ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

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「秋田蘭画」を観るーその1

2019年05月03日 16時56分54秒 | 美術 アート
秋田には「秋田蘭画」と称される絵画があります。
これは江戸時代の1700年代の後期に秋田で洋風の技法を取り入れたとされる絵画です。どのような絵なのかを観て頂きます。



この絵の作者は小田野直武という人です。「不忍池図(しのばずのいけず)」と題されています。鉢に植えられた芍薬を近景として後景には不忍池が描かれています。さて日本画には従来、花鳥風月を描いてきた長い歴史があります。
そこで描かれたのは鳥や花やなどの静物と山や池などの風景でした。不忍池図を観て気が付いた点はありませんか。作者は花を大きく描き背景に池の景色を描き入れています。従来の日本画では花などの静物は花だけを、山と池などはそれだけを描いてきました。しかしこの絵には静物と風景が近景と遠景という形で同居しています。この絵画技法は後代に「秋田蘭画」と呼ばれるようになります。「蘭画」とは「オランダ画」すなわち西洋画のことなのは言うまでもありません。「秋田蘭画」に使用された画材は日本画のものなのですがその技法は日本画を超えています。
ここでその特徴を挙げてみます。一つは先ほど述べたように静物と風景を同居させたこと、二つ目は遠近技法です。そしてさらには芍薬が生けられた鉢の根元に眼をやるとその影をも描かれています。今で言うところの陰影法を絵画に取り入れたのです。
この「不忍池図」では以上の3点の特徴を見ることが出来ます。この絵画はいまでは当たり前の絵の技法ですが、江戸中期の絵画技法としては画期的なものだったのです。対象物の陰翳や近景と遠景、そして静物と風景の同居という絵画技法が東北の片田舎秋田でどのようにして生まれたのでしょうか。当時の文化の中心であった江戸ではなく秋田でそれが生まれたのでしょうか。次にはそのことに触れてみましょう。

後世に「秋田蘭画」と呼ばれた絵画の技法を教えたのはのは江戸きってのモダニストであった平賀源内です。源内が久保田藩での銅採掘の技術指導の途中で立ち寄った角館で小田野直武と出会ったことが秋田蘭画が生み出されるきっかけでした。小田野直武は久保田藩の別家佐竹北家(角館にあった)の下級藩士でした。幼少の頃から絵心に優れていたとされています。平賀源内が逗留した宿で直武 が描いた絵に目が留まり彼を呼び寄せ、西洋由来の絵画技法があることを教えたとのことです。小田野直武 はすぐに久保田藩主の命により源内のいる江戸詰めの任を命じられます。それから源内と小田野直武との交流が始まります。源内は西洋由来の遠近法や陰影技法を直武に伝授したわけです。ついでに言いますが直武はわが国最初の解剖学の翻訳書「解体新書」の精密な挿絵を描いたことでも知られています。
さて、次の絵を見ていただきましょう。




この絵は佐竹曙山(さたけしょざん)が描いたものです。佐竹曙山は号で本名は佐竹 義敦(さたけ よしあつ)と言い出羽久保田藩の第八代藩主 でした。曙山もまた藩主でありながら絵の名手でした。狩野派の技法を本格的に学んだそうである。
さて、ここで繰り返しますが「秋田蘭画」の画風の特徴は何でしょうか。一つにはものの描写が細密であること。二つには物には陰影があること。三つ目には一つの絵の中に近くにある物と遠くにある物を同時に描いたことがあげられます。
「秋田蘭画」が平賀源内からの教示によってのみでこのような画風が作られていったのでしょうか。

次回は秋田蘭画の成立の下地に在ったものが何であったかを考えてみたいと思います。






 


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