公民・歴史教科書問題を中心に教育問題を考えていくブログ

恐るべき公民教育の問題を中心に扱っています。かなりの割合で小山常実氏のブログ(特に教科書資料)や著書を参考にしています。

【天皇主権ではない!?】制定過程と基本原理から読み解く大日本帝国憲法の四原則【一人ひとりの権利の尊重/三権分立/象徴君主制/国民主権/君主主権/革命/抵抗権/革命権/「民族の権利」/人権思想】

2024-04-06 03:12:55 | 日本

大日本帝国憲法の制定過程と基本原理から大日本帝国憲法の四原則を読み解きたいと思います。

■国民の示した案に基づいて作った―大日本帝国憲法の制定―

明治維新で近代国家建設の方針を固めた日本政府は、それまでの国家の役割である防衛、社会秩序の維持、社会資本の整備に加えて、国民一人ひとりの自由や参政権などの権利を保障する役割を果たすことが求められました。

そのためには五箇条の御誓文を超えて憲法を制定し、議会を開設する必要がありました。政府は憲法制定や議会開設は各国の制度を細かく調査して慎重に進めるべきだと考えました。一方、板垣退助らなどは憲法が不平等条約改正に最も効果的であることに注目して早期実現を目指しました。

板垣退助らは政府を離れ、新たに自由民権運動をはじめました。自由民権運動は単に憲法制定や議会開設の早期実現を厳しく要求するだけでなく、自ら草案をつくり、公表しました。国民の示した草案は、どれも、天皇は政治権力を持たず、憲法に監視・コントロールされながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行うという象徴君主制を基本原理としていました。当時は公表されていなかった五日市憲法草案も同様です。

国民は憲法制定と議会開設を早期に実現せよと日本政府に厳しく迫りました。国民の強い要求を受けた日本政府は、ドイツのプロイセン憲法をはじめ、世界各国の憲法を調査し、三権分立や一人ひとりの権利の尊重などの基本方針を固めました。当初、日本政府は国民の示した案を全く参考にせず、自力で草案をまとめようとしました。

自由民権運動をもともと政府側だった板垣らが始めたこともあり、意地をはっていたのです。しかし、自力では自らの方針に沿った憲法案をまとめることができませんでした。そこで、国民の示した案をもとに、一から憲法案を作り直しました。新しい憲法案は大日本帝国憲法として明治22(1889)年2月11日(建国記念の日)に公布され、明治23(1890)年11月29日に施行されました。

■大日本帝国憲法の原則

 ●大日本帝国憲法の3原則?

大日本帝国憲法は、「民族の権利」に基づく一人ひとりの権利の尊重三権分立象徴君主制(無権天皇)など」を原則としています。「など」についてはのちほど説明します。

 ●一人ひとりの権利の尊重

大日本帝国憲法の第1の原則が「民族の権利」に基づく一人ひとりの権利の尊重です。えっと思われた方もいるかもしれません。しかし、純粋に読み進めていくと、大日本帝国憲法は幸福追求権を中心に、一人ひとりの権利の尊重を原則としていることが分かります。

まず、大日本帝国憲法の前文に当たる憲法発布勅語では「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ」とあります。これは「私(明治天皇)は、国家が栄え、臣民(天皇以外の日本人)が幸せになることを、私の喜びの中心とします。」と言う意味です。

さらに、大日本帝国憲法の上諭では一段目で「朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ」とあります。これは「私の愛する臣民は、私の祖先が大事にしてきた臣民たちの子孫であることをしっかりと意識して、臣民たちの幸福をさらに追求していきます」という意味です。

上諭の三段目では「朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ」とあります。これは「私は、臣民の権利と財産の安全を尊重し、これを守り抜きます。」という意味です。

このように憲法発布勅語と上諭において、一人ひとりの権利の尊重という原則が掲げられていました。さらに、この「一人ひとりの権利の尊重」は、国家を代表する民族(日本であれば日本民族)の権利を、国内外問わずに保障していこうという真の人権思想である「民族の権利」という考え方に支えられています。

帝国憲法における「臣民」とは、日本国籍保有者である「国民」のことではなく、天皇を代表とする日本人(日本民族)のうちの天皇以外の者のことです。

その証拠に、帝国憲法には第18条に「日本臣民タル要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」という規定がありますが、当時の国籍法には現代の国籍法のように「日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる。」という規定がありませんでした。

そもそも、当時の国籍法には「臣民」という単語自体が存在せず、「国民」と「臣民」は完全に別概念でした。「天皇を除く日本人(日本民族)の権利を国内外問わずに日本国家が保障していく」、これが大日本帝国憲法の根本精神です。

ですから、当時の刑法には「国民の国外犯」を処罰する規定の第2項に「帝国外ニ於テ帝国臣民ニ対シ前項ノ罪ヲ犯シタル者ニ付キ亦同ジ」という規定がありました。しかし、『日本国憲法』に代わると、この規定は削除され、国外に住む日本人の権利保障が弱められました。

その後、国外での日本人への犯罪の増加を受けて、ようやく「国民以外の者の国外犯」という規定がおかれました。しかし、「国民の国外犯」と比べて、処罰の対象となる犯罪が非常に少なく、詐欺や窃盗、名誉毀損、放火など、在外日本人が被害に遭いやすい犯罪は対象に含まれていません。

また、「民族の権利」を国内外問わずに保障していくために、国籍に代えて、その人が日本民族の一員であることを示す民族パスポート(民族証明書)をつくるべきだという意見もあります。

少し脱線しましたが、大日本帝国憲法は明文規定でも、一人ひとりの権利の尊重という点を明確にしています。まず、全ての権利は法律に基づく以外に制限できないとし、さらに、権利の特性に応じて、法律によっても制限できない権利、公益に基づく以外は法律によっても制限できない権利、公共の秩序に基づく以外は法律によっても制限できない権利の3つを付け加えました。

1つ目の法律によっても制限できない権利は、裁判官の裁判を受ける権利(第24条)や、平等権(第19条。いわれる平等権とは意味が違う。)、請願権(第30条)です。これらの権利は、大正デモクラシー期の日本などにおいて、人権は全ての日本人が生まれながらにもっており、法律によっても制限されないという真の人権思想が普及する基盤となりました。

さらに、平等権は、当時の世界各国の憲法に習ったため、日本人一般の平等は規定していませんでしたが、公務に付く権利全般を平等にしようという規定のため、身分制を撤廃した四民平等政策や解放令とともに、全国水平社などによる差別撤廃運動の思想的拠点となりました。

この憲法が示す平等権の思想(条文には書かれていないが、制定過程で良く出てきた。)は、機会の平等とともに、私が唱える不利益の平等に最も近いものになっています。それは単なる結果の平等と異なり、個人の尊重に立脚しているからです。「個人の尊重」という言葉は当時はありませんが、精神的には同じだったのです。

さらに、大日本帝国憲法における請願権は、法律によっても制限できない権利とされたこともあって、現在よりも請願の敷居が低くく、議会制民主主義から直接民主制への転換(憲法改正)を意識して作られたものでした。

当時、多くの国が請願の敷居を低くくし、議会制民主主義から直接民主制への転換を考えていました。人数の多さからこれは困難であると悟られ、次第に請願の敷居も元に戻っていきました(もとがない国では高くなった)。しかし、スイスのように伝統的に直接民主制が実現している国はあります。

技術が進歩した今、もう一度、各国が、この時代の憲法を見直して、請願の敷居を低くすることから始めて、直接民主制へと転換すべきではないでしょうか。

2つ目の公益に基づく以外は法律によっても制限できない権利は、所有権(第27条)です。この権利は一般に財産権だといわれています。しかし、憲法の上諭では「権利と財産の安全」となっていることや、日本国憲法下では「財産権」に変更されたことに着目して、財産以外も含めてあらゆる物を所有する権利を指すのではないかという有力な見解もあります。

実際の政治においても、後者の解釈でも憲法違反とならない運用がされました。一説によると、権利を所有する権利でもあるとされ、人権は法律によっても奪うことができないという精神や国民の基本的権利(日本国憲法で言う所の幸福追求権のような包括的権利の規定)を表したものとされます。

この権利を制限するには、①公益に反するという理由と、②法律に基づく、という2つの要素が必要となります。

3つ目の公共の秩序に基づく以外は法律によっても制限できない権利は、信教の自由(第28条)です。信教の自由には単に信仰する自由(内心の自由)と宗教活動の自由があります。前者は法律によっても制限できない権利と解釈されていました。この権利も、所有権と同様に、①公共の秩序の反するという理由と、②法律に基づく、という2つの要素がなければ制限することができません。

このほかの権利は法律に基づく以外に制限できない権利とされました。所有権を除く居住及び移転の自由(第22条)などの経済的自由権をはじめ、他のあらゆる権利です。ヘイトスピーチなどで濫用されることが問題となった表現の自由もこれに含まれます。全ての権利が法律に基づかなければ制限できません。

さらに、こうした日本人の自由や権利を守るため、労働条件などで日本人の身体の自由や精神活動の自由を奪い、ときには公害により生命や財産までもを犠牲にして多大な損害と苦痛を与える利益社会については「法律の範囲内」で認められるとして、国民全体でコントロールする方針が打ち出されています。

これは第29条で「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」という形で書かれました。ストレートに利益社会の制約を書くと大きな反発を生むため、言論の自由などと織り交ぜて「結社の自由」と書くことで一見すると政治結社に読めるようにしました。

しかし、大日本帝国憲法の制定に関わった人たちは、この「結社の自由」が結社の2つ目の意味である、会社を結成する、つまり利益社会を結成する意味であると証言しています。実際の運用でも、基本的にこの方針に沿った運用がなされていました。

しかし、クーデターにより軍部が政治を支配するようになってからは、この方針を知らない人たちが大日本帝国憲法の解釈を担当することになり、結社の自由が、政治結社の自由に読み替えられていきました。このほかの面でも、大日本帝国憲法の精神は破壊されていきます。当時の軍部は護憲を掲げていましたが、実態は壊憲派(憲法破壊派)だったのです。

大日本帝国憲法の精神が最も花開いた大正デモクラシーの時代を見ると、現代に受け継ぐべき精神が多くあることがわかります。軍事に関する規定を除ければ『日本国憲法』以上に理想主義的といえるでしょう。

なお、『日本国憲法』では国民は権利を『公共の福祉』のために利用する『責任』を負い、全ての権利が『公共の福祉』の下に制限されるとなっており、実際には侵害にあたる事例が多くあるという報告もあります。

しかも、ヘイトスピーチなどで濫用が問題になった表現の自由だけは厳重に保護され、真のヘイトスピーチ解消法の成立を妨げています(→現在のヘイト法には罰則どころか禁止規定すらないので実効性がなく、日本人に対するヘイトスピーチを見逃したり、ヘイト解消義務を日本人だけに課すなどとてもヘイト解消法とはいえない。)。

 ●三権分立

さらに、大日本帝国憲法はこうした権利保障を確実なものにするため、三権分立を第2の原則としています。まず、後述する象徴君主制によって天皇の権力は否定され、天皇の形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為は憲法によって監視・コントロールすることになりました。

そこで、国家権力について、行政は国務大臣(内閣)、司法は裁判所、立法は帝国議会が担う三権分立制がとられました。行政、司法、立法、それぞれの独立の高さは大津事件や第二次世界大戦時の東条内閣への帝国議会の辞任要求で見ることができます。

 ●象徴君主制(無権天皇)

大日本帝国憲法は立憲君主制を超えて、天皇の権力を否定し、天皇の形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為を憲法で監視・コントロールするという象徴君主制(無権天皇)を第3の原則としています。象徴君主制では天皇は憲法に監視・コントロールされながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行います。

一般に大日本帝国憲法下の君主制は「立憲君主制」といわれます。しかし、立憲君主制においては天皇の権力は否定されず、憲法に従って天皇が権力を行使するというもので、三権分立も弱くなります。条文や実態と全く異なるので大日本帝国憲法は立憲君主制ではなく、象徴君主制です。

大日本帝国憲法第1条で、大日本帝国は、万世一系の天皇がこれを『統治』するとしています。しかし、この『統治』は政治権力のことではなく、古語の「知らす」に近い意味で、ときの政治権力に天皇が無条件にお墨付きを与え、形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行い、形式的・儀礼的に国家を代表するというものです。

さらに、第3条では、天皇は『神聖』であって、侵してはならないとしています。これは天皇の特別性を強調する規定というよりも、天皇は神ではなく、神聖な存在にすぎず、天皇といえども万能ではない、そして、政治的責任を負わないという意味です。政治的責任を負わないため、天皇は政治権力を持たず、持ってはなりません。

第4条では、天皇は国家の「元首」であって、『統治権』を総覧し、この憲法の条文により、統治権を行うとしています。「元首」とは形式的・儀礼的に国家を代表する者のことであり、憲法に監視・コントロールされながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行う者が兼ねた方が合理的です。

そして、この「統治権」は、第1条・第3条で天皇の政治権力が二回も否定されている以上、もっぱら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為を指しています。つまり、第4条は、天皇の形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為を憲法によって監視・コントロールするという象徴君主制の核となる部分を書いているのです。

前述の通り、政治権力は否定されていますし、統治権の『統治』も、古語の「知らす」の意味に近い形式的・儀礼的にすぎない「権威」なので、天皇の政治権力はどこにも存在できないわけです。では天皇が持つ形式的・儀礼的にすぎない「権威」とはなんでしょうか。

歴史的に国家の第1の役割は防衛、第2の役割は社会秩序の維持、第3の役割は社会資本の整備、第4の役割は国民の権利の保障です。国家はその役割を果たし、国民の福祉を増進していくために、政治を行います。

政治では人々の意見の対立を調整し、効率よく国家の役割を果たしていくために、人々に命令し強制する権力が必要となります。この権力は社会の秩序を維持し、効率の良い政治を行い、国民の利益を守るために必要ですが、同時に意見の違う人々を分断させてしまうおそれもあるといわれています。

そのため、権力の行使を形式的・儀礼的な「法律の公布」などによって国家の正式な手続きとし、人々を「国民」としてまとめる存在(権威)としての行為を行う者がいるという主張もあります。

大日本帝国憲法の下では、天皇が、君主という公的な立場において形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行っています。しかし、君主の「権威」は危険なので、憲法で監視・コントロールすることになっています。

憲法に監視・コントロールされながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行う以上、政治権力は持てませんし、賛成か反対かを君主という立場を利用して発信することは認められません。

対外関係においても、実際に政治を行い、賛成派と反対派で分断させる権力を持つ者よりも、賛成か反対かに関係のなく、憲法に監視・コントロールされながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行う者が国家を代表する方が、その国の「顔」として安定するでしょう。

そこで、大日本帝国憲法は天皇が「国の元首」としての行為を行うことにしています。しかし、「元首」も危険なので、憲法で監視・コントロールすることになっています。この「元首」としての行為を含めて、天皇が憲法に監視・コントロールされながら行う形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為になります。

これが大日本帝国憲法の第3の役割である象徴君主制です。

 ●主権者は誰か

ようやく主権者の話に入ります。ご存知のように『日本国憲法』は国民主権を原則としています。『日本国憲法』の国民主権は天皇との入れ替えを意識したのか、国民の権力を認めず、国民は権威だけを持つという国民主権とは言い難いものですが。

普通、国民主権とは、国の政治を最終的に決める権力が国民にあり、国の政治には国民全員が参加し、国民自身が政治を行うべきという原理です。

後者の「国の政治には国民全員が参加し、国民自身が政治を行うべき」というのは前者の「国の政治を最終的に決める権力」に裏付けされています。「国の政治を最終的に決める権力」とは絶対主権のことであり、国民は革命によって政府を倒すことができます(革命権)。

絶対主権によって裏付けされる権力の中で最も重要なのは、憲法制定権力です。憲法はコンスティチューションですが、コンスティチューションは国体(国家の根本体制)とも訳すなど、憲法には国の政治を最終的に決める力があるからです。

一般に大日本帝国憲法は「天皇主権」の憲法だといわれます。しかし、前述の通り、大日本帝国憲法の第3の原則は象徴君主制であり、天皇は政治権力を持たず、憲法に監視・コントロールされながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行います。政治権力が天皇に由来するということもなく、したがって、天皇主権はあり得ません。

ところが、大日本帝国憲法は「君民共治主義」をとっています。

君民共治主義とは、君民が一体となって政治を行い、一方が何らかの監視・コントロールを受けながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行い、もう一方が独立して自由に権力としての役割を果たすというものです。

この「民」も国籍保有者である国民のことではなく、日本民族、すなわち日本人のことです。

既に象徴君主制によって天皇は憲法に監視・コントロールされながら形式的・儀礼的にすぎない「権威」としての行為のみを行うと決まり、「君」が権力としての役割を果たすことは否定されているので、もう「民」しかないわけです。つまり、日本人(民)が政治権力をもっているということになります。

例えば、大日本帝国憲法の上諭には憲法改正について「朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」としています。

これは、天皇が憲法改正を「発議」して憲法改正の権限を議会に形式的・儀礼的に与え、議会は憲法に定める条件に従ってこれを議決する。これ以外の方法で、天皇(君主)や日本人(民)が憲法制定権力を行使してはならないという意味です。

何度も言いますが、天皇の政治権力は各条文で否定されているので、天皇は「持っているけど行使できない」ではなくそもそも「持っていない」ので行使してはならないということになります。しかし、日本人(民)の政治権力を否定する箇所はなく、日本人(民)が憲法制定権力を持っていることを間接的に肯定しているといえます。

また、自由民権運動でも、日本人(民)一人ひとりは団結して憲法制定と議会開設の早期実現を日本政府に厳しく迫り、日本政府は日本人(民)一人ひとりが作った案をもとに、大日本帝国憲法を作って制定しました。日本人(民)自身による政治が行われていたといえます。

さらに、日本人(民)が団結すれば革命権を行使できますから、必然的に絶対主権も持っていることになります。一方、天皇に政治権力はないため、絶対主権を行使することはできません。

また、大日本帝国憲法の下では日本人(民)の誰もが請願を行う権利をもっているとされ、前述のようにこの権利は法律によっても制限できない権利とされました。つまり、①国民自身が政治を行う、②国民が絶対主権を持つ、③特に国民が憲法制定権力を持つ、という3点は十分に達しているといえ、主権は国民にあるといえます。

このように大日本帝国憲法の第4の原則は国民主権です。国民主権とは、憲法によっても制限できないという真の最高で絶対の権力を、国民が持つという原理です。国民主権の意義は、国民自身が政治を行うことにあります。

全ての国民は自由で平等であるため、国の政治には国民全員が参加しなければなりません。国民主権の下では、国民一人ひとりの意見を尊重し、話し合いによって決定します。そのため、直接民主制が国民主権の理想的な姿です。だからこそ、大日本帝国憲法は直接民主制への転換を意識していたのです。

大日本帝国憲法の原案が国民の示した案になったときから、大日本帝国憲法には法律によっても制限されないという真の人権思想の基盤が取り入れられ、直接民主制への転換と国民主権が大きな原則となりました。さらに、国民主権は、国のあり方を最終的に決める権力に支えられています。

すなわち、国民一人ひとりは、その最高で絶対の権力を行使して、武力によって政府を倒して、新しい政府をつくる権利があります(革命権)。ただし、いくら最高で絶対の権力を持つといっても、国民主権の否定やそれを支える君主の排除、日本人への差別などは認められません。

大日本帝国憲法が示した真の国民主権の原理は大正デモクラシーなどの民主的な政治運動をもたらしましたが、ほとんど実現できずに終わってしまいました。それでも、終戦末期を除ければ、十分、ベストを尽くしていたのではないでしょうか。

大日本帝国憲法が示す真の国民主権の原理を具現化するためには、法律の制定や判決を出すにあたって国民投票を行う必要がありました。これによって、国民全員で意思決定がなされたということになり、はじめて真の国民主権が行使されたといえるからです。国民全員でなされた意思決定は絶対であり、いかなる国家・政治権力もこれに逆らうことはできません。

当時は国民投票を行うことが難しく、生類憐みの令のような理想論で終わってしまいました。しかし、現代ではインターネットも普及し、大日本帝国憲法が示す真の国民主権の原理を実現することも可能になってきています。ついでに言えば生類憐みの令も見直されてきています。

生類憐みの令と同じように、大日本帝国憲法とも向き合い、天皇主権ではなく国民主権を原理としていることを再確認して、真の国民主権の原理を見直すべきではないでしょうか。

※前述の通り、大日本帝国憲法下の「民」は日本人(日本民族)のことなので、国籍保有者を意味する「国民」主権は不正確。しかし、他に良い案が思い浮かばないので「国民主権」と呼んでいる。一応、私の中では「民族主権」「日本人主権」などの案がある。日本人というと、外国人と日本人の方を連想するので民の面を強調したくて国民主権と呼んでいる。

■まとめ

大日本帝国憲法は、一人ひとりの権利の尊重三権分立象徴君主制国民主権を「大日本帝国憲法の四原則」としており、憲法によっても制限されないという真の最高で絶対の権力(主権)を持つのは、国民でした。

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