イスラエル旅行記

旅行記が完成したので、あとは普通に。、

57.クムランの遺跡

2006年09月18日 | Weblog
 その後、遺跡を巡りながら、さらに説明を聞きます。
「彼らは、清めのために毎日沐浴をしていましたので、貯水槽がたくさんありますが、清めの儀式もですね、非常に厳格で、水槽に下りる階段と、上がる階段が別々になっています。汚れた身体で入る階段と、清めてから出る階段が、このように仕切りで分けられているのです。しかし、この共同体も紀元70年の神殿崩壊と共に衰退するわけですが・・・・。
 聖書に、バプテスマのヨハネが、ユダの荒野で、いなごと野蜜を食べて、バプテスマを施していたと書かれていることから、彼もエッセネ派と関係があったのではないかと言われていますね」

 クムランの遺跡に立って、写本の発見された洞窟を眺めていた時、ふと思いました。モルモン書の金版が発見されたクモラの丘、死海写本が発見されたクムランの洞窟、クモラとクムラン・・・・。どちらもイエス・キリストを証するための、大切な教えが隠されていた場所です。イスラエルとアメリカの共通点、つまり東半球と西半球が対をなしていると考えるのは、私の妄想だろうか。まだあります。
・イスラエルの死海とアメリカのソルトレーク(塩湖)
・ユダの荒野とユタ州の広大な砂漠
・聖書とモルモン書
・イスラエルのエルサレムと、これから建つアメリカの新エルサレム
 こうして思いをめぐらしていますと、イエスの言われた一つの言葉が、染みるようにはっきりと理解できるのでした。
「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼いとなるであろう」(ヨハネ10:16)

「神は生きています。イエスは救い主、全人類の贖い主です。モルモン書は確かに、イエス・キリストを証するもうひとつの書物です」
そのように、クムランの洞窟に向って心の叫びを放っている私でした。
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56.死海写本のクムラン

2006年09月18日 | Weblog
「クムランは、ヨシュア記に『塩の町』として登場しています。紀元前130~30年頃、約2千人のエッセネ派の人々が共同体を作って、ここで時給自足の生活をしていました。エルサレムを離れて、この荒野に移った理由としてはですね、次の聖句が挙げられています。
呼ばわる者の声がする、
『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。
もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平になり、険しい所は平地となる。
こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。
これは主の口が語られたのである』(イザヤ40:3~5)

 1947年の夏にですね、この付近でベドウインの少年が、いなくなった羊を探しているうちに巻物を発見しました。これが『死海写本』と言われるもので、紀元前3~2世紀に筆写された『イザヤ書』や『詩篇』、『光の子と闇の子との戦い』、『創世記外典』などがあります。
 当時の旧約聖書の写本は、一番古いもので紀元10世紀の写本でしたが、クムラン(写真)で発見された死海写本は、今から2千年以上も前のもので、世界で一番古い写本だと言われています。
 クムランからマサダまで山の洞窟が300もあり、その中に約600の書物が残されていました。当時はですね、ローマの属州になっていまして、異教の民に大切なユダヤ教の正典を奪われるのを防ぐため、隠したのではないかと思われています」

「ふ~ん。それにしても、2千年という長い年月によく耐えてきたもんだな」
「そうなんです。そういう長い年月に耐えてきたのは、4つの理由によると言われています。まずですね、耐久性のある羊皮紙であったこと、乾いた気候であったこと、素焼きの壷に入れられたこと、特殊なインキを用いていたこと、この4つの条件によって、2千年という長い間守られてきた訳です」
「なるほどな」
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