山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

京都・きぬかけの路 2(等持院・竜安寺)

2021年05月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年4月10日(土曜日)
金閣寺の次は等持院から竜安寺へと訪ねます。また朱山七陵と呼ばれるいくつかの天皇陵があるので寄ってみる。

 等持院(とうじいん)  



二条天皇香隆寺陵から西へ300mほど行けば、室町幕府を開いた足利氏ゆかりの等持院がある。

等持院は足利幕府を築いた足利尊氏が、暦応四年(1341)に天龍寺の夢窓国師を開山に迎えて建立した等持寺が始まりです。延文3年(1358)に尊氏が亡くなり等持寺に葬られると、尊氏の法名をとって名称を「等持院」と改称し、足利将軍家歴代の菩提寺となった。その後、応仁の乱(1467-1477)の戦乱や室町幕府の衰退に伴って次第に衰微していった。
慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって復興された。その後、文化5年(1808)の火災によって多くの建物を焼失したが、文政年間(1818 - 1831年)に復興する。明治時代になると廃仏毀釈により境内地と塔頭の多くを失い現在の規模になった。山号を「萬年山」と称し、臨済宗天龍寺派に属する。

南に面する山門から入り、参道を進むと墓地が見える。その墓地の隅に立派な銅像が建っている。足利尊氏やと思いきや、「マキノ省三先生像」と刻まれていました。
牧野省三(1878-1929)は大正10年(1921)、日活から独立し等持院境内の塔頭跡に撮影所を開設し、多くの時代劇を制作し「日本映画の父」といわれました。撮影所は昭和8年(1933)まで存続し、尾上松之助、阪東妻三郎、嵐寛寿郎などを輩出した。この銅像は1970年に太秦から移設されたもの。

総門を潜ると、禅寺に見られる庫裏が建つ。屋根の丸瓦には足利家紋の「丸に二つ引き両紋」が。
庫裏が内部への入り口で、履物を脱ぎ上がると拝観受付がある。
拝観時間:9:00~16:30(16:00受付終了)年中無休 ※12月30日~1月3日は9:00~15:00(14:30受付終了)
参拝料:大人 500円、小人 300円

出たァ、達磨大師。嵐山・天龍寺で初めて見たときはびっくりしたが、二度目なので驚きはしなかった。天龍寺の元管長で等持院の住職でもあった関牧翁(せき・ぼくおう)老師が中国禅宗の開祖である達磨大師を描いたものです。

庫裏と棟続きで本堂にあたる「方丈」がある。この建物は、もともと福島正則が元和2年(1616)に妙心寺塔頭海福院に客殿(方丈)として建立したもの。文化5年(1808)の火災で等持院の建物が焼失した後、文政元年(1818)に等持院に移築された。
襖絵は江戸時代初期の狩野興以(かのうこうい、?-1636)の作で、海福院より建物とともに移された。マキノ省三が方丈を映画ロケに使用した際にかなり破損したが、今日修復され、年一回の寺宝展で公開されている。

方丈の北側に周ると夢窓疎石(1275-1351)の作庭と伝わる池泉回遊式庭園が広がる。庭園は尊氏の墓を境にして、東庭と西庭に分かれています。正面に見える建物は書院で、書院の縁側には履物が用意され、庭へ降り庭内を回遊できるようになっています。

(左下にオレンジ色のスリッパが置かれている)書院前の西庭。蓮の花の形(芙蓉とも)をした芙蓉池(ふようち)を中心に、中島、石橋、石組、植栽が配された鑑賞用の庭園。「書院に坐して茶の香りを愛でながら眺めるこの庭を引き立てるのは、寒の頃から春先にかけ咲きはじめる有楽椿(侘助)、初夏のさつき、七月頃からのくちなしの花、初秋の芙蓉の花などで、それらが清漣亭の前庭の景色に彩りを添えている。」(パンフより)
書院は開け広げられ、敷かれた赤毛氈に座り庭園を眺めることができる。申し込めばお茶菓子もいただけます。

西庭奥の高所に建つ茶室「清漣亭(せいれんてい)」。尊氏公百年忌の長禄元年(1457年)に足利義政が建てたもの。文化5年(1805年)の火災で荒廃していたが、その後再建された。足利義政好みの茶室で、芙蓉池を中心とした庭を眺めながら茶を嗜んだという。

この清漣亭は水上勉原作による映画「雁の寺」(若尾文子)の舞台になっている。福井県生まれの水上勉は、少年期に等持院に預けられ小僧となり、寺の蔵書の小説本を無断で貪り読み文学への関心を持ったという。マキノ省三の映画撮影の手伝いもさせられている。その後、等持院から脱走、還俗し、立命館大学に入学している。

庭に降り、園内をを歩いてみます。これは西側から見た東庭で、白壁の建物は霊光殿。鑑賞用の西庭と違い、「心字池(しんじいけ)」を中心に草木が生い茂り閑静な中を散策するのに適した庭になっています。
心字池とは草書体の「心」の字をかたどって作られた池をさし、鎌倉、室町時代の庭によく見られ、西芳寺(こけ寺)、桂離宮のものが有名。実際に心字形でなくとも、池の中に中島を置き、岸辺のどこから眺めても全形が見えないような複雑な形の池をいうこともあるそうです。この東庭もいくつか中島が配され、庭の全体像がつかみにくくなっている。

東庭を南側から北方向を眺めると、樹木の間から建物が少し見えます。かって衣笠山を借景とした美しい庭園だったが、立命館大学衣笠キャンパスの学舎建設により失われてしまった。写真のように樹木を高く伸ばし校舎を隠している。また衣笠山から池に引いていた水路も絶たれ、現在は井戸水をくみ上げて循環させているそうです。
東庭には特に楓の木が多く見られ、秋の紅葉時期には池の周りが真っ赤に染まる風景が思い浮かんでくる。



東庭の北側に、高さ5mの十三重塔が建つ。室町幕府将軍十五代の供養塔で、足利歴代将軍の遺髪を納めている。
南側に周ると、東庭と西庭の境目に足利尊氏の墓が建つ。四重の基壇の上に蓮華の紋様が彫られた宝瓶がのる宝筐印塔。一番上の台座には「延文三年(1358年)四月等持院殿贈太相国一品仁山大居士」とある。江戸時代の勤王志士・高山彦九郎(1747-1793)は、尊氏の罪状を数えながらこの墓を鞭で打ったという。

方丈の東側に建つのが霊光殿。「足利尊氏公が日頃念持仏として信仰された利運地蔵尊(伝弘法大師作)を本尊として、達磨大師と夢窓国師とを左右に、足利歴代の将軍像(5代義量と14代義栄の像を除く)が、徳川家康の像と共に両側に安置されている。」(パンフより)
42才の厄除けとして造らせた家康の像は、自らの祈祷所である石清水八幡宮豊蔵坊に置かれていたが、明治の廃仏毀釈によって豊蔵坊が廃止されたためにここにに移されたもの。

幕末の文久3年(1863)2月23日未明、足利三代木像梟首事件が起こる。武士の時代を築いた鎌倉幕府、室町幕府を朝敵とみなし、尊皇派の志士が霊光殿に侵入し、足利尊氏・義詮・義満三代の木像の首を引き抜き、位牌ととも持ち去った。そして目は刳りぬかれ、首には位牌が掛けられて鴨川の三条河原にさらされ、「逆賊」の宣告文の立札が添えられていた。木像の首はすぐに寺に戻され、犯人は逮捕されたが朝廷、長州藩の介入により軽い処分で済んだという。

 竜安寺 1(石庭)  



等持院西側の住宅路を北へ上り「きぬかけの路」へ戻る。数分歩けば竜安寺の入り口が見えてくる。竜安寺は、禅宗の臨済宗妙心寺の境外塔頭寺院。

もともとこの辺りは徳大寺家の山荘だった。この山荘を足利将軍の菅領職にあった細川勝元(1438-73)が譲り受け、宝徳2年(1450)敷地内に龍安寺を建立したのが始まり。開山(初代住職)には妙心寺第5世の義天玄承を迎えた。応仁の乱(1467-77)が起こると、勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を受け、応仁2年(1468)に龍安寺は焼失。勝元の死後、その子・細川政元(1466-1507)によって再興され、明応8年(1499)に方丈を建立、石庭もこの時に築造されたと伝えられる。その後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家らが寺領を寄進するなどし、最盛期には23の塔頭をもつほどに寺運は栄えたという。。しかし、寛政9年(1797)に起こった火災で方丈、開山堂、仏殿など主要伽藍が焼失した。そのため、塔頭の西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈とし、現在に至っている。
明治になり廃仏毀釈によって境内地は縮小し衰退したが、その後、庫裡や仏殿が再建された。昭和50年(1975)、イギリスのエリザベス女王夫妻が龍安寺を訪れ石庭を鑑賞になり大絶賛された。それを英国BBC放送が大々的に取り上げたことで、名園として世界中に知れ渡り、海外からの観光客が多数訪れるようになる。平成6年(1994)にはユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」に登録された。

入り口を入っていくと山門が現れ、この山門脇に拝観受付がある。
拝観時間: 3月1日~11月30日  8:00a.m - 5:00p.m.
      12月1日~2月末日  8:30a.m - 4:30p.m.
拝観料: 大人・高校生 500円  小・中学生 300円

(境内図は公式サイトより)山門からは緑に覆われた参道がのびる。楓のようなので、秋には燃えるような参道になるに違いない。木立が低いので紅葉のトンネルですね。

参道の奥に階段が現れ、その上に禅宗寺院特有の三角形の屋根と白壁が印象的な庫裏が建っている。「寛政九年(1797)の火災で焼失後に再建される。本来は「寺の台所」という意味を持つ「庫裡」だが、禅宗寺院では「玄関」としている所が多い。禅宗寺院建築の特徴を捉えた木組と白壁からなる構成は簡素かつ重厚であり寺院全体と見事に調和している。紅葉時は鮮やかな色彩に映えてさらに美しさを際立たせている。」(公式サイトより)

庫裏が、伽藍・石庭拝観の玄関です。
通常非公開の茶室「蔵六庵」と、方丈の襖絵が特別公開されている。特別公開は知らなかったのだが、明日が最終日なので運がよかった。

履き物を脱いで上がった庫裏の広間。燭台の薄明りで浮かび上がる文字屏風、白壁とうっすら黒光している床板、”幽玄”の言葉が想起されるような情緒ある間となっている。竜安寺で一番印象に残った場所でした(石庭よりも)。
禅寺だが、達磨大師でなく「雲関」の衝立も良い。説明文は判読しにくいのだが、大雲山(竜安寺の山号)の玄関、という意味らしい。

庫裏の西側はすぐ方丈です。方丈の広い縁で皆一方向を見つめている。石庭です。コロナ禍以前では、廊下に人があふれ、座ることもできなかったそうです。

方丈の内部。元々の方丈は寛政9年(1797)の火災で焼失したため、塔頭の西源院の方丈(慶長11年<1606>、織田信包による建立)を移築したもの。重要文化財となっている。
この方丈には狩野派の筆による襖絵があったが、明治初期の廃仏毀釈の際に売られて外部に流出してしまった。現在目にする襖絵は、昭和28年(1953)に故皐月鶴翁(さつきかくおう)が5年かけて描いた「臥龍梅(がりゅうばい)」。龍と北朝鮮の金剛山を描いたもの。

枯山水庭園の代表格ともいえる方丈庭園「龍安寺の石庭」。国の史跡及び特別名勝になっている。幅25メートル、奥行10メートル余り、広さ約75坪の長方形の三方を塀で囲み、石傍のコケ以外一木一草も置かず、白砂と石組みだけで構成されている非常にシンプルな庭です。
庭全体に白砂を敷き詰め砂紋を描き、その上に東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15個の大小の石が配置されている。この石組みから(5個+2個)=7、(3個+2個)=5、3とみて「七五三の庭」とも呼ばれます。

公式サイトに石庭にまつわる「四つの謎」がのっている。
★その1)「刻印の謎」・・・石庭の作庭者は誰か?。塀ぎわの細長い石の裏に「小太郎・□二郎」の刻印が残っているが、これを作者と判定できず、作者は依然として謎のまま、だそうです。受付で頂いたパンフには「室町末期(1500年ごろ)、特芳禅傑などの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられています」とあるのだが。
★その2)「作庭の謎」・・・「一般には「虎の子渡しの庭」「七五三の庭」と呼ばれる。あるいは、大海や雲海に浮かぶ島々や高峰、「心」の字の配石、また中国の五岳や禅の五山の象徴とも。もとより作者の意図は今や不明。禅の公案にも見えるが、ただ鑑賞者の自由な解釈と連想にゆだねるしかない。」
「虎の子渡しの庭」は、あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているように見えることからくるという。
特に意味は無いのではないか。意味のないところに意味を見出そうとするのが人間の性なのです。ただジィーと見つめているだけでいいのです。心に響くなら見とれればよい、眠たくなったら眠ればいい、退屈ならば去ればいい。

★その3)「遠近の謎」・・・「一見水平に見える石庭だが、東南角(方丈から見て左奥)に向かって低くすることで、排水を考慮した工夫が施されている。また、西側(方丈から見て右)にある塀は、手前から奥に向かって低くなるように作られている。ここにもまた、鑑賞者の錯覚を利用した心憎いばかりの演出が見られる。視覚的に奥行きを感じさせるために土塀の高さを計算し、遠近法を利用した高度な設計手法といえる」

★その4)「土塀の謎」・・・「高さ1メートル80センチの土塀。油土塀と称するこれもまた、石庭を傑作とならしめる重要な構成要素である。この油土塀とは、菜種油を混ぜ入れ練り合わせた土で作られており、白砂からの照り返し防止や、長い風雪、環境変化に耐えぬく、非常に堅牢な作りに仕上がっている。ちなみに石庭面は、外側の地面から80センチほど高い場所に位置する。これも強固さを保つための工法上の工夫によるという。」

これは謎ではないのだが、どの場所から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないという。意図的なものなのか、偶然なのか。
東洋では「15夜満月」と言われるように、「15」は完全を表す数。完全な神や仏は全て見えるが、不完全な人間には全ては見えない、心の目で見よ、という教えだそうです。

「石庭」といえば龍安寺が想起されるように有名で、写真が教科書にも載っていた記憶がある。しかしこれほど注目されるようになったのは戦後で、かっては鏡容池を中心とした庭園のほうが注目されていたという。
昭和50年(1975)5月10日、イギリスのエリザベス二世女王とフィリップ殿下が龍安寺を訪れ石庭を鑑賞になり大絶賛された。それを英国放送協会(BBC)が大々的に取り上げたことで、名園として世界中に知れ渡り、海外からの観光客が多数訪れるようになる。バッキンガム宮殿の壮大で豪華な庭園のもとでお暮しになっている女王夫妻は、白砂と石だけのこうした簡素な庭に心打たれたのでしょう。私は逆に、欧州の宮殿庭園のすごさに心打たれるのですが・・・。

 竜安寺 2(茶室と鏡容池)  



方丈の縁側は、石庭のある南側から西側、北側へと続いており周ることができる。これは方丈北側の廊下。「知足の蹲踞(つくばい)」が置かれている。ただしこれは実物大の複製だ。本物は茶室脇にあり通常非公開なのだが、今回は特別公開されています。

方丈の裏側で、竜安寺垣と秀吉が称賛したと伝えられる佗助椿(わびすけつばき)を見ることができる。
「竜安寺垣(りゅうあんじがき)」は、背の低い透かし垣で、透かしの部分に割竹を菱形に張り、化粧縄で結んでいる。こうした路地と庭の境に用いられることの多い竹垣には、「金閣寺垣」同様に寺院名をつけて呼ばれることが多い。
千利休と同時代の茶人・佗助が文禄(1592)・慶長の役(1597)の時に朝鮮から持ち帰ったことから「佗助椿」と呼ばれ、茶道の挿し花として用いられてきた。立札には「日本最古」とあります。

次は、今回特別公開された茶室「蔵六庵」と「芭蕉図」を見に行きます。庫裏と方丈の間に設けられた拝観受付で400円支払うと、そのまま庫裏の裏(北側)の広間に案内される。そこに襖絵「芭蕉図」が展示されている。頂いた紙片には「「芭蕉図」は、桃山時代の狩野派か海北派の筆によるものとされ、かって竜安寺方丈(本堂)の内部を飾っていた襖絵。明治期の廃仏毀釈の影響により手放されて以来、123年ぶりとなる2018年に、竜安寺に帰還した。緑の芭蕉のみを単独で描いた襖絵は珍しく、金地に柴垣を背にした雄大な芭蕉という、斬新な構図が見所である」と書かれています。

広間の廊下から竜安寺の名物「知足の蹲踞」の実物を見ることができる。そもそも「蹲踞(つくばい)」って何でしょう?。辞書を引くと「
茶庭の手水鉢のこと。石の手水鉢を低く据えてあって、手を洗うのに茶客がつくばう(うずくまる、しゃがむ)ことからくる」とある。それでは竜安寺のものを「知足の蹲踞」と呼ぶのは?。公式サイトに「中央の水穴を「口」の字に見立て、周りの四文字と共用し「吾唯足知」(ワレタダタルコトヲシル)と読む。これは釈迦が説いた「知足のものは、貧しといえども富めり、不知足のものは、富めりといえども貧し」という「知足(ちそく)」の心を図案化した仏教の真髄であり、また茶道の精神にも通じる。また、徳川光圀の寄進とされる。」と説明されている。なるほど、中央の水溜口を漢字部首の「口」と見たてるのですね。

廊下の先に、通常は非公開の茶室「蔵六庵(ぞうろくあん)」がある。もとは塔頭・西源院にあったが明治中頃に移築された。四畳一間で、中板が敷かれ炉が切られている。「蔵六とは亀の別名であり、頭・尾・四肢を甲羅に隠すことからこのように言われているが、仏教的には蔵六は「六根を清浄におさめる」の意となる。」(公式サイト)

次は鏡容池の周りを歩いてみます。庫裏を出て階段を降り西へ進むと池の回遊路は南へ曲がるのだが、その角に階段が見える。階段の上に見えるのが涅槃堂(納骨堂)で、その脇にパゴダ(ビルマ方面軍自動車廠戦没者の慰霊塔、1970年(昭和45年)8月建立)が建つ。

納骨堂の南側一帯が桜苑、梅林となっている。桜の最盛期は過ぎているので、散り残りの桜が彩をそえ、迎えてくれました。



境内の南側には大きな鏡容池があり、その周りを一周できる散策路が設けられている。楓の木が多く見られるので、紅葉の秋には多くの観光客で賑わうのではないでしょうか。

公式サイトには「平安時代、竜安寺一円が徳大寺家の別荘であった頃、お公卿さんがこの池に竜頭の船を浮かべて歌舞音曲を楽しんでいたことが文献に残っている。また、昔時は石庭よりも有名で、おしどりの名所であった。今は、カモやサギが池のほとりで羽根を休める姿が見られ、年間を通して四季それぞれの美しい草花が楽しめる」とあります。

鏡容池一周散策路は、拝観受付のあった山門脇に出る。以上で竜安寺は終わり、次に竜安寺の裏山にある天皇陵へ向かいます。

 朱山七陵(しゅやましちりょう)1  



龍安寺の裏山には幾人かの天皇墓があります。山門から100mほど参道を進むと写真のような三叉路に出会う。石庭へは左へ、車椅子やベビーカーは右へ、との案内標識だある。庫裏前には大きな階段があるので、それを避けれるのが右への道です。
天皇陵へ行くにもこの右の道に入る。天皇陵への案内標識などありません。

50mほど入ると、写真のような警告表示が現れる。山登り、ハイキング、ウォーキング、散歩などであっても「入るな!」という宮内庁の厳しい警告だ。私は「御陵関係者」ではないが「皇陵墳墓の参拝」として入ることにした。
一つ疑問がある。山門を通るので、陵墓参拝だけであっても龍安寺の拝観料を払わなければならないのか?。受付で”石庭は見ないよ”と言えばスルーできるのでしょうか。しかし地図を見て気づいた。東側の竜安寺駐車場からこの道につながっているので、山門を通らなくてもよい(これが宮内庁の案内する陵墓参道となっている)。ということは鏡容池を中心とし庭園だけなら無料で見学できる。庫裏に入るには拝観券を提示しなければならないのですが。

龍安寺の真裏なので、すぐ陵墓が見えてきました。
龍安寺背後の山は「朱山」(標高248m)で、後朱雀天皇・後冷泉天皇・後三条天皇・一条天皇・堀河天皇・後朱雀天皇皇后禎子内親王の6陵墓と、円融天皇火葬塚がある。これらを総称して「朱山七陵(しゅやましちりょう)」または「龍安寺七陵」と呼ばれています。

まず最初に見えてくるのが「後朱雀天皇皇后禎子内親王圓成寺東陵」(えんじょうじのひがしのみささぎ)
「内親王」とは、天皇の皇女という高貴な身分をさします。禎子内親王(ていしないしんのう)は、第67代三条天皇の第三皇女として生まれ、第69代後朱雀天皇の皇后となり、第71代後三条天皇の母となった方です。寛治8年(1094)1月疱瘡(ほうそう)を患い崩御、82歳でした。陵形は円丘という。

禎子内親王圓成寺東陵とは道を挟んで反対側の、少し小高くなった山裾に三天皇の陵墓が並んで造営されている。禎子内親王にとって後朱雀天皇は夫で、後三条天皇は息子です。最愛の二人を見守るように西面して、即ち天皇陵のほうを見守りながら禎子内親王の墓が建っている。

同域に三天皇陵が並ぶ。右が父親の後朱雀天皇圓成寺陵、中央に長男の後冷泉天皇圓教寺陵、左に次男の後三條天皇圓宗寺陵の順に並んでいます。陵名にそれぞれ天皇に縁の深い寺名が付いています。

円融寺と、陵名となっている円乗寺、円教寺、円宗寺をあわせて「四円寺(しえんじ)」と総称されています。平安時代中期に各天皇の発願により仁和寺の子院として造営され、近くに陵を造築、墓守としての性格をもつ寺でもあった。しかし、応安2年(1369)、大風で円宗寺が全壊したのを最後に、四円寺は再建されることもなくいずれの寺院も廃絶となって正確な所在地が不明となっている。また、四円寺のそれぞれの寺域を確定する絵図などは残っておらず、わずかに文献史料に散見できるだけです。推定地についても、現在は多くの家が建ち並ぶ住宅地になっているところがほとんどです。

右の地図は(財)京都市埋蔵文化財研究所の作成(1995年10月)による(ココを参照)。1980年代の調査と文献史料から作成、推定されたものだそうです。

円乗寺・円教寺・円宗寺は、現在の仁和寺の南側に有ったと推定されている。だから竜安寺裏の現在の三陵墓の場所は全く根拠がありません。天皇陵を確定さす必要に迫られた幕末に便宜的に決めたものと思われます。円融天皇が築いた円融寺だけは竜安寺の場所に当てはまる。平安時代の終わりに、衰退していた円融寺の土地を藤原氏が手に入れ徳大寺を創建した。それを室町時代の細川勝元が龍安寺として再建したのです。

■第69代後朱雀天皇(ごすざくてんのう、1009-1045、在位:1036-1045)
第66代一条天皇の第三皇子で、母は藤原道長の娘・上東門院彰子。名は敦良(あつなが)。9歳で同母兄・第68代後一条天皇の皇太弟になる。寛仁5年(1021)道長の六女で叔母にあたる嬉子を妻とし、第一皇子親仁(第70代後冷泉天皇)が生まれるが、嬉子は出産後に急逝した。その後道長の外孫で従姉妹の禎子内親王が入内し第二皇子尊仁(第71代後三条天皇)を生む。長元9年(1036)、同母兄・後一条天皇の死により28歳で即位。当時は藤原氏の摂関政治の最盛期にあたり在位中は藤原頼通が関白として威勢を振るい、天皇の意のままにはならなかった。
寛徳2年(1045)、病に伏した天皇は、藤原家の意向どおり道長の孫にあたる第一皇子の親仁親王(第70代後冷泉天皇)に譲位、同時に皇后禎子内親王との間に生まれた尊仁親王(第71代後三条天皇)を新帝の皇太子と定めた。その2日後に剃髪し出家したが同日崩御。享年37歳だった。火葬され、遺骨は仁和寺内の円教寺に納められた。10年後(1055年)、円教寺内に新堂として円乗寺が創建され陵とされた。円乗寺はその後焼失し、再興されることなく「焼堂」と呼ばれ、所在不明となっていた。
幕末の文久の修陵で現在地が陵墓とされ、元治元年(1864)三陵合わせて修陵された。陵名は「後朱雀天皇圓乘寺陵(えんじょうじのみささぎ)」、宮内庁の公式陵形は「円丘」となっている。

■第70代後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、1025-1068、在位: 1045-1068)
後朱雀天皇の第一皇子、母は藤原道長の長女・藤原嬉子で、名は親仁(ちかひと)。乳母は紫式部の娘大弐三位。長暦元年(1037)皇太子となる。寛徳2年(1045)父の死に伴い21歳で即位した。末法思想が広がり、各地で寺院が建立された時代です。母の兄・藤原頼通が関白をつとめ威勢を振るった。頼通は一人娘・寛子を天皇の皇后とし、皇子誕生の望みをかけたが、遂に皇子は生まれなかった。天皇には他に、章子内親王(後一条天皇第一皇女)、藤原歓子(関白藤原教通三女)の妃がおり、同時に三人の后妃が並立した史上唯一の例となっている。しかしいずれも後継ぎとなる皇子にはめぐまれなかった。
治暦4年(1068)4月19日、在位のまま崩御。在位24年、宝算44歳だった。藤原氏を直接の外戚としない異母弟の後三条天皇が即位することになる。宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇が出現し、栄華を極めた藤原氏の没落がはじまり、摂関政治は弱体していった。
船岡の西野で火葬され、遺骨は仁和寺内の円教寺に納骨された。その後、仁和寺山(朱山)に葬られた、との記録が残る。しかし、中世(鎌倉時代-室町時代)には陵地は不明になる。幕末の文久の修陵で現陵が造営された。陵名は「後冷泉天皇圓教寺陵(えんきょうじのみささぎ)」、宮内庁公式陵形は「円丘」。

■第71代後三条天皇(ごさんじょうてんのう、1034-1073、在位:1068-1072)
後朱雀天皇の第二皇子で、母は禎子内親王。名は尊仁(たかひと)。治暦4年(1068)後継がなかった異母兄の後冷泉天皇の死により35歳で即位。
学を好み、才能卓抜、資性剛健で、母が藤原氏の出でなかったため摂関家にはばかることなく、また藤原氏の内紛に乗じて摂関の専権を押さえて、さらに大江匡房らを重用して積極的に親政を行った。延久元年(1069)に延久の荘園整理令を発布し、違法な手続によって立荘された荘園を整理・停止し、新規設置の取り締まりをおこないました。収公された荘園の多くは後三条天皇領となり、皇室経済基盤の強化が図られた。一方で有力貴族の経済基盤には大打撃となりました。こうした後三条天皇の親政は「延久の善政」と称えられたという。延久2年(1070)、御願により円宗寺を創建。延久4年(1072)、即位後4年で第一皇子貞仁親王(白河天皇)に譲位して院政を開こうと図ったが、翌年には病に倒れ、40歳で崩御した。

延久5年(1073)5月7日に崩御。神楽岡南の原で火葬にされ、遺骨は禅林寺(永観堂)内の旧房に安置された。その後、仁和寺の寺地内にあった円宗寺に移されたという。円宗寺は荒廃し廃絶され、所在も不明になってしまっていた。幕末の文久の修陵で現陵が造営された。陵名は「後三条天皇圓宗寺陵(えんそうじのみささぎ)」、宮内庁公式陵形は「円丘」。

 朱山七陵(しゅやましちりょう)2  



一条天皇と堀河天皇の陵墓は朱山を登った上にあります。禎子内親王墓と三天皇墓の間の道を奥へ進み、山中に入っていく。ここからは緩やかなつづら折れの登り道ですが、天皇墓への参拝道だけあって、よく整備された石畳の階段となっている。

10分ほどで明るくなり、綺麗に手入れされた植え込みが見えてくる。正面に回ると、植栽に挟まれた階段の上に陵墓の鳥居が少しずつ大きく見えてくる。伏見にある明治天皇の陵墓を思い出します。天皇崇拝者にとっては胸キュンとなる瞬間でしょう。

二天皇だが、拝所は一つしかない?。幕末の文久の修陵(1862-1864)で現在地に決められ陵墓が造営された時は、一条天皇、堀河天皇それぞれに拝所が設けられていたという。それが明治45年(1912)に二陵共用の拝所に変えられたようです。何故に?。見えないのだが、もちろん墓とされる円丘は別々です。右側が「一條天皇圓融寺北陵」、左側が「堀河天皇後圓教寺陵」となっているようです。
宮内庁のページには現在地<京都府京都市右京区龍安寺朱山 龍安寺内>となっているのですが、ここまで龍安寺の境内はひろがっているのだろうか?。

■第66代一条天皇(いちじょう てんのう、980-1011、在位:986-1011)
第64代円融天皇の第一皇子、母は藤原詮子(藤原兼家の娘、道長の姉)で、名は懐仁(やすひと)。兄弟姉妹はいない。永観2年(984)、5歳で従兄・第65代花山天皇の皇太子になる。寛和2年(986)6月22日、19歳の花山天皇は内裏を抜け出し剃髪して仏門に入り退位した。この突然の出家は、藤原兼家が孫の懐仁親王(一条天皇)を早期即位させるための陰謀だったと伝わる(寛和の変)。7歳の懐仁親王は第66代一条天皇として即位する。皇太子には冷泉天皇の皇子居貞親王(三条天皇)を立て、摂政に藤原兼家が就任し若い天皇の後見にあたった。兼家はさらに関白、太政大臣となって権力を独占するが、4年後(990年)に病死。兼家死後は長男の道隆が摂関の地位を引き続ぎ、娘・定子(ていし)を一条天皇の中宮に入れる。この定子に仕えた女房のひとりが清少納言です。
道隆の死後、その弟・道兼が継ぐ。道兼が就任数日で亡くなると、末弟・道長が政治の実権をにぎった。道長は娘・彰子(しょうし)を一条天皇の皇后として中宮に入れ、敦成親王(第68代後一条天皇)、敦良親王(第69代後朱雀天皇)をもうけている。彰子の侍女として仕えたのが紫式部、和泉式部でした。宮廷女流文学の最盛期であり、定子に仕えた清少納言、彰子に仕えた紫式部らが互いに競ったという。一条天皇自らも文芸に深い関心を示し、教養に富み温厚であったと伝えられ、権勢を握る道長とときに意見の対立をみながらも、相和して政治をおこなったという。寛弘8年(1011)5月末頃には病が重くなり、皇太子居貞親王(第67代三条天皇)に譲位し出家する。その3日後に崩御、32歳だった。

寛弘8年(1011)6月22日、一条天皇は一条院(上京区)で亡くなる。7月8日夜、火葬の後、遺骨は円城寺(円成寺)に安置された。生前に天皇は、父・円融天皇の陵の傍らに土葬することを遺詔していた。後に道長はそのことを思い出し、没後9年後の寛仁4年(1020)に遺骨は円融寺北方の円融天皇火葬所の傍らに蔵骨されたという。その後、陵所は不明になる。幕末の文久の修陵(1862-1864)で現在地に決められ、堀河天皇陵とともに陵が造営された。陵名は「一條天皇圓融寺北陵(えんゆうじのきたのみささぎ)」、陵形は円丘。火葬塚は(一条天皇・三条天皇火葬場(北区衣笠鏡石町2-14))となっている。

■第73代堀河天皇(ほりかわてんのう、1079-1107、在位:1086-1107)
第72代白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子で、名は善仁(たるひと)。応徳3年(1086)立太子と同日に8歳で父・白河天皇から譲位され即位した。外祖父にあたる関白・藤原師実、次の藤原師通が関白となり実権を握ったが、堀河天皇も提携し親政を行い「末代の賢王」とまで評されたという。しかし承徳3年(1099)に師通が死去すると、天皇はしだいに白河法皇に相談するようになり、白河法皇の院政が強まっていった。その結果、堀河天皇の在位はかたちばかりのものになり、天皇は文芸、和歌、笙笛にいそしむようになり、政治から離れていった。堀河天皇は人望も厚く才知にも長けていたとされるが、生来病弱だったのが災いして、嘉承2年(1107)に在位のまま29歳で崩御した。

嘉承2年(1107)7月19日、堀河院で亡くなり7月24日、香隆寺南西の野の山作所で火葬にされた。遺骨は、香隆寺の僧坊に安置されたが、その6年後に仁和寺の円融院に移されたという。別の記録では「後円教寺」とあるので、これが現在の陵名になっています。いずれの寺も中世(鎌倉時代-室町時代)に廃絶し不明になってしまっている。陵の所在地は不明のままだったが、幕末の文久の修陵で一条天皇陵とともに、現在地が堀河天皇陵として修陵された。陵名は「堀河天皇後圓教寺陵(のちのえんきょうじのみささぎ)」、陵形は円丘。

後ろを振り返ると、京の街が一望に見渡せる素晴らしい絶景が広がっています。数多くの天皇陵を見てきたが、眺望の良さではここが一番でしょう。
朱山をさらに登ると山頂に「円融天皇火葬塚」があるのだが、そこまで行っておられないので下山し、次の仁和寺へ向かいます。


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