ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

経済の発展と政治の制度

2019年06月05日 19時25分47秒 | 歴史と風土
昨日は「天安門事件」から30周年であった。
中国政府の報道官はこれについて次のように言っていた。
「30年前の学生らの暴挙を制圧したのは間違いではなかった。なぜなら、その後のわが国の発展を見れば明らかである」と。
中国共産党は経済発展こそが「正義のあかし」と言っているのだ。経済発展を成し遂げれば他のすべてのことは許されるかもしくは犠牲になっても構わないとする「経済発展至上主義」がそこにはある。そのような国内政策はある程度は中国国民の間では容認されているように思える。金にものを言わせたり、欲しいものはどんな手を使ってでも手中にしなければならないという考えは、上は「国の外交政策」から下は庶民の「ユニクロのTシャツ獲得騒ぎ」まで見られる現象である。
さて、歴史の見方に「歴史の発展は自然に良い方向に向かう」というものがある。それは、経済の発展に伴ってそれを享受する人々は自然に「平等主義」と「民主的な仕組み」を望んでゆくものだ、という考え方である。例えば絶対主義王政が滅びたのは生産力の増加とそれを背景にした「市民革命」の力によるところが大きいとする考えである。
最近の事例では東欧の社会主義体制の崩壊や「アラブの春」の政治行動が挙げられるだろう。実際、「天安門事件」の5か月後には「ベルリンン壁の崩壊」が起きている。
それ故、民主的な要求を武力で制圧した中国でもほどなく、東欧で起きた変化と同じような事が起きるのだろうと、西欧社会は期待したかもしれない。
所がそれは起きなかった。起きないどころか逆な方向に中国社会は変化していった。
ヨーロッパやアラブ世界では「民主化」へ向かう気風が社会の変化を促したのに中国ではなぜそれが可能にならなかったのであろうか。
それは中国共産党の統治の仕方が巧妙であったことが一因として挙げられる。それは一言で言えば、次のように言えるだろう。『民主主義でなくても暮らしが良くなれば、それで良いだろう。党の方針に従っていれば暮らしが良くなるので、庶民はそれに従っていれば良いのだ』という論理である。この考え方は私たちが考える民主主義とはなじまない考え方と思うのだが、当の中国人たちはそれを見事に受け入れているように思える。中国の指導者が言う「中国4000年の歴史」が今の中国を形造っているとすれば、歴史的に早く文明に達した地域がその後に進歩を遂げたとは言い難いと思われる。そのよう例を挙げておく。大航海時代に世界をまたにかけて活躍した西欧諸国で現代でも国際社会で大きな地歩を占めている国はない。スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスなどの当時の先進諸国は歴史を牽引する役目を後の世代の国に譲っている事は既知の事実である。
さて、経済が豊かになり人々の暮らしが良くなることは望ましい事ではあるが、人の幸せはそれだけではないだろう。少数者が思っている事が自由に言えない社会は、たとえ経済的には不自由ではないにせよ、豊かな社会とは言えないだろう。
天安門事件から30年を経てこんなことを考えてみたのである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿