、人類が幸福になることを願うならば、精神的な意味で「世界の公民」となりえる。」と書いています。

このような記述は他社にはありません。自由社は日本のことも世界のことも考えた、真の国際貢献というものを熱心に説いています。一方、他社が説く国際貢献はうわべだけのものにすぎません。

これで自由社の「新しい公民教科書」のすごさがご理解いただけたのではないでしょうか。教育委員会の方々も「自由社は右翼だから...」というイメージにとらわれずに、「今の自由社は右翼じゃないぞ」とはっきりと声をあげて、生徒のためになる自由社を採択してください。

●新しい歴史教科書の大幅な改良

新しい公民教科書と同様に、新しい歴史教科書も、自由社に変わってから劇的に良くなりました。特に平成28年版から令和3年版のとき凄まじく改良されました。さらに、次回版でも、大きく改良されています。

今回は令和書籍と比較できるようになったので良く分かりますが、令和書籍が本物の「右翼」教科書なのに対して、自由社は令和書籍のような右翼ではありません。むしろ左翼です。最も中道です。

機能面では、次の点で良くなりました。

①どのタイミングで見れば良いか一発で分かる!コラムにまで拡大した「注釈番号」(自由社だけ!)

②アクティブ・ラーニングが最も充実!(自由社だけ!)

③どれぐらい学習してるか一目で分かる!単元の「通し番号」(自由社だけ!)

④レベルの高い折り込み年表付きで習熟度別学習に最適!(自由社だけ!)

⑤親しみやすいオール敬体の教科書(自由社だけ!)

⑥学習への興味・関心が深まる!章の導入の「登場人物紹介コーナー」(自由社だけ!)

⑦学習した内容を一発で振り返られる!「まとめ図」(簡単な年表)(自由社だけ!)

①から見ていくと、「新しい歴史教科書」は各資料・各コラムごとに本文で注釈番号を設けています。例えば、「第一次世界大戦が始まりました③。」とあり、周辺を探すと「③第一次世界大戦はなぜは起こったか」という小コラムがあります。

資料に注釈をつけるのは他社もやっていることですが、自由社はコラムにも付けています。これにより、どのタイミングで読めば良いのかよくわからないという事態を回避することができます。公民教科書と同じように、自由社の教科書はとにかく使いやすさを追求している感じですね。

②では、自由社は各単元の左ページの下の部分に「チャレンジ」という課題があります。さらに、章ごとに「①調べ学習のページ」→「②復習問題のページ」→「③対話とまとめ図のページ」を設けてアクティブ・ラーニングを実現しています。他社の多くはアクティブ・ラーニングに各章2ページですが、自由社は①、②、③ごとに2ページ使っているので合計6ページほど使っています。

また、公民と同様に自由社は大コラムでも学習に向けた「問い」を設けています。例えば、もっと知りたい 武士のおこりと生活では「武士はどのようにして生まれたのだろう 鎌倉幕府を支えた「御恩と奉公」の関係はどのようなものだったのか」という問いを設けています。歴史の方でも他社は単元ごとに問いを設けているにすぎません。

③では、公民と同じく自由社は、単元番号に章をまたいでも続く「通し番号」を採用しています。どれくらい学習したのかが一発で分かり、生徒の主体的な学習をサポートするだけでなく、学校の先生が授業計画をつくる上でも最適です。

④では、自由社は巻末に折り込み年表を入れています。これ自体は他社も入れていますが、質が全く違います。他社は単元本文の太字をとりあえず年表に入れてるだけでこれでは何の意味があるのかよくわかりません。せいぜい年代が分かるぐらいです。しかもそれをカットしているものさえあります。

これに対して、自由社は単元本文にあるものや単元本文にないものは解説付きで年表に載っています。年代もしっかり載っていますし、3回折り込まれているので、他社よりも長くなっています。その分、たくさんの情報が入っています。また、上下で日本の出来事と世界の出来事が分けられており、視覚的に区別しやすい使いやすいものになっています。単元の最後などに見ると、学習への理解が深められるでしょう。

最後に⑤です。自由社は他社と異なり、単元本文から注釈、用語解説に至るまで「問い」以外の部分では全て敬体を使っています。敬体は親しみやすい印象を与えるので説明に最適です。一方、問いかけるには常体の方が適しています。その使い分けをしっかりしているのが自由社の「新しい歴史教科書」です。

内容面では、次の点で良くなりました。

①良いことも悪いこともしっかり書いて基礎的な考え方が分かる!(自由社だけ!)

②人物や面白い資料が豊富で楽しく学べる!(自由社だけ!)

③政府見解を押し付けない教科書(自由社だけ!)

①から見ていくと、自由社は歴史的事象について功罪をしっかりと取り上げています。一番、右翼的といわれそうな箇所から見ていくと、大東亜共栄圏に関する説明では「現地の人々は将来の独立に期待し」とは書く一方、「戦場となった、中国や東南アジアの人々に被害をあたえ」「民間人にも犠牲者が出ました」「現地の人々を労働力として動員することがおきました」「過酷な労働に動員されることもありました」とも書いています。

大東亜共栄圏構想がはじめのころ東南アジアの人々に大きな期待感をあたえたことは事実ですし、その後、民間人などにも犠牲者が出たことなども同様に事実です。自由社はこの事実を両方ともバランスよく記しています。他社は「加害」の面だけを書くか、「極右」の令和書籍のように「解放」の面だけを書くかの二択です。自由社のような広い視点はありません。

良いことも悪いことも余すことなくしっかり書く自由社は、中学生が人生について考えるときの参考になるでしょう。

②を見ると、自由社は他社と比べて格段に登場人物の量が多いです。他に比較的登場人物が多いのは育鵬社ですが、自由社は育鵬社のように馬鹿みたいに大量に人物を並べるだけのようなことはせず、しっかりと本文と対応させながら人物の写真を載せるなどしています。

江戸時代の箇所では緒方洪庵・シーボルト・石田梅岩なども登場します。全体を通して見ても、レベルの高い教科書になっているので進学校などにもおすすめです。さらに、ページいっぱいに面白い資料があり、幅広い視点から歴史を学ぶことができます。

最後に③です。自由社は他社と異なり、政府見解を押し付けない教科書です。こう言うと、右翼教科書のイメージからすると変な気がしますが、そもそもこれまで見てきた通り、右翼教科書ではなくなっているので妥当でしょう。

例えば、領土問題では他の歴史教科書が全て「固有の領土です」「(尖閣諸島について)領土問題は存在しません」と政府見解だけを一方的に押し付けるように書く中、自由社だけは領有の経緯を説明した上で政府が固有の領土としていること、「日本は「尖閣は日本固有の領土であり、領土問題は存在しない」との立場をとっています。」などのことを書いています。

●令和書籍の「国史教科書」も大きく改善

先日、長らく検定未了だった令和書籍が教科書検定に合格したと発表されたので、読んでみました。経験の差もあるのか自由社の「新しい歴史教科書」には及びませんが、教科書ベンチャーであるのにも関わらず、自由社以外の教科書よりは、機能面・内容面で圧倒的に優れていると思います。

令和書籍は少しだけ右翼色を感じます。本物の「右翼」である令和書籍と比較すれば自由社なんか極左です。

特に、次の点が非常に優れています。

①時代の主役がタイムスリップした!?興味・関心をそそる各章1枚ずつのアニメ調の挿絵

②アクティブ・ラーニングに最適!単元ごとを超えて「小見出しごと」にある学習課題

③普通の学校から進学校まで全ての学校に最適!基本的な事項は「本文」、ハイレベルな内容は「側注」と明確に区別して分かりやすい!

④これは覚えやすい!導入は重要事項だけの「簡略年表」、最後は細かいところまで書く「詳細年表」

⑤賛成か反対かだけではない!日本を超えて外国など、複数の立場を考える「まとめ学習」

⑥教科書史上最も高画質!豊富な写真がもちろんフルカラーで掲載された「日本美術図鑑」

⑦「大宝律令の完成は独立国の証」など、明快で分かりやすい小見出し

⑧右翼的なのは見出しだけ!読んだら右翼的じゃないと分かるコラム!

●悪化する他社教科書

このように進化する自由社の「新しい公民教科書」「新しい歴史教科書」や令和書籍の「国史教科書」に対して、育鵬社、東京書籍、帝国書院、教育出版、学び舎、日本文教出版、山川出版などは改悪を続けています。

まず、これらの教科書は、自由社や令和書籍と異なり、全体的にまとまり感がなく、特に学び舎についてはいろんなところに飛び散り過ぎて結局、単元の内容が全く理解できません。

そして、公民を発行している育鵬社、東京書籍、帝国書院、教育出版、日本文教出版がありますが、自由社のような社会集団などの「仕組み」の説明がほとんどなく、丸暗記型になっています。

例えば、自由社の教科書では国家が農作業の共同や外敵からの防衛の必要から成立し、そのため、国家は国民の共同体であり、国民のために存在していることが分かります。そのうえで、国民のための政治を実現していくために、民主主義や人権思想が広がっていたことが分かるようになっています。

これに対して他社は全て「民主主義や人権思想」が広がっていたことを書くだけで、なぜそうなったのかが全くわかりません。丸暗記するしかなく、時代遅れの教科書です。

歴史を発行しているのは育鵬社、東京書籍、帝国書院、教育出版、学び舎、日本文教出版、山川出版ですが、やはりこちらも丸暗記型で面白みに欠けると言わざるを得ません。一応、面白みという点では学び舎が興味深い内容をコラムで書いていたり、育鵬社が人物を多めに取り上げたりしていて少しマシですが、その両方を十二分に達成している自由社や令和書籍には劣ります。

特にひどいのが東京書籍です。東京書籍は、平成28年版以来、改悪を続けています。令和3年版では学習指導要領の要求でアクティブ・ラーニングを少し増やしましたが、明らかに他社と比べて見劣りしています。自由社や令和書籍は章ごとに2頁から4頁、その他の箇所でも数多くのアクティブラーニングに関する記述がありますが、東京書籍は章ごとに1頁または2頁で記述しているにすぎません。

もっとひどいのが山川出版です。アクティブ・ラーニングには「主体的な学び」「深い学び」「対話的な学び」などの観点がありますが、この中で最も重要な「対話的な学び」が一切ありません。内容のレベルは高いですが、学習指導要領に背いているありえない教科書です。もし採択するとしても何らかの補助教材がないと学習に支障をきたします。

●まとめ

自由社や令和書籍が「ここがポイント!」を導入するなど、公民・歴史ともに大幅に改良されていく中で、帝国書院(公民)や育鵬社(歴史)が少しマシとは言え、他社は全て改悪されていました。特に東京書籍と山川出版は学習指導要領に背いているような代物でした。

今回の公民・歴史教科書は、本当に自由社の「新しい公民教科書」「新しい歴史教科書」と令和書籍の「国史教科書」しかあり得ません。令和3年版ならいまだ他社も選択肢になりえましたが、今回のはあまりにもひどすぎます。

一方、自由社が「右翼」だというのは本当に過去の話になっており、機能面・内容面の両方で自由社の圧勝です。令和書籍こそ少しだけ右翼色がありますが、「これだけかよ」という印象です。逆に応援したくなります。

何度も言いますが、自由社は令和書籍のような右翼ではありません。先入観を捨ててください。本当に変わっています。時代は変わりました。自由社は批判を受けて言い過ぎかも知れませんが、「左翼」教科書になりました。それくらい変わっています。

自由社の「新しい公民教科書」で唯一、劣っている点をあげるなら、資料が若干少ないような気がするぐらいですが、数に囚われてはいけません。他社には全く関係ない資料をあげて数だけ水増ししてる最悪なものもあります。いくつかの教科書ではさすがにひどすぎるということで検定で修正されています。

自由社の「新しい歴史教科書」、令和書籍の「国史教科書」、学び舎あたりは資料の配置を工夫しているので多くても気になりませんが、東京書籍とかは資料の配置に何の工夫もなく、本文の周辺に気を散らす赤がきたりと本当に使いにくいです。さっきちょっと批判した学び舎ですが、この問題だけはマシです。

全都道府県・全市町村で自由社の「新しい公民教科書」、歴史は自由社の「新しい歴史教科書」、せめて令和書籍の「国史教科書」が採択されることを強く求めます。

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【天皇主権ではない!?】制定過程と基本原理から読み解く大日本帝国憲法の四原則【一人ひとりの権利の尊重/三権分立/象徴君主制/国民主権/君主主権/革命/抵抗権/革命権/「民族の権利」/人権思想】

2024-04-06 03:12:55 | 日本

大日本帝国憲法の制定過程と基本原理から大日本帝国憲法の四原則を読み解きたいと思います。

■国民の示した案に基づいて作った―大日本帝国憲法の制定―

明治維新で近代国家建設の方針を固めた日本政府は、それまでの国家の役割である防衛、社会秩序の維持、社会資本の整備に加えて、国民一人ひとりの自由や参政権などの権利を保障する役割を果たすことが求められました。

そのためには五箇条の御誓文を超えて憲法を制定し、議会を開設する必要がありました。政府は憲法制定や議会開設は各国の制度を細かく調査して慎重に進めるべきだと考えました。一方、板垣退助らなどは憲法が不平等条約改正に最も効果的であることに注目して早期実現を目指しました。

板垣退助らは政府を離れ、新たに自由民権運動をはじめました。自由民権運動は単に憲法制定や議会開設の早期実現を厳しく要求するだけでなく、自ら草案をつくり、公表しました。国民の示した草案は、どれも、天皇は政治権力を持たず、憲法に監視・コントロールされながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行うという象徴君主制を基本原理としていました。当時は公表されていなかった五日市憲法草案も同様です。

国民は憲法制定と議会開設を早期に実現せよと日本政府に厳しく迫りました。国民の強い要求を受けた日本政府は、ドイツのプロイセン憲法をはじめ、世界各国の憲法を調査し、三権分立や一人ひとりの権利の尊重などの基本方針を固めました。当初、日本政府は国民の示した案を全く参考にせず、自力で草案をまとめようとしました。

自由民権運動をもともと政府側だった板垣らが始めたこともあり、意地をはっていたのです。しかし、自力では自らの方針に沿った憲法案をまとめることができませんでした。そこで、国民の示した案をもとに、一から憲法案を作り直しました。新しい憲法案は大日本帝国憲法として明治22(1889)年2月11日(建国記念の日)に公布され、明治23(1890)年11月29日に施行されました。

■大日本帝国憲法の原則

 ●大日本帝国憲法の3原則?

大日本帝国憲法は、「民族の権利」に基づく一人ひとりの権利の尊重三権分立象徴君主制(無権天皇)など」を原則としています。「など」についてはのちほど説明します。

 ●一人ひとりの権利の尊重

大日本帝国憲法の第1の原則が「民族の権利」に基づく一人ひとりの権利の尊重です。えっと思われた方もいるかもしれません。しかし、純粋に読み進めていくと、大日本帝国憲法は幸福追求権を中心に、一人ひとりの権利の尊重を原則としていることが分かります。

まず、大日本帝国憲法の前文に当たる憲法発布勅語では「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ」とあります。これは「私(明治天皇)は、国家が栄え、臣民(天皇以外の日本人)が幸せになることを、私の喜びの中心とします。」と言う意味です。

さらに、大日本帝国憲法の上諭では一段目で「朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ」とあります。これは「私の愛する臣民は、私の祖先が大事にしてきた臣民たちの子孫であることをしっかりと意識して、臣民たちの幸福をさらに追求していきます」という意味です。

上諭の三段目では「朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ」とあります。これは「私は、臣民の権利と財産の安全を尊重し、これを守り抜きます。」という意味です。

このように憲法発布勅語と上諭において、一人ひとりの権利の尊重という原則が掲げられていました。さらに、この「一人ひとりの権利の尊重」は、国家を代表する民族(日本であれば日本民族)の権利を、国内外問わずに保障していこうという真の人権思想である「民族の権利」という考え方に支えられています。

帝国憲法における「臣民」とは、日本国籍保有者である「国民」のことではなく、天皇を代表とする日本人(日本民族)のうちの天皇以外の者のことです。

その証拠に、帝国憲法には第18条に「日本臣民タル要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」という規定がありますが、当時の国籍法には現代の国籍法のように「日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる。」という規定がありませんでした。

そもそも、当時の国籍法には「臣民」という単語自体が存在せず、「国民」と「臣民」は完全に別概念でした。「天皇を除く日本人(日本民族)の権利を国内外問わずに日本国家が保障していく」、これが大日本帝国憲法の根本精神です。

ですから、当時の刑法には「国民の国外犯」を処罰する規定の第2項に「帝国外ニ於テ帝国臣民ニ対シ前項ノ罪ヲ犯シタル者ニ付キ亦同ジ」という規定がありました。しかし、『日本国憲法』に代わると、この規定は削除され、国外に住む日本人の権利保障が弱められました。

その後、国外での日本人への犯罪の増加を受けて、ようやく「国民以外の者の国外犯」という規定がおかれました。しかし、「国民の国外犯」と比べて、処罰の対象となる犯罪が非常に少なく、詐欺や窃盗、名誉毀損、放火など、在外日本人が被害に遭いやすい犯罪は対象に含まれていません。

また、「民族の権利」を国内外問わずに保障していくために、国籍に代えて、その人が日本民族の一員であることを示す民族パスポート(民族証明書)をつくるべきだという意見もあります。

少し脱線しましたが、大日本帝国憲法は明文規定でも、一人ひとりの権利の尊重という点を明確にしています。まず、全ての権利は法律に基づく以外に制限できないとし、さらに、権利の特性に応じて、法律によっても制限できない権利、公益に基づく以外は法律によっても制限できない権利、公共の秩序に基づく以外は法律によっても制限できない権利の3つを付け加えました。

1つ目の法律によっても制限できない権利は、裁判官の裁判を受ける権利(第24条)や、平等権(第19条。いわれる平等権とは意味が違う。)、請願権(第30条)です。これらの権利は、大正デモクラシー期の日本などにおいて、人権は全ての日本人が生まれながらにもっており、法律によっても制限されないという真の人権思想が普及する基盤となりました。

さらに、平等権は、当時の世界各国の憲法に習ったため、日本人一般の平等は規定していませんでしたが、公務に付く権利全般を平等にしようという規定のため、身分制を撤廃した四民平等政策や解放令とともに、全国水平社などによる差別撤廃運動の思想的拠点となりました。

この憲法が示す平等権の思想(条文には書かれていないが、制定過程で良く出てきた。)は、機会の平等とともに、私が唱える不利益の平等に最も近いものになっています。それは単なる結果の平等と異なり、個人の尊重に立脚しているからです。「個人の尊重」という言葉は当時はありませんが、精神的には同じだったのです。

さらに、大日本帝国憲法における請願権は、法律によっても制限できない権利とされたこともあって、現在よりも請願の敷居が低くく、議会制民主主義から直接民主制への転換(憲法改正)を意識して作られたものでした。

当時、多くの国が請願の敷居を低くくし、議会制民主主義から直接民主制への転換を考えていました。人数の多さからこれは困難であると悟られ、次第に請願の敷居も元に戻っていきました(もとがない国では高くなった)。しかし、スイスのように伝統的に直接民主制が実現している国はあります。

技術が進歩した今、もう一度、各国が、この時代の憲法を見直して、請願の敷居を低くすることから始めて、直接民主制へと転換すべきではないでしょうか。

2つ目の公益に基づく以外は法律によっても制限できない権利は、所有権(第27条)です。この権利は一般に財産権だといわれています。しかし、憲法の上諭では「権利と財産の安全」となっていることや、日本国憲法下では「財産権」に変更されたことに着目して、財産以外も含めてあらゆる物を所有する権利を指すのではないかという有力な見解もあります。

実際の政治においても、後者の解釈でも憲法違反とならない運用がされました。一説によると、権利を所有する権利でもあるとされ、人権は法律によっても奪うことができないという精神や国民の基本的権利(日本国憲法で言う所の幸福追求権のような包括的権利の規定)を表したものとされます。

この権利を制限するには、①公益に反するという理由と、②法律に基づく、という2つの要素が必要となります。

3つ目の公共の秩序に基づく以外は法律によっても制限できない権利は、信教の自由(第28条)です。信教の自由には単に信仰する自由(内心の自由)と宗教活動の自由があります。前者は法律によっても制限できない権利と解釈されていました。この権利も、所有権と同様に、①公共の秩序の反するという理由と、②法律に基づく、という2つの要素がなければ制限することができません。

このほかの権利は法律に基づく以外に制限できない権利とされました。所有権を除く居住及び移転の自由(第22条)などの経済的自由権をはじめ、他のあらゆる権利です。ヘイトスピーチなどで濫用されることが問題となった表現の自由もこれに含まれます。全ての権利が法律に基づかなければ制限できません。

さらに、こうした日本人の自由や権利を守るため、労働条件などで日本人の身体の自由や精神活動の自由を奪い、ときには公害により生命や財産までもを犠牲にして多大な損害と苦痛を与える利益社会については「法律の範囲内」で認められるとして、国民全体でコントロールする方針が打ち出されています。

これは第29条で「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」という形で書かれました。ストレートに利益社会の制約を書くと大きな反発を生むため、言論の自由などと織り交ぜて「結社の自由」と書くことで一見すると政治結社に読めるようにしました。

しかし、大日本帝国憲法の制定に関わった人たちは、この「結社の自由」が結社の2つ目の意味である、会社を結成する、つまり利益社会を結成する意味であると証言しています。実際の運用でも、基本的にこの方針に沿った運用がなされていました。

しかし、クーデターにより軍部が政治を支配するようになってからは、この方針を知らない人たちが大日本帝国憲法の解釈を担当することになり、結社の自由が、政治結社の自由に読み替えられていきました。このほかの面でも、大日本帝国憲法の精神は破壊されていきます。当時の軍部は護憲を掲げていましたが、実態は壊憲派(憲法破壊派)だったのです。

大日本帝国憲法の精神が最も花開いた大正デモクラシーの時代を見ると、現代に受け継ぐべき精神が多くあることがわかります。軍事に関する規定を除ければ『日本国憲法』以上に理想主義的といえるでしょう。

なお、『日本国憲法』では国民は権利を『公共の福祉』のために利用する『責任』を負い、全ての権利が『公共の福祉』の下に制限されるとなっており、実際には侵害にあたる事例が多くあるという報告もあります。

しかも、ヘイトスピーチなどで濫用が問題になった表現の自由だけは厳重に保護され、真のヘイトスピーチ解消法の成立を妨げています(→現在のヘイト法には罰則どころか禁止規定すらないので実効性がなく、日本人に対するヘイトスピーチを見逃したり、ヘイト解消義務を日本人だけに課すなどとてもヘイト解消法とはいえない。)。

 ●三権分立

さらに、大日本帝国憲法はこうした権利保障を確実なものにするため、三権分立を第2の原則としています。まず、後述する象徴君主制によって天皇の権力は否定され、天皇の形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為は憲法によって監視・コントロールすることになりました。

そこで、国家権力について、行政は国務大臣(内閣)、司法は裁判所、立法は帝国議会が担う三権分立制がとられました。行政、司法、立法、それぞれの独立の高さは大津事件や第二次世界大戦時の東条内閣への帝国議会の辞任要求で見ることができます。

 ●象徴君主制(無権天皇)

大日本帝国憲法は立憲君主制を超えて、天皇の権力を否定し、天皇の形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為を憲法で監視・コントロールするという象徴君主制(無権天皇)を第3の原則としています。象徴君主制では天皇は憲法に監視・コントロールされながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行います。

一般に大日本帝国憲法下の君主制は「立憲君主制」といわれます。しかし、立憲君主制においては天皇の権力は否定されず、憲法に従って天皇が権力を行使するというもので、三権分立も弱くなります。条文や実態と全く異なるので大日本帝国憲法は立憲君主制ではなく、象徴君主制です。

大日本帝国憲法第1条で、大日本帝国は、万世一系の天皇がこれを『統治』するとしています。しかし、この『統治』は政治権力のことではなく、古語の「知らす」に近い意味で、ときの政治権力に天皇が無条件にお墨付きを与え、形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行い、形式的・儀礼的に国家を代表するというものです。

さらに、第3条では、天皇は『神聖』であって、侵してはならないとしています。これは天皇の特別性を強調する規定というよりも、天皇は神ではなく、神聖な存在にすぎず、天皇といえども万能ではない、そして、政治的責任を負わないという意味です。政治的責任を負わないため、天皇は政治権力を持たず、持ってはなりません。

第4条では、天皇は国家の「元首」であって、『統治権』を総覧し、この憲法の条文により、統治権を行うとしています。「元首」とは形式的・儀礼的に国家を代表する者のことであり、憲法に監視・コントロールされながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行う者が兼ねた方が合理的です。

そして、この「統治権」は、第1条・第3条で天皇の政治権力が二回も否定されている以上、もっぱら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為を指しています。つまり、第4条は、天皇の形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為を憲法によって監視・コントロールするという象徴君主制の核となる部分を書いているのです。

前述の通り、政治権力は否定されていますし、統治権の『統治』も、古語の「知らす」の意味に近い形式的・儀礼的にすぎない「権威」なので、天皇の政治権力はどこにも存在できないわけです。では天皇が持つ形式的・儀礼的にすぎない「権威」とはなんでしょうか。

歴史的に国家の第1の役割は防衛、第2の役割は社会秩序の維持、第3の役割は社会資本の整備、第4の役割は国民の権利の保障です。国家はその役割を果たし、国民の福祉を増進していくために、政治を行います。

政治では人々の意見の対立を調整し、効率よく国家の役割を果たしていくために、人々に命令し強制する権力が必要となります。この権力は社会の秩序を維持し、効率の良い政治を行い、国民の利益を守るために必要ですが、同時に意見の違う人々を分断させてしまうおそれもあるといわれています。

そのため、権力の行使を形式的・儀礼的な「法律の公布」などによって国家の正式な手続きとし、人々を「国民」としてまとめる存在(権威)としての行為を行う者がいるという主張もあります。

大日本帝国憲法の下では、天皇が、君主という公的な立場において形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行っています。しかし、君主の「権威」は危険なので、憲法で監視・コントロールすることになっています。

憲法に監視・コントロールされながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行う以上、政治権力は持てませんし、賛成か反対かを君主という立場を利用して発信することは認められません。

対外関係においても、実際に政治を行い、賛成派と反対派で分断させる権力を持つ者よりも、賛成か反対かに関係のなく、憲法に監視・コントロールされながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行う者が国家を代表する方が、その国の「顔」として安定するでしょう。

そこで、大日本帝国憲法は天皇が「国の元首」としての行為を行うことにしています。しかし、「元首」も危険なので、憲法で監視・コントロールすることになっています。この「元首」としての行為を含めて、天皇が憲法に監視・コントロールされながら行う形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為になります。

これが大日本帝国憲法の第3の役割である象徴君主制です。

 ●主権者は誰か

ようやく主権者の話に入ります。ご存知のように『日本国憲法』は国民主権を原則としています。『日本国憲法』の国民主権は天皇との入れ替えを意識したのか、国民の権力を認めず、国民は権威だけを持つという国民主権とは言い難いものですが。

普通、国民主権とは、国の政治を最終的に決める権力が国民にあり、国の政治には国民全員が参加し、国民自身が政治を行うべきという原理です。

後者の「国の政治には国民全員が参加し、国民自身が政治を行うべき」というのは前者の「国の政治を最終的に決める権力」に裏付けされています。「国の政治を最終的に決める権力」とは絶対主権のことであり、国民は革命によって政府を倒すことができます(革命権)。

絶対主権によって裏付けされる権力の中で最も重要なのは、憲法制定権力です。憲法はコンスティチューションですが、コンスティチューションは国体(国家の根本体制)とも訳すなど、憲法には国の政治を最終的に決める力があるからです。

一般に大日本帝国憲法は「天皇主権」の憲法だといわれます。しかし、前述の通り、大日本帝国憲法の第3の原則は象徴君主制であり、天皇は政治権力を持たず、憲法に監視・コントロールされながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行います。政治権力が天皇に由来するということもなく、したがって、天皇主権はあり得ません。

ところが、大日本帝国憲法は「君民共治主義」をとっています。

君民共治主義とは、君民が一体となって政治を行い、一方が何らかの監視・コントロールを受けながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行い、もう一方が独立して自由に権力としての役割を果たすというものです。

この「民」も国籍保有者である国民のことではなく、日本民族、すなわち日本人のことです。

既に象徴君主制によって天皇は憲法に監視・コントロールされながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行うと決まり、「君」が権力としての役割を果たすことは否定されているので、もう「民」しかないわけです。つまり、日本人(民)が政治権力をもっているということになります。

例えば、大日本帝国憲法の上諭には憲法改正について「朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」としています。

これは、天皇が憲法改正を「発議」して憲法改正の権限を議会に形式的・儀礼的に与え、議会は憲法に定める条件に従ってこれを議決する。これ以外の方法で、天皇(君主)や日本人(民)が憲法制定権力を行使してはならないという意味です。

何度も言いますが、天皇の政治権力は各条文で否定されているので、天皇は「持っているけど行使できない」ではなくそもそも「持っていない」ので行使してはならないということになります。しかし、日本人(民)の政治権力を否定する箇所はなく、日本人(民)が憲法制定権力を持っていることを間接的に肯定しているといえます。

また、自由民権運動でも、日本人(民)一人ひとりは団結して憲法制定と議会開設の早期実現を日本政府に厳しく迫り、日本政府は日本人(民)一人ひとりが作った案をもとに、大日本帝国憲法を作って制定しました。日本人(民)自身による政治が行われていたといえます。

さらに、日本人(民)が団結すれば革命権を行使できますから、必然的に絶対主権も持っていることになります。一方、天皇に政治権力はないため、絶対主権を行使することはできません。

また、大日本帝国憲法の下では日本人(民)の誰もが請願を行う権利をもっているとされ、前述のようにこの権利は法律によっても制限できない権利とされました。つまり、①国民自身が政治を行う、②国民が絶対主権を持つ、③特に国民が憲法制定権力を持つ、という3点は十分に達しているといえ、主権は国民にあるといえます。

このように大日本帝国憲法の第4の原則は国民主権です。国民主権とは、憲法によっても制限できないという真の最高で絶対の権力を、国民が持つという原理です。国民主権の意義は、国民自身が政治を行うことにあります。

全ての国民は自由で平等であるため、国の政治には国民全員が参加しなければなりません。国民主権の下では、国民一人ひとりの意見を尊重し、話し合いによって決定します。そのため、直接民主制が国民主権の理想的な姿です。だからこそ、大日本帝国憲法は直接民主制への転換を意識していたのです。

大日本帝国憲法の原案が国民の示した案になったときから、大日本帝国憲法には法律によっても制限されないという真の人権思想の基盤が取り入れられ、直接民主制への転換と国民主権が大きな原則となりました。さらに、国民主権は、国のあり方を最終的に決める権力に支えられています。

すなわち、国民一人ひとりは、その最高で絶対の権力を行使して、武力によって政府を倒して、新しい政府をつくる権利があります(革命権)。ただし、いくら最高で絶対の権力を持つといっても、国民主権の否定やそれを支える君主の排除、日本人への差別などは認められません。

大日本帝国憲法が示した真の国民主権の原理は大正デモクラシーなどの民主的な政治運動をもたらしましたが、ほとんど実現できずに終わってしまいました。それでも、終戦末期を除ければ、十分、ベストを尽くしていたのではないでしょうか。

大日本帝国憲法が示す真の国民主権の原理を具現化するためには、法律の制定や判決を出すにあたって国民投票を行う必要がありました。これによって、国民全員で意思決定がなされたということになり、はじめて真の国民主権が行使されたといえるからです。国民全員でなされた意思決定は絶対であり、いかなる国家・政治権力もこれに逆らうことはできません。

当時は国民投票を行うことが難しく、生類憐みの令のような理想論で終わってしまいました。しかし、現代ではインターネットも普及し、大日本帝国憲法が示す真の国民主権の原理を実現することも可能になってきています。ついでに言えば生類憐みの令も見直されてきています。

生類憐みの令と同じように、大日本帝国憲法とも向き合い、天皇主権ではなく国民主権を原理としていることを再確認して、真の国民主権の原理を見直すべきではないでしょうか。

※前述の通り、大日本帝国憲法下の「民」は日本人(日本民族)のことなので、国籍保有者を意味する「国民」主権は不正確。しかし、他に良い案が思い浮かばないので「国民主権」と呼んでいる。一応、私の中では「民族主権」「日本人主権」などの案がある。日本人というと、外国人と日本人の方を連想するので民の面を強調したくて国民主権と呼んでいる。

■まとめ

大日本帝国憲法は、一人ひとりの権利の尊重三権分立象徴君主制国民主権を「大日本帝国憲法の四原則」としており、憲法によっても制限されないという真の最高で絶対の権力(主権)を持つのは、国民でした。

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