油屋種吉の独り言

オリジナルの小説や随筆をのせます。

晩秋に、伊勢を訪ねて。  (10)

2020-02-28 22:24:43 | 旅行
 夕食の宴を終え、部屋にもどろうと先に立っ
て歩いたはいいが、道に迷った。
 ホテルが半島の突き出た岩盤の上に築かれ
たせいで、構造が複雑になっている。
 「しょうがないな、お父さん。こんなこと
もわかんないんだ。こっちだよこっち。ほら
さっき見た看板があるじゃない」
 「ああ、そうだったけな」
 四十年経てば、こんな具合に主従が入れか
わるのか、とわたしは苦笑。
 せがれが、さきだって歩きだす。
 車で目的地に向かうとき、行きと帰りで風
景が変わる。
 そんな迷い方である。
 せがれは若いだけにもの覚えがいい。
 このぶんじゃ、彼が健康をとりもどすのも
時間の問題か、と親の欲目でそう思う。
 これも伊勢の神さまのおかげさまです。
 わたしは、声には出さずに礼を言った。
 ふたりしてまっすぐ歩いては、左右どちら
かに曲がる。
 それをいくどかくり返し、やっと部屋まで
直通のエレベータ乗り場にたどりついた。
 シューッと扉が両脇にひらく。
 廊下に出たとたん、急に暗くなった。
 わたしはなぜか恐怖を感じ、辺りをきょろ
きょろ見まわした。
 通路を歩く人が誰もいない。
 部屋番号が記された扉が、等間隔でずっと
先までつづいている。
 それだけでわたしは充分に不気味さを感じ
てしまう。
 それほど怖がりなのだ。
 部屋に入り、あがり口にしばらくたたずむ。
 戸締りを完全にやるためだ。。
 カチャリ。
 最後にその音を聞いて、わたしはほっとし
た気分になった。
 とにかく、旅先での宵が苦手なのだ。
 ぐっすり眠るまで、さてどうやって時間を
つぶすか。
 せがれは観たいテレビ番組があるらしく、
リモコンをいじりだした。
 夕餉のすきに仲居さんがふとんを敷いてく
れていた。
 浴衣に着がえたわたしは、その上にごろり
と横になった。
 きょう起きたことをふり返る。
 東京駅で、あやうく、列車に乗りそこなう
ところだった。
 わざわざ遠方から来てくれた友に、見事に
出会えた。
 せがれが伊勢の神さまに、お礼を言えた。
 ごちそうをたらふく頂戴した。
 いいことづくめである。
 だが、問題はこれから。
 今から朝までどのように過ごすか。
 寝床に入ればそれでいいことじゃん。
 そんな言葉が聞こえてきそうだが、わたし
は泊まる部屋が怖い。
 今までに宿泊した人々、めいめいの運命に
思いをはせてしまう。
 なかには、運の悪い人もいたろう。
 ええい、お祓いだ、とばかりに、わたしは
いつも旅に出るとき、家から塩をひとつまみ
ラップに包み、旅行鞄の隅にしのばせる。
 「お父さん、なんだか関東とちがうね。チャ
ンネルが」
 ころころとチャンネルを変えていたせがれ
が不意に言う。
 「ああ、そうさ。四チャンネルが毎日放送
で、六チャンネルが朝日放送だったかな。エ
ヌエイチケーは、っと二チャンかな。おまえ
だって若い頃はお父さんの実家で世話になっ
たことがあるんだから、少しはわかるだろ?」
 「うんまあでもずいぶん前のことだし、何
がなんだか忘れちゃった。いいやテレビはよ
くわからないから、もう寝る」
 そう言って、せがれもふとんに横たわった。
 よほど疲れたのだろう。
 せがれは間もなく、寝息をたてだした。
 これからがひと苦労だった。
 わたしは、自分よりずっと重いせがれのか
らだをどうにかこうにか動かし、かけぶとん
を彼の体にかけた。
 持参した塩のくるまっているラップを、わ
たしの枕もとに置いてから、わたしは立ち上
がり、天井のライトの照度をよわめた。
 決して真っ暗にはしない。
 部屋を見とおせる淡い明るさ。 
  「伊勢の神さまたちよ。どうぞ、わたしたち
親子を雑多な霊から守りたまえ」
 わたしはそうこころの中で祈った。
 ゴーゴーゴー、ウガガガッ。
 間もなく、せがれの高いびきが始まった。
 こりゃすごい。早く眠りに落ちないと朝まで
眠れなくなる、とわたしは両手で耳をおおった。
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苔むす墓石  その30

2020-02-27 21:34:50 | 小説
 竹林の中の空気はひんやりしていた。
 笹の葉が、長い時間をかけ、折り重なって
腐ったのだろう。
 かすかにむっとした匂いが宇一の鼻をつく。
 枯葉でおおわれた地面は、まるでマットレ
スのよう、足を踏みしめるたびに、宇一はバ
ランスをくずしそうになる。
 これでは、ふたりは駆け落ち同然。
 観光客用にしつらえられた道を歩くことは
できない。
 うかうかしていると眼を傷つけそうな草木
でいっぱいのけもの道を歩かなくてはならな
かった。 
 「気をつけて。手をこんなふうに伸ばして、
小枝をかきわけて進むの。ゆっくりゆっくり
でいいわ。あわててやると、すりむいたりつ
いたりするから」
 宇一の前を行くゆかりが後ろを向き、静か
に話しかける。
 そのたびに彼女の口から白い息がもれた。
 「ああ、はい。わかった」
 宇一がその気になれば、すぐにゆかりの肩
に手がとどきそうである。
 だが宇一はそんな気はまったく起こらない。
 ゆかりが言うようにく、仮にゆかりの家の
裏庭にある別邸で、自分がゆかりのからだを
好きなように取り扱ってしまったとしたなら、
その余韻が少しは自分の脳裏に残っていても
いいはずだった。
 「あのね。ゆかりさん。あなたの家の離れ
でね・・・」
 ゆかりは、宇一のもの言いが聞こえたはず
なのに、すぐには返事をしない。
 「ゆかりさんって、一体、どんな人なんだ
ろね。おれ、皆目わからなくなってしまいま
した」
 ゆかりは不意に立ち止まり、ふり返ったが、
何も言わない。
 ただ宇一の眼をじっと見つめるだけである。
 ゆかりの眼が潤みはじめるのに気づき、宇
一がわきを向いた。
 「ほんとにわからないんですよ。初めてあ
なたとお会いしたのは会社のはずでしょ。な
のにK寺への坂道で、わたしとわたしの母が
いっしょにいるのを見たとおっしゃる」
 宇一は過ぎさったことを思いだし、話しは
じめた。
 「そうでしたわね。たしかその時、宇一さ
んあなたは何かにけつまずき、坂道で転んだ」
 ゆかりがはっきりと言った。
 「そうだったかもしれません。でも、それ
が事実だったとしても、どうしてそのことが
大それたことだったんでしょう?」
 「ええ、そうですわ。わたしにとってはね。
それがわたしとのえにしの始まり。その証に
同じ会社で働く機会をえました」
 「はあ?まあ。どうしてそうなるんでしょ
うか。なんとも理解に苦しむ筋書きです」
 いつの間にか、ふたりはその場に向かい合
わせにすわりこんでいた。
 「筋書き、ですって?」
 「そうです」
 「ふうん、おっしゃっておられること。よ
くわかりませんわ。わたくしはただ自然の流
れを大切にしているだけなんですが」
 「自然?あなたがおっしゃる自然って、ど
んなものでしょう。少なくとも、わたしが信
奉しているものとは、すいぶんかけ離れてい
ます。十二ひとえって言うんでしょうか。古
典的な衣服をつけて、わたしを追いかけてき
ましたよね。。それにわたしを追い詰めたあ
げく、あなたはまるで魔法使いのような所業
もなさった」
 「それがいけないんでしょうか。科学だけ
で割り切れることばかりとはこの世の中、限
りませんわ」
 ゆかりは膝に押しつけた顔をあげ、真剣な
眼差しで宇一の顔を見た。
 宇一は彼女の気迫に負けなかった。 
 「もう一度訊ねます。あなたっていったい
何者なんですか」
 ゆかりはふうとため息を吐いた。
 「わたしだって、どうして自分がこんな風
なのか・・・・・・」
 と言い、すくっと立ち上がった。
 ずぼんに付着した枯葉を、両手で払い落と
しながら、
 「前にも申しましたが、とにかく墓地に参
りましょう。詳しいことは、その後、おのず
と明らかになるはずです」
 宇一の疑問は、何一つ、解き明かされない。
 平山ゆかりって、いったい何者なんだ。
 そんな思いが。宇一のこころの中で強くな
るばかりである。
 (もっとも自分の左手にしたところで、こい
つはご主人様の思うようには動かないし。ゆ
かりばかり責めるわけにはいかないけれども)
 宇一はますます解らなくなる。
 現実には、このまま、ゆかりのおとぎ話に
付き合うことができないのは明らかだった。
 「しっ、しずかにして。地面に伏せて」
 ゆかりが命令した。
 誰かがふたりに気づいたようだ。
 竹林の小道で、ひとりの初老の男性がたた
ずみ、ふたりがいる方をじっと見ていた。
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MAY  その39

2020-02-25 10:21:03 | 小説
 「メイさん、ちょっと耳を澄まして。なん
だか森の中がおかしいから」
 リスの声が、ふいに低くなった。
 「えっ、何なの。どうしたの」
 メイのこころの中で、不安が渦巻く。
 初めのささいなざわつきが、次第に大きく
なってくる。
 (ひょっとすると、わたしたちの声が敵に
知られたんじゃ)
 最悪のことを考えたメイは、不安な眼を彼
女に向ける動物たちにむかって、
 「みんな洞窟へ入って。なるだけ奥へ入っ
た方がいいわ」
 と言い、身振り手振りをまじえ、彼らを誘
導しはじめた。
 メイは心細くなった。
 今の今まで、頼りになる老人がいた。
 だが、早々とどこかへ立ち去ってしまった
らしく、彼の姿はない。
 不安が、彼女のやわらかな心を押しつぶし
そうだったが、ここでわたしがしっかりしな
きゃ、と彼女は歯を食いしばった。
 グルルルッツ。
 ヒグマは洞窟の入り口でうずくまり、何か
あればすぐにも立ち上がり、攻撃にうつる態
勢をととのえていた。
 「お願いね。みんなを守って」
 メイが彼のからだに触れ、やさしく頼むと、
 「わかった。全力で守って見せる」
 と言い、低くうなった。
 バンッ。
 誰かが猟銃を撃ったのだろう。
 散らばった鉛の弾が、洞窟の入り口のそこ
かしこに当たり、粉塵が舞った。
 右足が傷ついたのか、ヒグマがぺろぺろな
めはじめた。
 「たいへんケガしたのね。こっちよ、こっ
ち。中へ入って」
 「なあに、これくらい。大丈夫さ」
 「だめっ、出たりしたら、もっとひどいめ
にあうわ」
 ヒグマはのそりのそりと洞窟の中にあゆみ
入った。
 メイはほとんど泣いていた。
 もはやなすすべがないのがわかっている。
 だが、自分がめげていては、と、どこまで
もがんばる気でいた。
 「メイや。メイはそこにいるのか」
 ふいに、モンクおじさんの声がした。
 だが、メイはすぐには洞窟から出る気には
なれない。
 黒い円盤の連中が、モンクの声をまねてい
るかもしれなかった。
 ヒグマのうなりが次第に大きくなる。
 「しずかにして。お願い」
 バンッ、バンッ。
 二発、三発とつづけて弾が放たれた。
 そのたびに、銃声が洞窟の内部で木霊する。
 動物たちは恐ろしさのあまり、がたがた震
えた。
 「撃つのはやめてくれ。たとえ、猛獣がこ
の中にいたとしても、だ。メイがいないとは
かぎらん。あれは変わった子でな。動物たち
とも話がつうじるんだ。わしの娘がいるかも
しれないんだ。怖くて撃つんなら、お願いだ、
もうやめてくれ。代わりにおれを撃て。あん
たたちに救援を頼んだのは、おれだ。おれが
責任をとる」
 モンクは必死になって、救援隊のひとりひ
とりに語りかけた。 
 メイは信じられないといった面持ちで、岩
かげからそっと洞窟の外を見た。
 銃を手にした、たくさんの黒装束の男の人
々があつまっている。
 口々に何かささやきながら、暗い洞窟の中
をのぞきこんでいた。
 
 

 

 
 
 
 
 
  
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晩秋に、伊勢を訪ねて。  (9)

2020-02-23 17:21:23 | 旅行
 「ひょっとして、これ、どなたかのお忘れ
物じゃありませんか」
 リーダー格とおぼしき仲居さんがテーブル
の間を歩きながら声をあげる。
 小ぶりの黄いろのタオルに、何かがくるま
れているようだ。
 わたしはハッとして、顔をあげた。
 ようやく、財布やら腕時計やらが見あたら
ないのに気づいたわたしは、思わず、右手を
あげた。
 「すみません。わたしです」
 と、消え入りそうな声で言った。
 「良かったですね。うちの若い子が気づい
たんですよ」
 「ほんとにありがとうございます」
 わたしのものだけじゃなく、せがれのもの
まで、預かっていた。
 本来は部屋にある金庫にしまうべきもの。
 器械にうといわたしは宴会場まで持参して
しまっていた。
 何かの拍子に、それをどこかに置き忘れた
のだった。
 もしもなくなっていたら、と思ったとたん、
背中をつめたいものが走った。
 「お父さん、しっかりしてよね」
 テーブルに置かれた財布を、せがれはひっ
たくるようにして、彼のずぼんのポケットに
しまいこんだ。
 いっせいに注がれる他人の視線。
 それらをいつまでも受けているのが辛い。
 わたしはしみやしわの多くなった顔を、窓
に向けた。
 ほぼ真っ暗、海の色が定かではない。
 ただぬめぬめとし、時折、月の光を受けて
きらめくばかりだ。
 とてつもなく巨大な何かがうごめいている
ようにしか感じられた。
 黒い島影が点々としている。
 ふいに、東日本大震災の記憶がよみがえっ
てしまい、わたしはあわてて視線を部屋にも
どした。
 若いころなら、こんなとき、いやなことば
かり思い出し、ずっと不愉快な気分が続くの
だが、年老いた今となっては、自分のこころ
の安定を図るすべを心得ている。
 過ぎ去りし幸せだった時分を思いだし、そ
の余韻にひたった。
 四十年前の夏、せがれは三歳。
 わたしは学習塾を始めて三年経ち、ようや
く家族を養える収入を得ることができていた。
 幸運にも麻屋先生と出会ったからである。
 見ず知らずのわたしを、「アサヤ塾」の講
師として迎えてくださった。
 麻の商いで、遠く近江や関西まで出かけら
れたことがおありのようである。
 先生なくして、今のわたしはない。
 思い出はつづく。
 のちに歌手の鳥羽一郎や山川豊を生んだ相
差(おうさつ)の浜辺を、ふるさとの家族と
共に散策した。
 「ほら、見てごらん」
 五十四歳の父が、履いている靴が濡れるの
もかまわず、波打ち際にしゃがみこんだ。
 大人の頭くらいの石を、白いカッターシャ
ツの袖をまくり、わきに寄せる。
 小さなタコがするりとあらわれるのを、せ
がれは目をまるくして見つめた。
 海女さんたちの働きも忘れられない。
 ひゅうっという音。
 それを幾たびか耳にした。
 彼女たちが海面に浮きあがるたびに、発せ
られるのだ。
 それは生きている証。
 海底まで泳がなけりゃ獲物は捕らえられな
い危険のともなう仕事である。
 ひとつ間違えば、命を失くす。
 夫は小舟をあやつり、命綱をにぎる。
 綱を頼りと、妻は深い海にもぐる。
 懸命に、海女たちは神さまに祈る。
 伊勢にまつられている神さまは、きっと海
女さんたちの願いを聞き届けてくださるに違
いない。 
 「お父さん、早く食べなきゃ。おいしいも
のが全部、なくなっちゃうよ」
 せがれの声に、わたしはわれに返る。
 ああそうだな、ともの思いにふけっていた
わたしは、よいしょと立ち上がった。
 
 
 
 
 
 
 

 
 
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苔むす墓石  その29

2020-02-21 14:22:45 | 小説
 日が昇ってきたのか、障子の向こうがほの
明るくなった。
 「さあってと、どうしましょうね。わたし
を好きかってにあつかっておいて、知らぬ存
ぜぬはとおりませぬな」
 ゆかりは、動揺をかくせないでいる宇一の
顔をじろりと見つめ、芝居がかった声て言う。
 「あはっ、なんだか怖いな。ほんとほんと
なんですよ。ゆかりさんとの間でなにかあっ
たかなんて。ぼ、ぼくが知るわけない。だっ
てだってね」
 「だって、何でしょう」
 「ゆ、ゆめですよ。夢の中にいたんですよ。
眠っていたんですよ」
 「はあ?都合がわるくなると、なんだって
夢のせいになさるんですか。へえ、おどろい
たわ」
 チチッ、チチ。
 庭先にすずめが舞いおりたのだろう。
 八方ふさがりで、ささくれだった宇一の神
経を、少しばかり彼らがいやした。
 ゆかりといっしょに、一晩ずっとこの部屋
にとどまっていたというのなら、なにかひと
つでも、そんな記憶の断片があってもよさそ
うなものを、と宇一は思う。
 「あっそうだ。ゆかりさんいましたよ。出
てきましたよ。何枚もの着物を、ぼくの頭に
バッサリかけましたよ」
 「存じません。わたしが、あなたの頭に衣
をかぶせたんですって?ふん、苦しまぎれに
なんて大ウソをつくんでしょう。それだって
夢でしょ。ほら、ここにあなたがひっかいた
傷が残ってるんです」
 首筋にかかった髪の毛を細い両手で持ちあ
げると、ゆかりのうなじがあらわになった。
 赤いひっかき傷がひとつ、白い肌に浮きあ
がっている。
 (悪運というか、わなというか、どうやら
おれにつきまとっているのは、人ひとりくら
いどうとでもできるたぐいの者らしい。もの
のけか何かわからんが、とにかく逃げるが勝
ちだ)
 宇一のそんな気持ちを察したのか、ゆかり
は桃色のカーディガンから差し出した右手で
彼の行く手をはばもうとしたが、宇一はその
手を右手であっさり払いのけた。
 「わかりました。あなたがそんな気ならわ
たしにだって覚悟があります」
 ゆかりは、部屋のすみにある、プーさんの
絵が貼りついた箪笥の抽斗をあけた。
 彼女の衣服や肌着、そして十二ひとえを花
柄の旅行鞄につめこみ始める。
 「何するんですか?もう家出なんて。つま
らないおれのために、そこまですることない
じゃないですか」
 「いいえ、もうこれしかわたしの生きる道
はないんです。どこまでもあなたといっしょ
です」
 ゆかりは、よよよっと泣きくずれた。
 「そ、そんなあ。おれ、ぜんぜん、覚えが
ないんですからね。ひょっとして、ゆかりさ
ん。何か大きな勘違いされてるんじゃないで
しょうか」
 対話は、そこまで。
 宇一は、ふとんのわきにたたまれていた背
広をあわてて身に着けると、わきの障子をあ
け、廊下にでた。
 うす暗い。
 差しこんでいる陽射しは、雨戸の節穴を通っ
てきたものらしい。
 宇一はかんぬきを外すと、雨戸一枚ぶん左
によせた。
 自分のからだをとおすにじゅうぶんな幅さ
えあれば良かった。
 縁側にごつごつした直方体の石がある。
 その上に、男ものの下駄が一足、そろえて
あった。
 宇一は、靴下をはかない足を、その鼻緒に
突っ込んだ。
 カンカンと飛び石をわたった。
 残る邪魔ものは、生け垣のみ。
 一息で最寄りの塀まで達した。
 だが、あまりに高すぎる。
 みやげ物を売る店は、現代っ子を意識して
建てられていたが、離れは違った。
 時計屋の主人の言葉どおり、建築様式が凝
りに凝っている。
 ゆかりの父の趣味に違いない。
 まるで寝殿造りだった。
 「ささ、こちらへ。こうなったらわたしも
あなたの味方。ほかの家族のことなどかまっ
ていられません。父母を捨てます。どこへな
りとも参りましょうぞ」
 いつの間にか、ゆかりがラフなかっこうで
立っている。
 「ええっ、いいんですか。そんなことって。
知りませんよ。会社だってあるし、あなたを
今まで育ててくれた親御さんの身にもなって
ください」
 「あなたとわたくしとのえにし。しかとわ
かってもらわないと。まずは、墓地に参りま
しょう」 
 「そ、そんなあ。おれだって、おれだって
大事なおふくろがいるんです」
 思いもかけない話の成り行きに、宇一は唖
然として、ろくに物事を考えられないでいる。
 何もかも波乱に富み、先が読めない。
 だが、めずらしく、左手が勝手な振る舞い
をしないでいる。
 おそらく、ゆかりと共にいるからだろう。
 宇一は、重荷がひとつ取り除かれたように
思い、ため息をついた。
  

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