ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

寺山修司にまつわる極私的回顧。

2016年09月21日 08時18分18秒 | 美術 アート


寺山修司は1935(昭和10)年生まれであるから、もし今生きていれば81歳という事になります。
我が国の平均寿命からすれば存命してても不思議ではないのだが、彼は47歳でこの世を去っています。

私が東京での学生生活を始めたのが1966(昭和41)年なのだが、寺山は1967年に「演劇実験室・天井桟敷」を立ち上げていました。
その公演のポスターが私の通う大学の構内にも貼られていたのを記憶しています。
「青森県のせむし男」や「大山デブコの犯罪」などのポスターが貼られていたのを目にしたことがありました。
三沢の寺山修司記念館には当時のままのポスターが多数掲示されていました。
次のようなものです。






私の通う大学には多くの学生演劇のグループがあり、学校の授業よりも演劇活動をしたいがために大学に入学する学生も多くいたようです。
名古屋の進学校から来た私の友人もそんな一人で、天井桟敷の旗揚げの「青森県のせむし男」の公演に、照明のバイトをしたことがあったそうです。

さて、そんな余談はさておき、寺山修司記念館を訪れるのは今回で2回目なのです。
前回は2013年でした。この年は寺山修司没後30年にあたり、いろんな企画や公演が東京や彼の故郷の三沢市などで行われていました。私の住む秋田では寺山修司を知る人は多くはありません。青森が生んだ奇才、天才ぐらいの印象しかないのが実情です。


寺山修司は実に多方面に優れた才能を持った人でした。
俳句、短歌、戯曲、映画、写真などの各分野で独創的で挑発的な活動をしてました。

いずれの活動でも彼は「時代を挑発し」そして時代の最先端を走り抜けました。

あるインタビューで「寺山さんの職業は何ですか」と尋ねられたのに対して、寺山は「私の職業は寺山修司です」と答えたと伝えられています。
時代の空気を読む能力と人が潜在的に求めている物を「それはこれだろう!」と明示できる予知力を持っていたのでしょう。
寺山修司のそれらの活動に私が若いときに接したときには、その予知力を「押し付けがましさ」と思っていました。寺山の「押し付けがましさ」が実は予知力であったのだと気が付いたのはずっと後になってからです。

寺山修司の活動の原点は、中学高校時代に始めた俳句や短歌などの詩作にあるのではないかと私は最近、思っております。

彼の詩で私が特に印象に残っているものがあります。
「幸福が遠すぎたら」という詩です。

「さよならだけが 人生ならば
また来る春は 何だろう
はるかなはるかな 地の果てに
咲いている 野の百合 何だろう

さよならだけが 人生ならば
めぐり会う日は 何だろう
やさしいやさしい 夕焼と
ふたりの愛は 何だろう

さよならだけが 人生ならば
建てた我が家 なんだろう
さみしいさみしい 平原に
ともす灯りは 何だろう

さよならだけが 人生ならば
人生なんか いりません」


「さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません」と言い放って、47歳の人生を生き切った寺山修司が今の私たちに言い伝えることがあるのなら、彼はきっとこう言うでしょうね。
「一体、今の者たちは何をやりたのか。やりたいことがあったならやればいいだろう。言いたいことがあるのなら、言ったらいいだろう。」とあの独特の青森訛りで。

ところで、この詩は若い時には「なるほど、そんなものなんだろな」ぐらいにしか思いませんでした。
だがいま、古希を目前に控えた身としては、この詩を次のように読み替えてみたいと思います。

「また来る春だけが 人生ならば
さよならは なんだろう

・・・・

また来る春だけが 人生なので
さよならなんか いりません」



さて、寺山修司の作詞になる歌に忘れられない思い出があります。少し長文ですがお読み頂きたいのです。
それは天井桟敷の女優であったカルメン・マキがうたった「時には母のない子のように」と言う歌にまつわることです。
この歌が流行ったころ、私は自身が関わった活動に疑問を持った事もあり、同郷の友人と飯場でのバイト生活を始めました。
その仕事は総武線での線路のの保線の仕事でした。
その仕事に従事した当初は東京都内の現場でしたが、そのうち千葉県内の現場となり最後には房総の外れの方へと飯場が移動していったのです。
始めてから3か月ぐらたったころには千葉の白浜近辺の海岸沿いの飯場でした。
季節は夏を通り越し、秋の半ばにもなっていたでしょうか。

飯場でいる人たちの中にはいろんな人がいました。
毎晩、女のいる酒場に行く人もいれば、仲間内で花札バクチに興じている人たちもいました。
学生の私たちはそれらの人からは別格扱いでバクチや酒場に誘われることもありませんでした。
飯場の親方がそれらの作業員には学生たちを誘わないようにとくぎを刺していたのかもしれません。
一日の仕事が終わり飯場での晩飯も食べ終わると、私たちには何もすることがありません。
持参した文庫本も何回も読み切り、ラジオから流れてくる歌をぼんやりと聞き流しているだけの、何もしない生活でした。
そんな生活に不満があったわけではないのですが、物足りなさを感じていたこともあったのです。

そんな時、ラジオから聞こえて来たのがカルメン・マキの「時には母のない子のように」だったのです。
この歌の中に波打ち際に押し寄せる波の音が歌の初めと終わりにバックに流れているのですが、その波の音が飯場で寝ている私たちの耳にも届くのです。
現実に押し寄せる波の音とラジオから流れてくる波の音が重なり合って耳に届くのでした。
暗い夜の海岸で私たちはその波の音を聞いたものです。

同郷の友人と私はどちらからともなく、「一度、東京に帰ってみるか」という事になり、飯場の親方にそれを申し出て、東京に帰ってみる事にしたのです。
東京に帰ったって、何かいいことがあるわけではないのですが、一度、何かに区切りを付けようかと思ったのです。
飯場の親方は「気が向いたら、また来いよ」と言ってくれて、給料の他に電車賃と餞別をくれました。
あの餞別は「必ず、また来いよ」の餞別だったのかもしれません。

このようにして東京に帰った私たちは飯場に行くことはありませんでした。相変わらず東京での怠惰な生活に戻ったのです。
なんとも言えない思い出です。

今でも「時には母のない子のように」が聞こえてくると当時が思い出されます。一人ではこの歌を聞いてみようとは思いません。
この歌自身は寺山修司の作詞で良くできた歌でヒットもしました。
でも、私はこの歌を好んで聞く気にはなれません。

私事の思い出話になってしまいました。
寺山修司はあの時代の寵児であっただけでなく、私にとっては忘れられない存在です。










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