大同大学-高森裁判 経過ブログ

「ペンネーム使えますか?」
問い合わせただけで契約を解除された高森が、支援者とともに裁判を闘うドキュメンタリー。

被告大学の主張検討(第3準備書面)

2009-10-09 11:24:14 | 法律論
 こちらとしては、穏当な和解案を提示したと思っていたのですが、どうやら「第三者への口外禁止条項」をどうしても受容できなかったし、あちらもここは譲れないということでした。
 まず、直接署名を下さった方が1300人と40団体。東海圏大学非常勤講師組合や関西圏大学非常勤講師組合などいくつかの団体が機関紙の紙面を割いてくださっていますので、ここにもご報告申し上げなければなりませんし、ブログ経由でしか結果を伝える手段がない署名者もいらっしゃいますので、ブログでの結果報告も必須です。
 そうなると、とてもじゃないが「口外禁止」はできないというのが現実的な判断となります。
 残念ながら、支援者に結果報告をしないでカンパや署名を集められるようなものではありません。

 そんなわけで、裁判は長期化し、判決までいくことになりました。

 さて、そうすると再び被告大学の主張をきちんと検討し、それに誠実に答えていく必要があります。

 第三準備書面がすでに提出されていますので、そちらの検討をしてみたいと思います。

 第三準備書面で新しく出てきた論点はいくつかあります。
 まず、あたかも採用したかのようなメールを出したのは「社交辞令」である、ということ。


 「○○准教授のメールは、被告における非常勤講師の採用募集に対して、名古屋芸術大学の茶谷薫専任講師の紹介のもとに、原告が申し込みをしてきたことに対する御礼のメールである。メールの内容全体を見れば明らかなとおり、申込者に対する社交辞令としてなされたものに過ぎず、このようなメールが送信されたからといって、受取人である被送信者が採用されたことにはならない」

 そんなわけで、大同大学では現在、来年度の更新手続きや新規採用の手続きがおこなわれているとは思いますが、そこで採用されたかのようなメールを受け取った先生方は要注意です。処々の手続きを経て、あくまでの大学当局からの採用を知らされるまで採用されていないということのようです。つまり、講義が始まってから、大学にいきロッカーに辞令がはいっていたら、やっと自分が採用されていたのだということが分かるのです。
 しかし、これでは大学側、講師側双方とも不利益と思われます。大学側としても、たとえば3月終わりの時点で、「辞令が交付されていないので、採用されたとは考えられず、ほかの仕事をその時間にはいれました」といって辞める人がいても何もいえないことになります。それからほかの講師を探すことができるのでしょうか? このような状態で雇用をしていて、大学として十分な教育サービスを学生に提供できるとは思えません。
 非常勤講師といえども、90分の授業をするにあたって相当な準備をするわけですから、3月に依頼されて4月からその大学の学生に見合う授業をしろと突然言われても不可能でしょう。それで開講できないということになると、予定されていた教育サービスのメニューが不足し、学生が不利益を蒙ることになります。そんなのはお構いなしだというのが、大学側の立場なのでしょうか?

 ほかの論点はまたおいおいご紹介いたします。

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ところで教授会権限について

2009-07-28 09:53:20 | 法律論
 ところで、第2準備書面で「大学という組織体が採用する」と書いてあるには問題があると前田さんは言っています。
 どこの大学でも法人と契約を結ぶのでそんなもんだろうと思ったのですが、「採用者の決定権は教授会にある」のであって、大学の事務方は事務的な条件整備をすることがお仕事なのであって、採用権限が大学当局にあるというのはおかしいと、教職員組合側からは主張ができるのだそうです。

 私としては、大同大学の教授会が採用権限を失おうと知ったことではないのですけどね。

 ところで、担当の○○准教授や教室主任の教授は、大学から「なんの権限もないのに訳の分からないメールを出している」といわれていることを知っているのでしょうか? こうしたことは少なくとも本人たちは採用に関する権限があると思っていなければできないことなので、そこのところがどうだったのか証言をしていただきたいところです。

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表見代理とは?

2009-07-28 02:30:25 | 法律論
 前回の被告大学が提出してきた第2準備書面で大切なのは、教室主任の監督下において○○准教授は「補助的作業」をしていたにすぎないということです。
 教室主任の教授は、カリキュラム編成の責任者であり、その人の監督のもとで「お引き受けいただきありがとうございます」なんてメールが来ているということは、普通なら「ああ、採用されたんだな」と思うだろうということがはっきりしました。
 なので、契約の成立性はより強固なものとなっただろう、というのが第一段階の論証。
 さらに、たとえ採用権限がない一教授個人がメールをしていたのだとしても、少なくとも大同大学は「リストアップの権限」は認めているので、その教室主任の教授が本来与えられている権限を楡越して行使したということにはなるだろうというのが第二段階の論証です。このように一部の権限を与えられた人が、外見上、それ以上の権限を与えられているかのように振舞うことで、それを信用した人が締結した契約は成立しているということになります。
 たとえばデパートの食器売り場の店員が、美術部が扱うべき壷を売ってしまった。本来は食器売り場の店員は、食器を売る権限は会社から与えられていますが、壷を売る権限はなかったのですが、お客さんとしてはそのデパートの店員さんが売ってくれているのだから、そんなことは知りません。ところが、その壷が売れちゃっていることを知らない美術部の店員さんが別のお客さんにもその壷を売ってしまった。なんとか先に売れちゃっている壷を美術部の店員さんは取り戻したいと思ったのですが、それは可能か?というような問題です。
 食器売り場の店員さんには、壷を売る権限がなかったので、売買契約は成立していないということにはならないんですね。契約は成立しています。
 このように契約が代理権限を越えて成立することを「表見代理」といいます。

 同様に、今回、たとえ教室主任の教授にはリストアップの権限しかなかったと大学が言っても、その権限を越えて権限を行使し、採用を通知するメールを准教授に送らせており、私にその旨が届いたということで、表見代理の法理ははたらくという主張をしています。

 とかいって、なんのことはない裁判が終わってから、「「ひょうけんだいり」ってどんな漢字を書くんですか?」なんて聞いちゃったくらいなので(笑)、そんなことがあるなんてはじめて知りましたけど、言われてみたらそうなってもらわないと困ることが世の中いろいろあります。
 権限て?というエントリーで同様の疑問は発していて、普通の人が考える程度のことは、法律もちゃんと考えてあるんですね。ただし、法律的には表見代理が成立するためには、いくつかの条件が必要で、今回の書面や、紹介者の先生の陳述書でその条件がそろったと、竹内弁護士は判断をしたようです。

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手続きなのか実態なのか?

2009-06-23 04:52:18 | 法律論
 アメリカ連邦最高裁では、すごい判決が出ているようです。
 たとえばAFPとか。
 日本では菅家さんのDNA鑑定が間違っていたとなると、どういう権限によるのか何なのか知りませんがあっという間に牢屋から出てきてしまいました。そして検察は謝ったりして、めずらしくしおらしい。
 アメリカのアラスカ州で強姦で牢屋に入っている黒人のオズボーンさんも1994年にDNA鑑定を受けて有罪になっていました。オズボーンさんはDNAの再鑑定を申請したのですが、アラスカ州連邦裁判所は拒否をしました。
 オズボーンさんはこの拒否を違憲だとして連邦最高裁に訴えていたわけです。
 しかし、連邦最高裁は5:4で連邦裁の決定を支持しました。

 この決定はデュープロセスに則って行った判断であり有効であるということのようです。もし、オズボーンさんの有罪判決が覆るようなことがあってはならないというわけです。これは、日本のお役人たちが自分たちの無謬性を維持するために隠し立てしましょうというようなことではありません。
 もしDNA鑑定でオズボーンさんの無罪が確定したら、一体前回の裁判での決定はどうなるんだということを問題にしているわけです。つまりデュープロセスに則って決定されている以上、それはあくまでも最終決定なのであって、そのあとテクノロジーが発達したからといってくつがえすわけにはいかない。なぜならば、もしそれを認めると、すべての判決はいずれも暫定的なものにすぎないことになり、裁判の正統性も、デュープロセスの概念すら脅かしかねないというわけです。
 完全にスプリットな決定なのですが、残りの最高裁判事たちは事実を踏まえた判決を行わなければならないので、事実を明らかにする手段ができた場合にはそれを踏まえるべきだというものです。

 これは要は、裁判が正当な手続きを経て行われた場合にはその決定は正しいものとするという手続きの正統性を保障するべきなのか、自然科学的に事実に基づいた判決の正統性を保障するべきなのかという、極めて重い判断が行われたことを意味します。しかも、それがこれだけ意見が割れてしまう。

 大同大学の件でも、裁判官は手続きを重視していそうな口ぶりをしたりもしますので、非常勤講師採用の実態がどうなっているのかということよりも、大学が後出しじゃんけんで出してきた手続きを基礎にした議論をしてくれそうな雲行きもあったりしそうです。初めから決まってたんじゃないんだぜ。後出しじゃんけんで自分たちの行いを正当化するために採用プロセスをでっち上げてきて、しかもそれが担当者が言っていることと合わないんだから、びっくりです。それでも一応手続きを見るといわれると困るんですよね。
 アメリカ連邦最高裁とは比べ物になりませんが、大同大学も何もおかしいことはしていないということですから、隠し立てするようなこともないと思います。すべてをつまびらかに実態を明らかにして、判断をしてもらえるようにしたいです。

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学問の自由

2009-06-23 03:30:43 | 法律論
 大学には学問の自由が保障されているということになっていて、そのなかにはさらに「研究の自由、研究発表の自由、教授の自由、および大学の自治」というのが認められていると、大学の先生方はみんな思っています。
 いつぞやとある研究会に参加してみたところ、「マイケル・ジャクソンの顔の変化と仮面ライダーに出てくる怪人の装飾具合の変化がよく似ている」という発表をしている某有名大学の先生がおられて、こちらは発狂しそうになったことがあります。自由だから研究はしても良いんだろうケドさ。国立大学だったら確実に税金泥棒と叫ぶところですわな。といってもそれも若気の至りで、よく考えると私立大学も私学助成金でかなり食っているわけで、税金泥棒と叫んでもいいところでした。ま、昨今は、私学助成金は大学のばくち打ちに使われていて、うちの近所に引っ越してくるはずだった大学なんかも、お金がないからしばらく延期します、といっておられます。大丈夫、来年からまた授業料が舞い込みますから、数年で引越しもできるようになります。
 そんなわけで、大学にはいろいろな自由があり、その自由を謳歌しておられるのが大学の先生方なわけです。
 「大学の自治」といっても、大学経営者なのか、大学の先生たちなのか、学生たちなのか主体がなんなのかよく分かりません。しかし、鹿児島国際大学の先生方が集めてくださった判例集を見ると、その自治の一端は大学の先生方の意思決定機関である「教授会」にもあると裁判所はしばしば判断をしていらっしゃるようです。
 しかし、「学問の自由から教授会の自由が当然認められるものではない」という判断もあります。

 今回の大同大学事件については、大学側は担当の教授、准教授はリストアップをしているだけだといっています。単なる事務作業をしているだけなので、お前を採用した覚えはないというのです。そうだとすると、その時点で選考からはずす理由もありません。「ペンネームを使いたいといっているようなけしからん輩を採用するわけにはいかない」ということを、3ヵ月後の教務委員会か教授会で決定して落とせばよいのです(会議は3ヵ月後ですが、私の採用の決定は一日を争っていたそうですし、私の後任の先生は教授会で承認する前にシラバス作成という業務をやらされていたし、「教授会は形式的なものですから」と担当者から言われていたりしましたし、どこからどう見ても教授会での決定を待たずして事実上採用されている扱いになっていました。こうした事実をいくら積み上げても彼ら自身が教授会決定まで採用が決定されていないとする行動を取っていないのですが・・・)。履歴書を見たところ明らかに要求していた、修士以上の学位と大学での教育経験が不足しているなど純粋に事務的に採用には不十分なものについては事務的な手続きで選別をする権限もあるのでしょうが、最初の募集の条件にも入っていないし他の大学では普通に認められているペンネーム使用について問い合わせるということで、選別をする権限だけは認められているというのはいかにも不自然です。

 ところが、今回の事件では大学の専任の先生方はほとんど相手にしてくれません。
 「大学において教授会の権限は絶対なので、教授会を通っていない案件については、大学では何の決定もされていないということになります」と異口同音におっしゃるわけです。
 つまり、「教授会で決定するまでは、担当者は非常勤講師に何を言おうと、その結果非常勤講師がどんな目にあおうと知ったことではありません。大学のローカルルールを知らないお前がどうかしているのだ」ということをおっしゃるわけです。
 しかし、「自由」とはもともとは滝川事件天皇機関説事件などから考えられるようになってきました。日本で学問の自由が憲法23条に記されるようになった契機を作った事件は、国家権力との闘いでした。その本義を忘れて、自分たちの権力を温存することばかりに汲々としている大学の先生もあまりにも多いのが現実です。最近の例だと七尾養護学校の性教育に関する事件がありました。この先生方は自分たちの自由を守るために戦い抜きました。大学の先生方におかれましても、せめて都議くらいとは戦ってから自由を口にしてもらいたいものです。
 大同大学の先生方も、本当におかしなことをしていないという確信があるなら、せめて私たちと法廷で正々堂々と戦い抜いていただいて、教授会の権限を自分の力で守り抜いてから、自由を口にしていただきたいと思います。

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