イスラエル旅行記

旅行記が完成したので、あとは普通に。、

56.死海写本のクムラン

2006年09月18日 | Weblog
「クムランは、ヨシュア記に『塩の町』として登場しています。紀元前130~30年頃、約2千人のエッセネ派の人々が共同体を作って、ここで時給自足の生活をしていました。エルサレムを離れて、この荒野に移った理由としてはですね、次の聖句が挙げられています。
呼ばわる者の声がする、
『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。
もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平になり、険しい所は平地となる。
こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。
これは主の口が語られたのである』(イザヤ40:3~5)

 1947年の夏にですね、この付近でベドウインの少年が、いなくなった羊を探しているうちに巻物を発見しました。これが『死海写本』と言われるもので、紀元前3~2世紀に筆写された『イザヤ書』や『詩篇』、『光の子と闇の子との戦い』、『創世記外典』などがあります。
 当時の旧約聖書の写本は、一番古いもので紀元10世紀の写本でしたが、クムラン(写真)で発見された死海写本は、今から2千年以上も前のもので、世界で一番古い写本だと言われています。
 クムランからマサダまで山の洞窟が300もあり、その中に約600の書物が残されていました。当時はですね、ローマの属州になっていまして、異教の民に大切なユダヤ教の正典を奪われるのを防ぐため、隠したのではないかと思われています」

「ふ~ん。それにしても、2千年という長い年月によく耐えてきたもんだな」
「そうなんです。そういう長い年月に耐えてきたのは、4つの理由によると言われています。まずですね、耐久性のある羊皮紙であったこと、乾いた気候であったこと、素焼きの壷に入れられたこと、特殊なインキを用いていたこと、この4つの条件によって、2千年という長い間守られてきた訳です」
「なるほどな」
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55. 誘惑の山

2006年09月16日 | Weblog
 さて、説明を受けているすぐ下に、エリシャの泉があります。ありますといっても中に入った訳ではなく、一軒のそまつな建物を上から見ただけですが・・・。昔、ここの水が悪く、流産する人が多かったので、エリシャが塩を投げ入れて、良い水に変えたと聖書に書かれていますが、この清めの塩に日本人のルーツを感じるのは私の考え過ぎでしょうか。
「今、誰か所有しているのですか」
「アラブ人のおじさんが座っていてね、入る度に入場料を取るんですよ」
 鈴木さんと倉田さんの会話です。

 昨年の12月に、ここで聞いた面白いお話を紹介しましょう。
「某テレビの取材で来た、歌手の○田○ニさんがね、断食してあの誘惑の山(写真)に登ったんですよ。彼はね、頂上に着いたとたんに、きしめんが食べた~いって叫んだそうです」
 そういうガイドさんの説明に、思わず笑ったのを思い出しながら、もう一度眺めますと、あのそそり立った岩山が、妙に優しく、懐かしく感じられるのでした。最初に来た時は、木も草もない山にただ驚き、二度目は少しリラックスして、そして今回は、イエス様の思いを感じるまでになったことを感謝しました。

 この後、昼食です。茄子のペースト、赤カブの酢漬、ひよこ豆、ヨーグルトに混ぜた細かく刻んだきゅうり、とにかく野菜が豊富です。それをピタという袋状のパンに挟んでいただくのです。フライドポテト付きのステーキや、デザートのオレンジも格別な味でした。また泉さんの計らいで、コーヒーが出ないようにしてくださったのも主の愛でした。

 食事が終って、同じ建物の中の売店に群がります。何といってもメインは、死海の泥んこで作った石鹸でしょう。普通肌用のソルト、脂性用のマッド、荒れ肌用のグリセリン。それぞれ5ドルですが、3種類ワンセットの場合は、15ドルのところを12ドルと割安になります。私は高くてもソルトだけを買い込みました。

 お土産が増えて、荷物がだんだん重くなりますが、その分満足感もあって幸せそうな顔、顔、顔・・・。その顔で、今度は死海写本が発見されたクムランに向かいます。
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54.エリコ 

2006年09月16日 | Weblog
「エリコ(写真)はユダの荒野にある「しゅろの町」とも言われるオアシス。亜熱帯的な気候と泉のおかげで、太古の昔から人類が定住したと言われています。ヨシュアに率いられたイスラエルの民が、ヨルダン川を渡って最初に攻め落としたのがエリコでした。6日間エリコの周りを回り続け、7日目に7度回ってラッパを吹くと、城壁が崩れたと書かれています」(ヨシュア6章)

・また火の車に乗って昇天したエリヤ(列下2:9~)
・エリシャが塩で水を清めたと言われる「エリシャの泉」(列下2:19~)
・取税人ザアカイの家の客になったイエス(ルカ19:1~)
・盲人バルテマイを癒したイエス(マタイ20:29~)
これらはみなエリコでの出来事でした。

 私たちは、古代のエリコであるテル・エ・スルタンという所に行って、紀元前3千~2千年のものと言われる城壁と、紀元前7千800年頃のものと言われる見張り塔を見学しました。
 西の方には、イエス・キリストがサタンの試みにあわれたという、誘惑の山がそびえています。高さ360mのこの岩山で、40日40夜、断食をされたイエス。いくら神の子といえ、こんな岩山で・・・。
 こういう古代のものを実際見たり、イエスにゆかりのあるものに心が触れると、イエス・キリストはそんな遠い昔の人じゃないって気がして、彼の苦悩が以前よりもっと理解できたように思いました。
「サタンよ退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と言われたイエス。(マタイ4:10)

 暑さをこらえてジイ~ッと見つめていますと、イエスの声が聞こえてくるような錯覚を覚えます。
「あなたがたは、主のためにといって働いてはいるが、本当はよく理解していない。もっとわたしに近づいてごらん。もっとわたしを知ってごらん。そうすれば、わたしがあなたがたに、何をして欲しいのか、どうして欲しいのか、分かるに違いない」
360mの茶色の岩山から、イエスの思いが伝わってくるようで、信仰の不足な私は、ここを訪れる度に胸が痛くなるのです。そして自分の抱えている問題の、あまりの小ささに恥ずかしくなって、いつの間にか問題が消えてしまうのですから、やはり特別な国に違いありません。

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53.変貌の山 B

2006年09月15日 | Weblog
【タボール山頂の変貌教会】

 屋上に上がって、エズレル平原を見下ろしながら、倉田さんの説明を聞きます。陽射しも強くなりました。しかし、かつて3人の弟子たちが、ここで、輝きに包まれたイエス・キリストに会ったのだという、厳守な気持ちと悦びが身体中を覆っています。

「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」
 そういうペテロの声が聞こえてくるようでした。そしてそのペテロが、まだ話し終えないうちに、たちまち輝く雲が彼らを覆い、雲の中から次のような声がしたと書かれてあります。
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなうものである。これに聞け」と。
 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せたとありますが、その時の情景が浮かんできて、やはり、ここタボール山が変貌の山だと感じたのでした。同じ旅をするなら、みなそのように思われるのではないでしょうか。

 さて、ここに教会は二つ建っていました。フランシスコ修道会の、「変貌教会」と、ギリシャ正教の会堂です。私たちは変貌教会の方に、厳粛ながら華やいだ気分で入りました。窓から陽が射しこんで、驚くほど明るいのです。天井はかまぼこ型、壁画は聖句を表現していました。祭壇は低い所にあるので、階段を下りなければなりません。
 祭壇の前で、まず柳田さんの奥さんが歌い、他の人たちも帽子を取って合わせます。ステンドグラスを彩る陽射し、両脇の壁画、その中で捧げた心からの賛美歌に、主が答えてくださったような、温かいものをシャワーのように感じました。

「変貌の山は、やはりここですね」
「そうだな。どう考えてもヘルモン山じゃないな」
「うん、絶対タボール山だよ。来てよかった」

 そういう会話を耳にしながら、またタクシーでふもとまで下り、バスの人となりました。何度も投げキッスをしながら、次はエリコに向います。やがて左手にはモレの丘が見え、あめんどうの畑が飛ぶように過ぎて行きます。右手には、たわわに実をつけた、ナツメヤシの畑が流れるように過ぎて行き、いつの間にか緑豊かな町に入りました。エリコです。
                     【写真:変貌教会】
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52. 変貌の山 A

2006年09月15日 | Weblog
 【写真:タボール山(リアホナより)】

 南ガリラヤにある、お碗を伏せたような珍しい形のタボール山(写真)。山頂はドームのような形になっていて、長い間ヘルモン山と共に、変貌の山として知られてきた地です。ピリポ・かイザリヤで、弟子たちに最後の教育をした後、6日経って、イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて、高い山に登りました。(マタイ17:1~3参照)

 私にとっては初めての訪問です。以前から、どうしてもこの山頂に立って、エズレル平原を眺めたいと願っていましたので、もうワクワクしています。海抜560m、あるいは580mともいわれるこの山に、かつて大管長が訪れました。その時のお話を「聖徒の道」から引用しましょう。1979年、この場所を訪れた大管長が、数時間後、羊飼いの野で開かれた聖餐会で次のように語ったそうです。

「私は、この山がその場所であったということを、強く確信しました。イエスは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて、この高い山に登られ、そこで祝福を授けられたのです。タボール山に登った時、私は心に温かいものを感じ、3人の弟子と同様の体験をしたような思いにかられました」(1991/10月号)

 またここは、預言者デボラの助けで、イスラエルの将バラクが、カナン人シセラを打ち破った所であり(士師4章)、ギデオンが300人の勇士を集めた所でもあります。
 私たちは、ふもとまでバスで行き、そこで全員タクシーに乗り換えて、蛇の道を七曲がりしながら・・・時には振り落とされそうな危険を感じながら、スリル満点で山頂に着きました。車一台しか通れないような、本当に狭い道です。
 曲がるたびにキャーキャーと恐がる私たちに、運転手はニタニタしています。彼にしてみれば、最高のサービスをしたつもりなんでしょう。車を降りたとたんに、私たちとスクラム組んで、
「ハ~レルヤ、ハ~レルヤ!」
と、雷のような大きな声で歌い出したのです。私たちもすっかり乗せられちゃって、ハ~レルヤ、ハ~レルヤと歌ったのなんの・・・。タボール山の頂上で心を注ぎ出すひとときでした。
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51. ヨルダン川 B

2006年09月14日 | Weblog
*ただ単純に信じることの大切さ

 ふと、一つの疑問が生じました。川幅がずいぶん狭いけど、当時もこんなものだったのだろうか。ナイル川やガンジス川のイメージで来た人は、え? と驚くに違いありません。この程度の川なら、何も紅海のように水をせき止められなくても、渡れそうなものをと・・・。
 帰国してからも、なかなか納得できず、ヨシュア3~4章を繰り返し読んでは、思いを巡らしていました。ハッと閃いたのは通勤電車の中です。川幅だけにこだわっていた自分に気がついたのです。
『狭くても、相当な深さだったら・・・、もしそうだったら、神の箱が水に浸かってしまう。それに、女、子供もいることだし・・・』
 それで、もう納得したのでした。

 またヨルダン川といえば、ライ病のナアマンのことも思い出します。助けを求めて予言者エリシャの所に来たけれども、ヨルダン川で7回身を洗えば、もとの身体になると、あまりにも簡単なことを言われたので、怒って帰ってしまったのです。彼は癒しの儀式を期待していたのでした。しかし、彼のしもべたちが説得します。

「わが父よ、預言者があなたに、何か大きなことをせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』というだけではありませんか」(列下五:1~14参照)

 そこで、ナアマンが預言者エリシャの言うとおりにしたところ、確かに癒されたのでした。ただ単純に信じることの大切さ、理屈をこねず、指導者に素直に従うことの大切さを、実際ヨルダン川の岸辺に立って深く感じることが出来たのは、3度目にして得た祝福でした。もし売店が開いていたら、買い物に夢中になって、こんなことまで思う余裕がなかったかも知れません。
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50. ヨルダン川 A

2006年09月13日 | Weblog
 1992年10月15日(木)、二晩お世話になった最初のホテル、ラマット・キネレットともお別れです。運転手のダビデさんと倉田さんが、荷物を確認してバスのお腹に詰め、泉さんは私たちを数えながら、健康の度合いもチェックしておられるようです。気がつくとバスの中は、いつの間にか指定席のようになっていました。泉さんがアナウンスします。
「みなさん、時々席を交換してくださいね」

 バスはガリラヤ湖に沿って南下し、今でもバプテスマが行われているという、ヨルダン川(写真)へと私たちを運びました。ここはガリラヤ湖とヨルダン川の分岐点、ヤルデニートと呼ばれる、言わば川の出口であり、イエス・キリストがバプテスマを受けた所ではありませんが、見る価値は十分あります。
 この流れが死海まで続いていて、イエス様がバプテスマを受けられたのは、その手前のベタバラという所でした。それを想像しながら、しばし瞑想に耽りたいところですが、カメラマンの私はそんな訳には参りません。

 朝早いせいか、売店が閉まっていて、ヒッソリしています。昨年の8月には、みなさんが売店に群がっている間に、高橋誠一さんと私だけ、ヨルダン川に入ったのを思い出しました。ゆっくりする間もなく、濡れた足にそのままソックスを履いて、エンジンのかかったバスまで走りましたね。
 さすが今回は余裕があるのでしょうか。エジプトを出たイスラエルの民が、ヨシュアに率いられてこの川を渡った時の、物々しい様子が浮かんできました。もちろん、実際はもっと下流の、エリコに近い場所だったのですが・・・。

「こうして民はヨルダン川を渡ろうとして天幕をいで立ち、祭司たちは契約の箱をかき、民に先立って行ったが、箱をかく者がヨルダンに来て、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、・・・・・上から流れくだる水はとどまって、はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方へ流れくだる水は全くせきとめられたので、民はエリコに向かって渡った」(ヨシュア3:14~16)

 まさに、モーセが民を率いて紅海を渡ったのと同じことが、ヨルダン川でも起ったのです。それを常識として知っている人は、あまり多くはないようですが・・・・
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49.ピリポ・カイザリア B

2006年09月12日 | Weblog
【写真:バニアスで戯れる】聖書の世界(ミルトス社)より

「ああ、天のお父さま、私にも何かお言葉をください。イエス様は確かに救い主です。私はイエス様によって救われました。今、あなた様ご自身の教会で修行しております。イエス様をお慕いして遠い国から参りました。あなた様が生きておられることも知っております。どうぞ、この小さなはした女を哀れんで、何かお言葉をください」

 祈りの言葉が身体中を駆け巡って熱くなりました。誰もいなければ、あの木陰でひざまずくものを・・・。そんな思いを抱きながら、ヨルダン川源流の滝を眺め、水の流れを追っていますと、倉田さんがバスの中で読んでくださった、あの聖句が胸にこだましました。
「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)
 これが、この時、私に与えられた主のお言葉だったのです。

 さて、ここで20分の自由時間が与えられ、それぞれが思いのまま行動しています。太陽もだいぶ傾いて、そういえば「カナの婚礼の教会」に着いたのも、ちょうど昨日の今頃だったと思い出しました。ルームメイトの児玉さんと、夕日に向かって下流の方を散策しますと、木陰で休まれている人たちもいて、全体の雰囲気がゆったりと落着いています。群集から離れて、弟子たちに大切なお話をするには、確かにふさわしい場所だと、心から思いました。
・人々は人の子をだれと言っているか。
・ある人はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちはエリヤだと言い、またエレミヤあるいは予言者のひとりだと言っている者もあります。
・それでは、あなたがたは、わたしをだれと言うか。
そこでペテロが答えました。
・あなたこそ生ける神の子、キリストです。(マタイ16:13~16参照)
 ところが、イエスは、自分がキリストであることを、誰にも言ってはいけないと、弟子たちを戒めます。その時の真剣な、張りつめた空気を緩和したものは、あの滝の音、この水の流れ、そしてこの木陰ではなかったろうか。
 この後、イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山(変貌の山)に登るわけですが、それがはたしてヘルモン山か、タボール山か・・・明日が楽しみです。

 さて、集合時間になりました。添乗員の泉さんが羊を数えるように、1.2.3.と私たちを数えています。一瞬、昨日の羊の群れを思い出しました。添乗員の鏡と言われている犬のことも・・・。そして無事に今日の日程を終えたことに感謝し、ここで与えられた特別な主の言葉を肝に命じました。
「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と。
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48.ピリポ・カイザリア A

2006年09月12日 | Weblog
【写真:ヨルダン川の源流バニアス】

「・・・・イエス・キリストが伝道生涯の後半、迫害を逃れ、群集の歓呼を避けて、弟子たちと共に遠く旅して来たのが、これから行くピリポ・カイザリア、またはバニアスと呼ばれている所です。自分の運命を知っておられるイエス・キリストが、ここで弟子たちに最後の教育をしたと言われています。イエスに問われたペテロが、
『あなたこそ生ける神の子、キリストです』
と信仰を告白した所でもあります。またイエス・キリストが重大なことを告げたのもここでした。エルサレムに行って、殺されて、3日目に甦るという驚くべきことを聞いたペテロは、
『主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません』
と言いました。するとイエスは、
『サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』
と言って戒め、さらに教えを説いた所ですね」(マタイ16:13~28参照)

 説明を聞いていると、今その場所に向かっているせいか、イエス様の遺言のように響いてきて、目頭が熱くなりました。やがてバスが左手にカーブすると、ど迫力のヘルモン山もだんだん後ろの方へ遠ざかって、首の骨が折れるかと思うほど振り返って見続けました。突然なぜか、説明できるような理由もないのに、
「これは変貌の山じゃない! 違う!」
そういう思いがしてどうしようもありませんでした。

 結局、エン・ゲブからどれくらい走ったでしょうか。2時間半か3時間か・・・まもなく目的地のピリポ・カイザリアに着きました。なんという麗しさ!
「ここが、ここがピリポ・カイザリア、バニアスなのね。そしてこれが、ヨルダン川の水源!」
 興奮している自分の声。イエスが弟子たちの教育に選ばれた最後の場所、ペテロが信仰を告白した場所、そして、エルサレムで殺されて3日目に甦ると、イエスが告げた場所、ここが・・・・思わずひざまずきました。
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47.ヘルモン山

2006年09月12日 | Weblog
 さて、今日の午後の見学は一ヶ所だけ、ヘルモン山のふもとにあるピリポ・カイザリア、アラビア語でバニアスという所です。道中も長いことだし、しっかり身だしなみを整えて外に出ますと、小室さん夫妻がTシャツを手にしています。
「ねえ、これどう? また買ったよ」
「いくら?」
「16ドルだって。ま、日本円にして2千円ってとこかな? 自分で着なければお土産になるし、壊れるものでもないからね」
 さすがです。同じ旅をしても、娘に孫にと家族愛でいっぱいの夫婦たち。私はと言えば、死海の水とヨルダン川の水をいかにして持ち帰るか、シナイ山の小石をどのようにして・・・と、そんなことばかり考えていました。

 いよいよバスが動きました。昼食のエン・ゲブからフルスピードで北上します。途中、ゴラン高原の返還に反対するデモ行進に出会ったり、高原の展望台から、シリア領のクネイトラを遠くに見たりして・・・。標高150m~900mの高原をぶんぶん走るせいか、キイ~ン、キイ~ンと何度も耳鳴りがします。
 山越え谷越え、また山越えて、「銀河鉄道の夜」のあの列車に乗っているような気分です。このまま行けばぶつかるゥ~と思うほど、ヘルモン山がぐんぐん迫ってきました。ど迫力です。標高2千800mというヘルモン山にまた疑問が生じました。
 一年の3分の2が雪に覆われているというのに、なぜこの山が変貌の山と? 本当にこの山なのだろうか。またなぜ、タボール山もそのように言われるのだろうか。

 明日のタボール山を楽しみにしながら、バスの揺れに身をゆだねていると、淡々と語る倉田さんの声が心に染みてきました。
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46.エン・ゲブで昼食

2006年09月11日 | Weblog
 そうこうしているうちに、目的地のエン・ゲブに着きました。ここで昼食をとることになっています。記憶にある懐かしいレストランでした。ガリラヤ湖で獲れたセントピーターフィッシュ(マタイ17:27)という魚の、から揚げをいただくのですが、ほんとに今年はたくさんの客で賑わい、喜ばしい雰囲気です。私たちも総勢20人の、結構大きなグループで、今回は外に席がありました。
「これからね、こんな巨大なヤツを食べますからね」
 添乗員の泉さんが、これからたべようという魚の複製を、それも特別大きいのを皿に乗せて持ってきたものですから、
「ええっ? こんなにデッカイの? ひとり一つですか?」とか、
「食べられないよ。俺たち二人で一つにしようか」
とか言ってます。
「ちょっと触っていいですか」
「お、銀貨が入ってるぞ!」
 なんて、みんなワイワイ騒ぎながら、撮ったり触ったりで、それはそれは楽しいひとときでした。この魚は、から揚げよりも塩焼きが美味しいのではないかと思うのですが、しかし、そんなことをしていたら、時間がかかって客のもてなしどころではないでしょうね。味はカレイのように淡白で、日本人にはお醤油をかけないと食べにくい味でした。添乗員の泉さんは、ちゃんと準備しておられるようです。このお魚をいただく時は、どの方もお醤油を出して下さいました。
「ここに来てサ、これを食べてみなければ、ガリラヤ湖に来た意味がないよね。イスラエルなんて、めったに来れない所なんだからサ」
「そうよ、好きでも嫌いでも、もう二度とチャンスがないかも知れないんだから、なんでも経験してみなくっちゃね。お話を待っている人だっているんだから」
 いろんな会話が聞こえてきます。私はそれを拾い集めて、脳裏に焼き付けます。
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45.ガリラヤ湖横断 

2006年09月11日 | Weblog
 【写真:一回目の旅で】

さて、カペナウムで、「シナゴーク」と「ペテロの家の跡」を見学した後、バスでゲネサレまで行き、そこから船に乗りました。待望のガリラヤ湖横断です。対岸のエンゲブまで、およそ50分。

 昨年の冬は、カペナウムから乗船しました。どこまでも追いかけてくるカモメ、寒さに震えながら、パン屑を空中に投げる西浦さん、高田さん、宮本さん、食いつく瞬間をカメラに撮ろうとする津田さん、船の中に飛んできた2羽の子すずめと戯れる相沢さん、前回のガリラヤ湖横断で、病が癒されたと感謝していた熟年の安達夫妻、大きなお腹をかかえた若い間島夫妻。
 あの時は、船に乗っているのは、私たちのグループだけでした。ガイドの峯崎さんが、マイクを使って聖書を読みながら・・・・そういえば凄い逆風だったし、凍るように寒かったし、「イエスの時も同じ状況だった」と峯崎さんがまた読んでくださったり(マタイ14:24参照)・・・、そしてスクリューに巻かれた荒波が、はるか向こうまで白い線を残してなどなど、思い出しました。

 今年は白人グループと乗り合いです。風もなく穏やかな船旅ですが、しばらくして面白いことに気がつきました。私たちは日陰を求めて何回か移動し、白人の彼らは陽射しを求めて移動しているのです。上半身裸の男性もいれば、タンクトップの女性もいます。何か民族大移動の縮図を見ているようで、本当に面白い!
 しかし、互いに言葉を交わさなくても、旅の目的はイエス・キリストにあって、求めるものはみな同じように思いました。青い青いガリラヤ湖です。

 しばらく船に身をまかせてのんびりしながら、「イエス様が水の上を歩いて来ないかな、聖書によれば、あっちの方から来たはずだ(マタイ14:25)」などと方向を確認したりして、すっかり自分の世界を楽しんでいますと、倉田さんがやってきて、進行方向の左前方を指しながら案内しました。

「あちらに、ちょっとくびれた、崖みたいのがあるでしょう。あのあたりがクルスィと言ってですね、豚の群れがなだれ落ちた場所だと言われています(ルカ8:33)」
 みな、自分の世界から目覚め、立ち上がって写真を撮ります。倉田さんが謎をかけました。
「どうしてクルスィというか、ご存知ですか」
 少し考えてから私が答えます。
「それは多分、豚が苦しい~苦しい~と言ってなだれ落ちたから・・・かな?」
すると彼が大きい声で、
「あたりィ~」
と言ったので、大爆笑でした。
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44.カペナウム B

2006年09月11日 | Weblog
 【写真:ペテロの家の跡】

 倉田さんの説明がまだ続きます。
「上部の建物は石灰岩であること、それに柱が異教文化であるコリント式であること、さらにその柱に『ヘロデウス』という名前が刻まれてあることなどから、これはイエスの時代のものではないという結論に達しています。ま、建物はどうであれ、確実なのは、イエス・キリストが実際にこの場所で、多くの教えを語られたということですね」
 まるで、イエス様から直接教えを受けているかのように、気持ちがへりくだるのを感じました。
 今度はそこを出て、すぐ向かいの「ペテロの家」と呼ばれる遺跡に行きます。部屋が15もあるという、黒玄武岩の大きな家の跡でした。説明を聞きましょう。

「ここは、ペテロの家の跡だと言われています。その根拠はですね、聖書にあります。そこをちょっと読みましょう。マルコの1章29節です。『会堂を出るとすぐ・・・・シモンとアンデレの家に入って行かれた』と、このように書いてあります。すぐと、書かれていますね」
「あ、なるほど、あそこからここまでは、ほんとにすぐだもんな」
「そうです。そして当時、普通の漁師がこんな大きな家に住むということは、まず考えられませんので、シモンとアンデレの家は、網元だったのではないかと考えられています。さらにですね、イエス・キリストは、その一室を借りて、ガリラヤ湖の周辺を伝道したのではないかと、そのようにも考えられています」
「う~ん、やっぱりイエスは、このあたりが好きだったんだな」
 みな倉田さんの説明に感心しています。

                 
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43.カペナウム A

2006年09月11日 | Weblog
 【写真:カペナウムのシナゴーク】

 いよいよ今度は、カペナウムのシナゴークに到着です。入り口に「半ズボンの人は入るべからず」という看板があります。昨年の夏には、入れない人が何人もいました。半ズボンどころか、暑さのために上半身が裸の、おデブさんまでいましたので気の毒なのと可笑しいのとで困ったものでした。団体さんは、ガイドさんが前日に注意してくれますので、何の心配もありません。

 さて門をくぐると、石柱や鴨居の一部が道の両側に並べてあります。いずれもユダヤ教に関する模様が彫られています。たとえば、神の箱、ざくろ、ぶどう、ダビデの星など・・・。そして、そのまま道なりに進むと、シナゴークの跡に出ました。倉田さんは日陰に私たちを座らせ、ご自分は眩しさに耐えながら説明して下さいました。

「ユダヤ教の教会堂をシナゴークといいます。このシナゴークはですね、実際にイエス・キリストが説教したシナゴークの、その上に建っています。床や壁、また柱などが残っているので、もとの姿がはっきりと分かるんですね。この建物自体は石灰岩造りで、このように二階建てになっていました」
 実際の場所に立っているのと、絵を見せての説明に、当時の建物の様子がちゃんと分かってゾクッとしました。
「男性は1階で、女性は2階で祈っていたと言われています。ユダヤ教では、必ず男女が別れてお祈りするんですね。また聖書にも書いてあるように、イエス・キリストは第二の故郷としてカペナウムに住んで、この辺を伝道したと言われています(マルコ2:1)。 そして、この地で数々の病人を癒したと書いてあります」
「ふむふむ」
「また、今みなさんが腰かけておられるこの建物はですね、これは3世紀頃のものと言われていますが、その土台は先ほども言いましたように、実際にイエスが説教したシナゴークだと考えられています」
「どうしてそれが分かるんですか」
「はい、それはですね、さらに発掘した結果、土台が黒玄武岩で出来ているということが、分かったからなんです」
 確かに素人目で見ても、はっきりと違いが分かりました。
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42.ペテロ召命教会

2006年09月09日 | Weblog
 【写真:ペテロ召命教会】

 ここは、3度目にして初めての訪問なので、ことのほか楽しみにしていました。門を入って静かな砂利道を湖畔に向かって歩きますと、まず緑の多いのに驚きました。まもなく巡礼者の賛美歌が、あちらからこちらから、風に乗って流れてきます。一体幾つのグループがいるのでしょうか。天使が喜びの声をあげて、空中を飛び交っているかのようです。

 3分も歩いたでしょうか、水際に小さな教会が建っています。そう、ここなんです。この海辺なんです。漁師のペテロとアンデレが網を打っていた時、イエス・キリストが歩いて来られて、
「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」
そう言われたあの場所なんです。(マタイ4:18~、マルコ1:16~)

 教会の中には、むきだしの岩があるだけで、特別なものは何もなく、その岩のすそに『メンザ・クリスティ』と書かれた小さな看板がありました。『キリストの食卓』という意味だそうです。復活したイエスが姿を現して、弟子たちにパンと魚を与えた所であり(ヨハネ21:13)、またペテロに、
「わたしの羊を養いなさい」
と3度言われたあの場所だと。(ヨハネ21:15~)

 柳田さんが、その岩のそばに奥さんを立たせて、何枚か写真を撮っておられました。ピンと張った背筋、艶やかなお肌、彼が80才とはどうして信じられましょうか。彼もまたイエスから直接、「わたしの羊を養え」と言われた弟子のように見えてきます。外へ出て奥さんが一首詠まれました。
*ガリラヤの湖青く空青く イエス偲びて小石拾ひぬ

 私はズボンの裾をめくり挙げて、靴を脱ぎ、素足でガリラヤの湖水に入りました。昨年の8月にヨルダン川で足を清めたのを思い出しながら・・・・。

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