油屋種吉の独り言

オリジナルの小説や随筆をのせます。

会津・鬼怒川街道を行く  (2)

2020-06-28 11:59:37 | 旅行
 大内宿に立ち寄ってみたが、今ひとつ旅
情がわかない。
 江戸時代の宿場の景観を残しているうえ、
お国なまりで在所の人々が応対してくれる。
 重厚なかやでふかれた家々に圧倒される。
 それはそれで、とてもいい。
 この地の大昔の風景を、思い描くことが
できる。
 だが、何か足りない。
 わたしが気むずかしいのだ。
 ほかの家族は、せがれの車から降りると、
いっせいに思い思いの方向に行ってしまい、
わたしだけぽつんとその場に残された。
 ぼんやりとたたずみ、さてこれからどう
しようかと考えてしまう。
 ふいにひばりの鳴き声がして、わたしは
空を見あげた。
 空が青い水をたたえた巨大な井戸のよう
に思え、そこに落ち込んでしまう。
 そんな恐れを感じた。
 自分の中の何かが、群衆の中にいるのを
避ける。それは小学生の低学年のころから
の癖だった。
 もよりのお宮さんがわたしの遊び場。
 春は蝶、夏ならセミをとる。
 セミのぬけがらも。地表近い木の幹をゆっ
くりとだがしっかりした足取りで這ってい
るのを見つけたときなど、わくわくしたも
のだ。
 ふいに通行人のひとりの体が、ボンとわ
たしの肩に当たった。
 わたしはよろけそうになるのを、両足を
ふんばってこらえた。
 あわてて、視線を地上にもどす。
 山の雑木林。
 うす茶色の葉ばかりの中に、淡い色のさ
くら花を見つけた。
 いっぷくの絵画を見るようで、得をした
気になる。
 ブオッ。
 車の排気ガスが突然、わたしの鼻のあた
りを直撃してしまい、わたしは気持ちがわ
るくなる。
 次々に観光バスが到着しはじめ、人がそ
こからわさわさ降りて来る。
 わいわいがやがや、人の話し声を聞くの
がいやだ。
 わたしは静かなところを求めて、宿場外
れに向かった。
 自然と、細い山道をたどり始める。
 「どこさ、行きなさる?」
 大きな竹かごを背負った年配の女の人が
わたしに声をかけた。
 わたしは思わず笑顔をつくり、
 「ちょっと静かなところに」
 と答えた。
 「あんまし、奥へ入らんがええ。あぶね
えこともあるで」
 「あぶないこと?」
 「んだ。クマが出よる」
 わたしは怖気づき、顔色がさっと変わっ
た。
 「時間があるんなら寄っていかっせ。茶
でもよんでくれっから」
 彼女は南会津町の住民。
 もっと土地の言葉がきつかったように思
うが、北関東の田舎なまりに訳すと、だい
たいこんな調子だった。
 茶は実にうまい。
 それもそのはず、彼女の手づくりだった。
 しばらくして、空気のうまい草の生い茂
る場所から、ふいに広い空間にでた。
 「どこへ行ってたのよ。心配したわ。あ
ちこちみんなで探しまわったのよ」
 かみさんが怒った顔でいう。
 「ちょっと山へ行ってたんだ」
 「ひとりで?」
 「ああ。人がいっぱいのところがきらい
なの知ってるだろ?」
 「でもここまで来て、それはないでしょ。
みんなで楽しんだらいいでしょうが」
 せがれたちが、うんうんと首を振る。
 「ところでさ、あんた、何もってんのよ、
手に?」
 「ああ、これ?わらび、とかね。あと名
前の知らない山菜やら。もらったんだ。地
元のおばあさんにね」
 かみさんは山のほうに向きなおると、ふ
と表情を変えた。
 木々がじゃまをして、年配の女の人の家
はまったく見えない。
 「あんなところに人がいたんだ?」
 「いたよ。熊がでるからってね。注意し
てくれたりもしたよ」
 「世の中にはめずらしい人がいるもんね。
あんたったら、冗談ひとついえない、気む
ずかしい、人間なのに」
 かみさんはちょっとの間、青ざめた顔で
もの思いにふけったが、
 「まあいいわ。あんたが無事で帰って来
てくれたんだから」
 そう言って、口もとにえくぼをつくった。 
 
 
 

  
 
 
 
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たまには、独り言を。

2020-06-22 23:34:13 | 随筆
 「独り言」どころではないですよね。
 いつの間にか、けっこういろんな形で発
信するようになりました。
 恥ずかしいので、そろそろタイトルを変
える時期なのかもしれません。
 ここでブログをやらせていただいてから
ほぼ七年くらいでしょうか。
 最初は日記やら随筆やらでしたが、何を
思ったか、偉そうに、とうとう自作の物語
まで書き始めてしまいました。
 どなたがごらんになるかもしれないのに
ずいぶん大胆なことです。
 といっても、書いたものすべてがここに
のせてあるわけではありません。
 かつてバックアップした際に、このブロ
グから省いてしまったのもあります。
 これから徐々に、再び、のせていこうか
なと思っています。
 もちろん、そのままでは恥ずかしいから、
編集しなおしてからです。
 若い頃、わたしはあまり小説を読んだこ
とがなく、それが今になって、コタエテい
ます。
 「吾輩は猫である」など名作といわれる
小説についても、教科書でちょこっとのせ
られている文章を読んだだけ。
 それで、その作品すべてを読んだ気になっ
ているだけでですから、話になりません。
 世界文学全集はまるっきり蚊帳の外です。
 そんなふうですから、本格的な文章修行
なんてものは、夢のまた夢のようなもので
した。
 学習塾を始める際に、たまたまお会いし
た方が、麻屋与志夫とおっしゃるプロの作
家さん。
 若い頃は東京に出られ、かの有名な抒情
文芸に参加されていたとのこと。
 当時は「現代」という同人誌の主宰をし
ておられました。
 時折、合評会の模様などを、わたしに教
えてくださり、お聞きするうちに驚いたり
怖くなったり。
 それはそれは厳しいものでした。
 とにかくどの作家さんも命がけで書かれ
たもの。
 それだけに、批評する方の眼も真剣その
ものなのも当たり前です。
 文学をやるってことは、本当に厳しいも
のなんだなと、わかることができたことは
素人のわたしにとって良い体験でした。
 最初の小説らしきものは、中年になって
から描くことができました。
 高校時代の思い出をもとにした短編でし
たが、刑事さんが搭乗して来たりと、テー
マがあまりに大きすぎました。
 物語を描き始めたばかりのわたしには荷
が重く、表現力が追いついていかないあり
さま、結局、小説としては、破綻したとい
えるでしょう。
 それでも、わたしの初めての作品。
 地方紙の新春文芸に投稿した際、立松和
平さんが、これは児童文学だと評してくだ
さった。
 それは大切な思い出として、今もわたし
の胸に残っています。
 ブログで、小説らしきものを書き始めて
今年でおよそ10年。 
 その出来栄えはいずれにしても、どうや
らもの書きのはしくれになったらしく、ぼ
んやり散歩などしているときに、ふと書き
かけの作品のイメージが浮かんだりする。
 そんなときはあわてて家にもどり、机の
前にすわる。
 とにかく小説を描く(創造する)という
ことは大変なこと。
 その人の潜在意識を、あけっぴろげにし
ていなけりゃならない。
 しだいに登場人物が勝手に動きまわるよ
うになる。
 すなわち油がのっている状態とはひらか
れた潜在能力の中から、現在の主題にから
みつくふうにして、自由自在にイメージが
出てくる状態。
 わたしもいつか、そのようにして小説が
書けるようになりたい。
 図書館に通っては、いろんな小説を読ん
だりと。
 そんな日々の明け暮れです。
 
 
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MAY  その57

2020-06-21 01:36:12 | 小説
 「この先はちょっとむりだよ。きみは行か
ない方がいい。森の生き物だって、怖がって
避難しているくらいだから」
 「ええっ、どうして……」
 何者かはわからない。
 メイは、男の声で、ていねいに行く手をはば
まれた気がし、小声で応えた。
 そうっと辺りを見まわす。
 しかし、誰もいる気配がない。
 横倒しになった木に降り積もった雪がとけだ
し、幹をつたって、しずくが地面にぽとぽと垂
れている。
 そのかすかな水音が聞こえるのは、ドラゴン
のような巨大な動物が、その鋭い爪で、岩山を
砕くのに似た音がやんだときだけである。
 (あのうるさい音っていったい何だろう。今
まで聞いたことがないわ。イノシシさんたちだっ
て、ピーちゃん親子だって逃げちゃたわ。わた
しだってもちろん、怖くてたまらない。逃げ出
したいのはやまやまだけど、動くと見つかる恐
れもある。こんな時はじっとしていていよう)
 メイはその場にしゃがみこんだ。
 最近は、上ばかり向いていて、地面などまっ
たく見ていない。
 地面から突き出した氷の柱が、苔や落ち葉を
持ち上げている。
 その凍てついた土を、メイは右手ですくいあ
げ、うふふと笑った。
 メイの手のひらの上で、それがとけだすのを
観察した。
 「わあ、ほんとに冷たいんだ。こんなのわた
し……、いやだわ、我慢できない。ちょっと前
森は紅葉してたのに」
 メイは気分にまかせてひとりごちる。
 ぶなの木の枝に付いたままの葉は、もはやほ
とんど枯れ果て、風が吹き抜けるとカラカラ乾
いた音をたてる。
 その一枚の葉を、メイは左手の人差し指と親
指を用いて小枝から引き離すと、右手にもちか
えた。
 にぎるとピリッと音がした。
 そのまま、その枯れ葉が粉みじんになるまで
右手をこまかく動かした。
 (白髪のじいちゃんっていうか、年老いたひ
ひを追いかけて来たのは遅い秋だったわ。まだ
ほんの少ししか時間がたっていないように思う
のに、森の様子がすっかり変わってしまった)
 年ごろの女の子だからだろう。
 多感が、彼女を、神経質にしているようだ。
 眼までが紅い。
 涙がひとすじふたすじとほほをつたい、地面
に落下していく。
 ふいに青っぽい稲光が、カメラのフラッシュ
のごとく周囲を明るくした。
 数秒もおかず。バリバリというすさまじい音
があたりに響いた。
 (近くでかみなりが落ちたんだ。きっとそう
だわ)
 メイは頭をかかえた。
 いつの間にか、髪の毛が濡れている。
 それらを両手ですくようにすると、彼女の指
に小さなごみがいっぱい付いた。
 それを見ただけで、かあっと体が熱くなる。
 自分でも、いらいらする原因がわからない。
 ザクッ、ザクッ。
 突然、背後で、誰かがぬかるんだ道を、歩い
て来る気配がした。
 「ねえ、きみってさ。メイちゃんだよね。ぼ
くのこと思い出してもらえるかな」
 メイの背後で、男が言ったが、敵方の連中の
ひとりに違いないと警戒した彼女は沈黙をつら
ぬく。
 円盤、宇宙人、ロボットなどなど。
 気にさわる言葉が次々と浮かんでくる。
 緊張のあまり、メイの唇がふるえた。
 不思議なことに、さっきから耳に入っていた
ドラゴンの咆哮が消えている。
 「おどかしてごめん、メイ。ぼくだよ、ほら
ふりむいてごらん。今さっき僕の宇宙船が着地
したんだけど、うまくいかなくてね。おどかし
てごめん」
 「へえ、そしたらさっきのかみなりは」
 男の声に少し、聞き覚えがある。
 メイはわざと乱暴なもの言いで、
 「誰だか知んないけど、なにさ。ここをどこ
だと思うの?ちょっとした戦場なのよ。悠長に
声をかけないでちょうだい。同窓会をやってる
わけじゃないんだもの」
 「きみの言うとおりだ。ぼくがまちがってた
ようだ。じゃあ、これで失礼するね。次はしっ
かりした態度で、きみの前にあらわれるから」
 靴音がだんだん小さくなっていく。
 押したり引いたり。
 付き合いはゲームに似ている。
 メイのこころの中で、このまま男との別れる
のがつらいという気持ちが高まってくる。
 とうとうメイは背後の人影を眼で追っていた。
 若い男性が、味方のものらしい戦闘服を着て
いる。
 急に彼がふり向いたので、ふたりの視線が宙
でからまってしまった。
 メイの胸がどきどきする。
 「あのうすみません。ほんとにどこかでお会
いしましたかしら」
 メイが他人行儀に訊いた。
 「ええ、ずっとずっと前にね」
 男はそう言ってにっこり笑い、前に両手を差
しだしながらメイのほうに歩きだした。
 
  
 
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苔むす墓石  その47

2020-06-18 09:13:08 | 小説
 先ほどから宇一は、ふわふわしたマットの
上を歩いているような気分でいた。
 今、彼がいるのは、まさしく夢の中。
 実際は、北関東から引っ越してきてようや
く見つけた手ごろなアパートの一室で、とろ
とろしている。
 K市に来て、ようやく見つけたセラミック
会社に向けて出発する時刻がせまっている。
 にもかかわらず、宇一は朝ねぼう。
 堪忍袋の切れた母親がもうすぐ怖い顔をし
て、彼を起こしに来るところだった。
 「こら、宇一。おめえ、きょうは初出社だ
んべ。せっかくいいところが見つかったって
よろこんどったくせによ。いってえどうした
わけだ。こめえ時分とちっとも変わらねえじゃ
ねえか。そんなこんでどうする。同期のもん
に遅れをとるぞ。この意気地なしやろうが」
 なまりの抜けきらぬ母に大声でののしられ、
むりやりかけ布団を引っぺがされる。
 彼は、こころの片隅で、そんなシーンが来
るのを切望していた。
 それは、宇一にとって、こころの補償作用
といえた。
 すなわち、左手が勝手に動いたり、妖気た
だよう平山ゆかりなどなど。
 わけのわからないことに巻き込まれた宇一
のささやかな抵抗だった。
 なんとかして、彼は自分をまっとうな人生
のレールに戻したかった。
 「これこれ、どうなさった?先ほどから天
井ばかり見つめておられるが、あそこになん
ぞありますかな」
 占い師は宇一のこころの奥底を見透かした
ように、にこにこしながら言う。
 宇一はぽっと顔を赤らめ、
 「あっ、いいえ、いいえ。すみません。ぼ
んやりしていて」
 「あんたは正直もんじゃのう」
 「そうですかね。わたしはこれで当たり前
だと思いますが」
 宇一は河畔の集落に来てからのことを、ほ
んのしばらく忘れ果てていた。
 「だいじょうぶじゃからな、と、わしが言
うてもな。あんたは心配から解放されないだ
ろう。まあそれもあんたの性分。しかたない。
ここは、あんたの時代と違いすぎるからな」
 「ええ、そのとおりです。なんて言った
らいいんでしょう。たった今、この世から消
えてなくなりたいくらいです。苦しくてしか
たないんです」
 宇一はやっとそれだけ言い、はあとため息
をついた。
 「それは困った。亡くなられてはこまるの
じゃ。じゃないと、時間にずれができてしま
う」
 「ええっ?驚いた。時間にずれ、ですって?
それはいったいどういうことでしょう」
 「詳しくは言えんがな。難儀な問題でな。
とにかく、あんたの力になると言っておるの
だ。何事も、あわてちゃいけない」
 占い師の言葉は、土間をおおっていた空気
をぴんと張りつめたものにした。
 「あっ、はい。そうですか。すみませんす
みません。それはありがたいことで。ほんと
にほんとに失礼しました」
 宇一は疲れ果てていた。
 からだは粘土のようにやわらかくなり、ぐ
にゃぐにゃと変形し、一本の棒状になる。た
ましいは、底がしれないほど深い蛸つぼにす
うっと吸い込まれてしまいそうに思えた。
 (もとの世にもどるには、なにがあっても
この占い師に頼るしかなさそうだ)
 宇一は自然と頭を垂れた。
 「そうじゃ、とにかくあんたはな。わしと
会えて良かったんじゃ。玄関のすぐそばにい
る男の子に礼をいったほうがいいぞ」
 「はあ、鹿人とかいう男の子ですね?」
 「そうじゃ。あいつ、あれで気持ちはいい
んじゃ。ちょっとひねくれてるけどな。心底
わるくない。あれの幼い頃からよく知っとる」
 「そうらしいですね」
 宇一はほっとした表情になった。
 呪術師は彼の手を組み合わせると、何やら
ぶつぶつと口ごもりはじめた。
 彼の呪文は、宇一の耳に快く響いた。
 宇一は眠気をもよおし、こっくりこっくり
する。
 どれくらい時間が経ったろう。
 いつの間にか夕陽が、土間いっぱいに入り
こんでいた。
 宇一は誰かに肩をつつかれて、めざめた。
 「ああ、ううん。あっ、きみか」
 鹿人少年だった。
 「あちらで大切なお人が、あんたの帰りを
お待ちなんだろ?」
 さっきよりずっと優しが威厳のある言い方
で、占い師が囲炉裏の上に身をのりだした。
 思わず、宇一は涙ぐんだ。
 「はい。母がわたしの帰りを待っています」
 「この体験はな。きっとあんたの人生の糧
になるというものだ。神さまの思し召しと心
得てな。必ずや帰れる。それはわしの力じゃ
ない。あんたの気持ち次第だ」
 「そうですね。返す言葉がありません」
 玄関あたりが騒がしくなった。
 二枚の引き戸の破れ目に、たくさんの瞳が
かいま見える。
 めずらしい人が来たと、近所の人たちが集
まってきたのだろう。
 よく見ると、玄関の引き戸は上等なもの。
 長い間使われているからかなり傷んではい
るが、もとは豪華なものだったに違いない。
 この時代、呪術師は上流階級の人々に重宝
がられていて、めったに庶民の間に住むこと
はなかった。
 この占い師は、庶民の貧しい暮らし向きの
ためにと、生きたのである。
 宇一は、突然、その場にいることに耐えら
れなくなってしまい、ふと立ち上がった。
 「どこに行きなさる?」
 「ちょっと用を足そうと思いまして」
 「そうか。それなら大川のほとりまで行か
れるとよかろう」
 宇一はさっき来た道を戻っていく。
 戸の破れ目からのぞいていた人々がぞろぞ
ろついてくる。
 露地をぬけると、また露地。
 ようやく屋のむねを離れたところで、宇一
はもう、決してふりかえるまいと決めた。
 ふいに、宇一は両腕をつかまれた。
 左右とも、すべすべした手。
 だが微妙にちがう。
 (たぶん、さっき、おれを世話してくれた、
ふたりの女の人だろう。礼をいいたいのはや
まやまだが……)
 宇一は大川の土手をのぼりきったところで、
安心のあまり、危うくふり向くところだった。
 「おにいちゃん、ほんとにつらいよね。ぼ
く、何だって知ってるから。今度は行こうよ。
おにいちゃんの世の中へ。きっとさ」
 鹿人の声がすぐそばで聞こえた。
 
 
 
 
 
 
 
 
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MAY  その56

2020-06-16 02:46:22 | 小説
 イノシシがえさを求めて、雪の積もった地
面を掘り起こしたのだろう。
 木や草の根っこがむきだしになっているの
で、メイは歩きにくくてしかたがない。
 「イノシシさんたちって、まったくいやだ
わ。こんなに穴ぼこだらけにするんですもの。
お気に入りのピンクのブーツも、たちまちど
ろんになっちゃったじゃない。それにね、こ
れじゃどこをどう通って行けばいいか、わか
らないでしょうが」
 突然、メイは暗い気持ちにおそわれた。
 何もかも、もうどうでもいいように思えて
しまい、前へ前へと進む気力をなくしそうに
なった。
 「あなたには大きな使命があるの、なんて
さ。もうやめてよ。お母さんだか、誰だか知
らないけどね。おかげでわたし、今まで前ば
かり向いて暮らしてきたわ」
 メイはわめくように言った。
 きっと、母の言葉が、かなりの負担になっ
ていたのだろう。
 まるで泉のようにメイの目じりから、温か
な液体がじわりじわりとわきだしてくる。
 「ええい、こんなもの。わたし頼ったりす
るもんですか」
 メイは首からつるした小袋のひもを、思い
切り引っぱった。
 ひもはちぎれてしまい、小袋がパサリと凍
てついた地面に落ちた。
 (確かにこの小石たち、何かパワーを持っ
てるんでしょうね。でもね、石は石。ほんと
うに頼れるのは、自分自身しかないんじゃな
いかしら。でも、だめなわたし。ケイのこと
だって、がんばって友だちになりたいと思っ
たけど……)
 ズボンのお尻が濡れるのもかまわず、メイ
はどさっと横倒しになったもみの木の幹に腰
かけた。
 小枝に降り積もっていた雪が、パラパラと
落ち、凍りついて板のようになった雪の上を
ころがっていく。
 森の朝夕はよほど寒いらしい。
 強い風に吹かれたのだろうか。
 メイの頭の上の空をおおっていた灰色の雲
がいずこかへ去って行くと、それまで待ちか
まえていた日の光りが、荒れはてた森に差し
込みはじめた。 
 (まあ、なんてきれいなんでしょう。氷の
粒がまるで真珠みたいに)
 メイは鳴きだしそうになった。
 ピーちゃんの子が急いで飛んで来て、メイ
のそばにとまった。
 つづいて、もう一羽。
 「まあ、ピーちゃん、ピーちゃんじゃない
の。よく飛べたわね。むりしないで。今まで
さんざん飛びまわって、わたしのために尽く
してくれたんだから」
 ピーちゃんはそれに応えるように、ピピー
っと鳴いてから、
 「何か大変なことが起こりそうなの。あの
洞窟がね」
 不意に、グワングワンと奇妙な音が辺りに
響くと、ピーちゃん親子はわっと飛びたって
しまった。
 「ちょっと待ってどこへ行くというの。あ
なたたちがいないと、わたしこれからどうす
ればいいかわからないわ」
 ブイッブイッ。
 いつの間に来たのか、イノシシの親子連れ
が姿をあらわした。
 おかあさんイノシシの華は、泥だらけ。
 「わっびっくりするじゃない。まったくあ
なたでしょ?ここを穴ぼこだらけにしちゃっ
て」
 とたんに、ウリぼうたちが三匹、メイのそ
ばに寄ってきて、ぶうぶう騒ぎ出した。
 「わかった。わかったって言ってるでしょ。
わたしもう、あなたたちのお母さんのこと責
めないから」
 ブイッ。
 母さんイノシシはメイのほうを向いて、ひ
と鳴きするとのっしのっしと歩きだした。
 子どもたちは、彼女のあとを一列になって
ついていく。
 「わかったわ。わたしはあなたについて行
けばいいのね」
 メイは、ぽんともみの木から飛びおりた。
 (ピーちゃんの子はいなくなったがイノシ
シさんたちがいる。きっとみんなのこころが、
つながってるんだ)
 メイは、しっかりと歩きだした。
 間もなく、メイのよく知っている風景が彼
女の前にあらわれた。
 「洞窟が近いわ。なんだか怖い」
 メイは身をかたくした。
 
 
 

 
 
  
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