alla marcia

こはぜの覚え書き

岡山・林原美術館の名宝(彦根城博物館)

2005-08-21 23:18:17 | 見にいきました
 長浜に用があったのですが、昼間2時間ほどの空き時間。「今やっ」とばかり車に飛び乗り、彦根城博物館へ。国宝の備前刀を一目見に走ってまいりました。
 彦根城博物館は初めてです。正直、博物館自体にはさして期待せずに行ったのですが、どうしてどうして。スリッパに履き替えてすぐの彦根屏風(レプリカ)にいきなり立ち止まってしまいました。しかし、ゆっくり見ている場合ではありません。有料駐車場が400円に入館料が800円、もったいないとは思いますが、なんせこっちは2時までに戻らなあかん!とりあえず、初めの展示室の刀の前に直行です。
 今回林原美術館からやってきたのは太刀四振り。拵えも一つ展示されていました。うち国宝は二振りで、「銘吉房」と「銘備前国長船住左近将監長光造」。あとの二つは重文の「銘正恒」と重要美術品の「銘延房」。恭しくガラスケースに収まっておりました。
 刀の前のガラスに丸い曇りができているのがご愛敬。
 気持ち分かりますよ。顔近づけてじーっと見てしまったんでしょうね。
 正真正銘、鉄のかたまりなのですが、鉄というのはこんなにきれいになるのだということにまずおどろきました。そして、どれもよく似ているのです。平安・鎌倉時代の刀を展示しているこのガラスケースに、平成の刀匠が打たれた刀が並んでいても、私の目には「よく似ている」と写るのでしょう。
 もちろん細かいところは違うのです。地肌まではよく見えませんが、刃文の入りかたがゆったりしてたりイレギュラーだったりなんていうのは素人目にもそれなりに違うな、と思えるのです。
 しかし、基本的な刀の形はおんなじ。きらきらでもぴかぴかでもない森閑とした光のいろも、手に取らずに見ているだけでも感じられる重さも、人間を斬ったはずなのに血のにおいの感じられないニュートラルな存在感も、よく似ています。
 およそ千年もの間、刀とはどうあるべきかという理想像すら、違いながらも内奥では同じものだったのではないでしょうか。
 そしてその理想を体現するための技術が、刀が刀として実用に供されることがなくなった今でも伝えられていることがまたすごいですね。
 ゆっくり見る時間がなくて残念でした。
 蒔絵の金色の波の一筋一筋までに神経が行き届いていること。
 具足の糸の色の取り合わせの繊細なこと。
 ちらちら見ながらほほうと感心し、帰りは彦根長浜間を高速にのって600円払い、なんとか2時に間に合いました。細かい散財をした一日でした。オトナやもん。まあ、許されるささやかな贅沢かな。
 
 
 
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映画「亡国のイージス」

2005-08-11 23:59:24 | その他
 ネットでは酷評が多いのですが、そんなに悪いのでしょうか。あまり映画を見ないので比較は難しいのですが、この1本を見た感想としては、普通に面白い映画でした。原作はアニメ世代っぽい匂いがありましたので、映画の方が一世代大人になった感じで、オバサンは感情移入しやすかったです。(ファンの方には怒られそうですが、F氏の小説を読んでいると、これで少年少女スパイとDAISが出てこなかったらいいのにな、と思うことしばしば…
 自衛隊がかっこよく描かれていましたね。
 そのスジの人は「戦争の美化」とかいうんでしょうかね。
 この歳になっても、多感な子ども時代に日教組教師に日本悪者教育をされたウラミは抜けませんねえ。必要以上に反動的になってしまいます。
 当時(いちおう)無垢な子どもだったわたしに平和教育した日教組教師は、予期しない逆効果に驚くのでしょうか…。
コメント (2)
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OB演奏会練習参加

2005-08-10 21:36:34 | 音楽いろいろ
 母校のOB演奏会が開かれることになり、1回目の練習に参加してまいりました。
 もともと音楽は得意でないうえにこのブランクです。楽譜の読み方からわからなくなってしまっています。
 そして、些細な驚きですが「タコがなくなってるやん!!」
 タコのない指でばちを持ったりシンバルをたたいたりするのは結構負担でかつ新鮮。
 これが楽器だからいいものの、昔取った杵柄とばかり運動会で張り切る元スポーツマンが怪我をするのも頷けます。
 練習は集合時間とほぼ同時に棒が振り始められ、延々と初見大会。イコールわたしにとってはひたすらトチリ大会。冷房のない会場に立ちづめの練習…心地よい疲れと言いたいところですが、実のところ心身共に相当消耗してしまいました。
 とはいえ、こうして世代も職業もまちまちの人間がある日楽器一つもって集まって、ハイと楽譜を配られて、音を出したらそれなりに曲になってるということ自体、感慨深いものがあります。
 曲が仕上がっていくのが本当に楽しみです。結果も過程も。

 音楽の楽しみ方は幅が広いですよね。
 聞くもよし、やるもよし。
 アマチュアであってもとことん追求して腕を磨く人もあり、指導者として花を咲かせる人もいる。一方で、(わたしのような)上手ではないけど演奏したい人間を受け入れてくれる場所もあります。
 翻って日本舞踊の世界はというと、お流儀があり、師匠があり、弟子がいる…という構造の中で、楽しみ方・参加のしかたに一定の縛りがあるように感じられます。この世界にはプロと客(観客じゃないのがミソ)しかいないのです。プロと客の間が層になってるんではなく、プロと客の境界線が都合により動いているように思える…のはわたしだけでしょうか?ま、伝統芸能ですもの。それがいいのか悪いのか。伝統芸能でないものと比較したって意味はないのかもしれませんが。
 現状では日本舞踊の世界には、音楽の世界のアマチュアが、「たとえアマチュアでも音を出す・聴いてもらうという一点においては妥協しない!」と頑張る心意気、いわばアマチュアの美学といったものが入り込む余地は少ないように思います。日本舞踊の世界でいう「素人のお弟子さん」ノットイコール音楽でいう「アマチュア」ですもん。伝統芸能ですからね。それがいいとか悪いとかいうのは難しいんでしょうが。
 ただ、私見ではありますが、音楽であれ、スポーツであれ、囲碁将棋のようなものであれ、アマチュアの世界の裾野の広さとと足腰の強さがそのジャンル全体の活力とリンクしているように見受けられるのでありまして、活性化を叫ばれる日本舞踊の世界においても、(目先の経済観念にとらわれず)楽しみ方・参加の仕方が多様化されればどんなもんだろうか…と思うのでした。
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