ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

実力社会は貴族社会より「公正」なのか?

2018年07月22日 20時26分31秒 | 独り言
「マイケル・サンデルの白熱教室」という番組を観ました。
この番組で上記のことが取り上げられ、学生たちの討議がされていました。この番組は「学生」となる人たちの経歴が多彩であるのが一つの特徴です。
起業家やコメディアン、エンジニア、小説家・教師やアーティストなどの多彩な職業、多彩な経歴と異なった国籍をもつ若者が生徒となり、マイケル・サンデル教授のレクチャーで、一つの課題に対して意見を述べ、考えるという番組です。

「サッカー選手のロナウドの年収は高すぎるか?」が今回の課題となっていました。
これに対する学生たちの意見には様々なものがありました。

一つの考えはつぎのものでした。「能力の高い者には、高い報酬があっても構わないだろう」とする考えです。この考えには能力の高さの背後にはそれを支える個人の努力や生まれ持った才能があると思われるので、それに対する対価は高いものでも構わない、という「能力主義」の考えです。
また、他の意見ではつぎのものがありました。
アメリカの公立高校のの教師の年収の2000倍もの所得がサッカー選手に与えられているのは、「公正」とは言えないだろう、とする意見でした。

この中でマイケル・サンデル教授は次のよう言ってたことが印象に残りました。
「ロナウドがギリシャやローマの時代に生まれたとすれば、現在の彼の所得と地位の同等のものを得ることはできるのか?」と学生たちに問いかけていたのです。

つぎに、マイケル・サンデル教授は次のように言いました。
「ロナウドの運動能力がいくら優れていたとしても、またギリシャ・ローマ時代にサッカー競技があったとしても、21世紀のロナルドにはなれなかったと思われます。なぜならその時代の運動競技の選手の社会的な地位などは全く無いに等しかったからです。そもそもプロの運動選手などはその時代には存在してなかったのです。ギリシャ・ローマ時代の高給取りは別の方面(政治や哲学や芸術など)での能力の高さが、その社会的な地位を決定していたからです」と。

別の学生はそれに対して、次の疑問を投げかけました。
「ロナウドの年収の高さは、それでは今の時代に生まれたことによる、<偶然>によるものなのでしょうか?」と言ったのです。
「その通りだとおもわれます」と教授は言いました。
「能力の高い者が多くの収入を得るようになった事に時代を超えた普遍性などはない。たまたま21世紀の私たちの社会がそのような人たちを必要としていたのに過ぎない」というわけです。

このように考えると、高校教師が高く必要とされる社会も、もしかしたら来るのかもしれないと、いう事になりますね。
人が受け取る報酬の高い低いは、その時の社会の要請により決定されると考えたらよいのでしょうか?

そんなわけで、個人が力を発揮できる社会と世襲的な貴族社会のどちらが「公正」な社会なのかは、その社会の成員の多くががそれに同意するかどうかにより、決定されるものなのでしょう。



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