昨日営業の途中で寄り道したのがJR大阪環状線玉造駅徒歩7分、大阪女子学園近く、森下仁丹社から西へ上がったところにある玉造稲荷神社!
灯台下暗しとはよく言ったもんだー近所に長年住んでいながら~まだまだ知らない所があったとは?
この神社は大阪でも、いや、日本でも最も古くー由緒ある神社なんですね~。
当神社は垂仁天皇18年(西暦紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ、
用明天皇3年に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたところ、のち枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったと記されています。
その後、天正4年の兵乱により本・末社、旧記等ことごとく亡くし、慶長8年には豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)を建立。元和元年の大坂落城を経て、元和5年には徳川幕府の大坂城代、内藤紀伊守を始め、氏子・崇敬者の寄進を以って再建。社名は豊津稲荷神社として豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の守護神」として崇敬されたことは今日に伝わっております。
しかし、文久3年11月の大坂大火(新町焼)を経て、明治4年氏子・崇敬者によりご造営。国家管理時代の社格は府社となり、その後昭和20年6月1日の大東亜戦争(第二次世界大戦)の戦禍を受けたが、戦後は新憲法のもと宗教法人(神社本庁)玉造稲荷神社となったんですねー。
社殿は昭和29年10月15日にご遷座。昭和51年5月には、皇室より三笠宮親王殿下をお迎えし創祀二千年祭奉祝事業達成祈願祭を盛大に営み、平成元年6月創祀二千年祭を挙行し、分社・東雲稲荷神社を中央区上町1丁目に鎮座し現在に至っている。
これがその石鳥居で1603年から幾多の戦乱、太平洋戦争でも消失、破壊を免れたのにあの阪神大震災で石の土台がボッキリと折れて崩壊鳥居の上部3分の一の姿となり境内の奥に鎮座してるんです!
哀れ~!
でも、この玉造の地が古代2000年位前の勾玉作り職人の玉作り部が多く居住していたのでその地名になったとは恥ずかしながら知らなかったなー!
それに、豊臣秀吉に切腹させられた千利休の
碑が境内にあり豊臣時代に当寺社の南西に千利休の邸宅がありこの地でお茶の清水を汲み取ったのでこの近くの清水谷という地名になったんだとか~。
それにしてもご近所に由緒ある歴史ありとはねー!