年のわりに法師の歩みは速く、両手で重い
鞄を持った宇一は、ちょっと油断すると、大
きく引き離されてしまった。
「ず、すみません。坊さま。もう少しゆっ
くり歩いていただけないでしょうか」
泣く声に似た宇一の声が聞こえたのだろう。
法師は立ちどまると、右手に持った杖を一
度、ガシャンと地面に突き立てた。
「そんなことでは、今夜中にお堂に着くこ
とはできぬぞ。持っているものなど捨て去っ
てしまうことだ」
「そ、それはできません。ここには大事な
ものがつまっておりますものですから」
「大事なものとは?」
「そ、それは言えません。私物なら置いて
ゆくこともできますが」
「他人のものだと申すのじゃな」
「はい。友だちの衣服が入っています」
宇一は法師に対して、違和感を抱いた。
(こんなにうるさい人だったろうか)
「どおれ、どれ」
法師はきびすを返し、宇一がたたずんでい
る場所に歩いて来る。
半分くらい近づいたところで、彼は急に立
ちどまった。
「お、お手前は気づかぬか。何も?」
そう言い終わらないうちに、法師は地面に
がくりとひざを折り、う、ううんと唸ったき
り、しばらく苦し気にせき込んだ。
「和尚さま、どうされました?あなたがご
病気にでもなられたら、わたしはいったいど
うすればいいのでしょう」
「ごっほん、ごほん。こんなに息ができぬ
くらいになったのは初めてじゃ。なあむあみ
だあぶつ、なむあみだあぶつ」
ふいに彼はお経を唱え始めた。
彼の声が木霊となって、谷間に響きわたる。
いつの間にか、ふたりは山中にいた。
広かった川幅はいつしか、渓流のそれにとっ
て代わっている。
山を下っていく流れが、高い木々のこずえ
の間をさしこんでくる月の光をうけ、きらめ
いていた。
「そこもとの持っているものを」
法師はやっとの思いでそれだけ言うと、に
くにくし気に首を横にふった。
「これ、この旅行かばんのことですか」
「ああ」
「これがどうかしましたか」
次の言葉がのどから出にくいのか、法師は
しきりに左手でのどをさする。
宇一は旅行鞄を両手で引きずりながら、彼
のもとに近づいて行った。
「よせ、よせと言うのに。それ以上わしに
近寄るんじゃない。わっわわわ」
わけのわからない声をあげると、法師は最
寄りの木々の間に入りこみ、歩きまわった。
その挙句、太い木の幹に彼の頭をぶつけそ
うになった。
「このかばんが具合がわるいんでございま
すね」
「そ、そうじゃ」
「その理由をお明かしください。そうすれ
ばわたしも納得がいきます」
「それはできぬ」
法師の咳は、ますますひどくなる。
「これを捨てろとおっしゃるのですね」
法師は黙っている。
うんと首をたてにふりたいと思うが、それ
はできなかった。
捨てなさい、と命じたとたん、自分がどの
ような運命にさらされるか、わかっていた。
彼はわざと話題を変えた。
「めざすお堂はもうすぐじゃ。法師ともあ
ろうものが取り乱してしまい面目ない。なん
でもお手前の好きなようになされ」
(法師は自分にとって大切な人。ここは未知
の世界。とにかく彼なくして自分は生きてい
く自信がない)
宇一はそう思い、彼が指さす方角に先頭に
なって歩いた。
くぬぎやならの林をぬけたところで、小屋
のような建物がひとつあるのに気づき、
「あれ、でしょうか。法師さま?」
と尋ねた。
「そうじゃ間違いない。今宵はもう遅い。
ここで、夜露をしのぐことにしようぞ」
「はい、わかりました」
これ以上、この旅行かばんのことについて
法師に話すことはできない。
宇一は、そのかばんを、法師に気づかれな
いようにお堂の床下に入れ、観音開きの戸を
開け、堂内に入りこんだ法師の後につづいた。
法師はよろめく足どりで仏像の前にすわり
こむと、
「やれやれじゃ。ここまで来ればな。お手
前もさぞかし腹が空いたことじゃろう。大き
いにぎりめしがひとつある。これをふたりし
て食べようぞ」
「ありがとうございます」
よほど腹が減っていたのか、宇一は夢中で
食べた。
「これこれ、まだ食べ残しがあるぞ。その
まま寝込んでしまっては大変なことになるぞ」
宇一は、法師の言葉を、すべて聞かないう
ちに深い眠りに落ちてしまった。
翌朝早く、鳥の鳴く声で宇一はめざめた。
だが、堂内に法師の姿がない。
宇一は扉を開け、外にでた。
「法師さま、もうし、ほうしさま」
大声で呼びかけたが、返事がない。
宇一は必死で彼を探しはじめた。
鞄を持った宇一は、ちょっと油断すると、大
きく引き離されてしまった。
「ず、すみません。坊さま。もう少しゆっ
くり歩いていただけないでしょうか」
泣く声に似た宇一の声が聞こえたのだろう。
法師は立ちどまると、右手に持った杖を一
度、ガシャンと地面に突き立てた。
「そんなことでは、今夜中にお堂に着くこ
とはできぬぞ。持っているものなど捨て去っ
てしまうことだ」
「そ、それはできません。ここには大事な
ものがつまっておりますものですから」
「大事なものとは?」
「そ、それは言えません。私物なら置いて
ゆくこともできますが」
「他人のものだと申すのじゃな」
「はい。友だちの衣服が入っています」
宇一は法師に対して、違和感を抱いた。
(こんなにうるさい人だったろうか)
「どおれ、どれ」
法師はきびすを返し、宇一がたたずんでい
る場所に歩いて来る。
半分くらい近づいたところで、彼は急に立
ちどまった。
「お、お手前は気づかぬか。何も?」
そう言い終わらないうちに、法師は地面に
がくりとひざを折り、う、ううんと唸ったき
り、しばらく苦し気にせき込んだ。
「和尚さま、どうされました?あなたがご
病気にでもなられたら、わたしはいったいど
うすればいいのでしょう」
「ごっほん、ごほん。こんなに息ができぬ
くらいになったのは初めてじゃ。なあむあみ
だあぶつ、なむあみだあぶつ」
ふいに彼はお経を唱え始めた。
彼の声が木霊となって、谷間に響きわたる。
いつの間にか、ふたりは山中にいた。
広かった川幅はいつしか、渓流のそれにとっ
て代わっている。
山を下っていく流れが、高い木々のこずえ
の間をさしこんでくる月の光をうけ、きらめ
いていた。
「そこもとの持っているものを」
法師はやっとの思いでそれだけ言うと、に
くにくし気に首を横にふった。
「これ、この旅行かばんのことですか」
「ああ」
「これがどうかしましたか」
次の言葉がのどから出にくいのか、法師は
しきりに左手でのどをさする。
宇一は旅行鞄を両手で引きずりながら、彼
のもとに近づいて行った。
「よせ、よせと言うのに。それ以上わしに
近寄るんじゃない。わっわわわ」
わけのわからない声をあげると、法師は最
寄りの木々の間に入りこみ、歩きまわった。
その挙句、太い木の幹に彼の頭をぶつけそ
うになった。
「このかばんが具合がわるいんでございま
すね」
「そ、そうじゃ」
「その理由をお明かしください。そうすれ
ばわたしも納得がいきます」
「それはできぬ」
法師の咳は、ますますひどくなる。
「これを捨てろとおっしゃるのですね」
法師は黙っている。
うんと首をたてにふりたいと思うが、それ
はできなかった。
捨てなさい、と命じたとたん、自分がどの
ような運命にさらされるか、わかっていた。
彼はわざと話題を変えた。
「めざすお堂はもうすぐじゃ。法師ともあ
ろうものが取り乱してしまい面目ない。なん
でもお手前の好きなようになされ」
(法師は自分にとって大切な人。ここは未知
の世界。とにかく彼なくして自分は生きてい
く自信がない)
宇一はそう思い、彼が指さす方角に先頭に
なって歩いた。
くぬぎやならの林をぬけたところで、小屋
のような建物がひとつあるのに気づき、
「あれ、でしょうか。法師さま?」
と尋ねた。
「そうじゃ間違いない。今宵はもう遅い。
ここで、夜露をしのぐことにしようぞ」
「はい、わかりました」
これ以上、この旅行かばんのことについて
法師に話すことはできない。
宇一は、そのかばんを、法師に気づかれな
いようにお堂の床下に入れ、観音開きの戸を
開け、堂内に入りこんだ法師の後につづいた。
法師はよろめく足どりで仏像の前にすわり
こむと、
「やれやれじゃ。ここまで来ればな。お手
前もさぞかし腹が空いたことじゃろう。大き
いにぎりめしがひとつある。これをふたりし
て食べようぞ」
「ありがとうございます」
よほど腹が減っていたのか、宇一は夢中で
食べた。
「これこれ、まだ食べ残しがあるぞ。その
まま寝込んでしまっては大変なことになるぞ」
宇一は、法師の言葉を、すべて聞かないう
ちに深い眠りに落ちてしまった。
翌朝早く、鳥の鳴く声で宇一はめざめた。
だが、堂内に法師の姿がない。
宇一は扉を開け、外にでた。
「法師さま、もうし、ほうしさま」
大声で呼びかけたが、返事がない。
宇一は必死で彼を探しはじめた。