ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

土門拳記念館を訪ねる。

2017年09月12日 15時16分26秒 | 写真とカメラ
土門拳氏は写真愛好家なら知らない人はいないと言われる写真家です。
1950年代に、木村伊兵衛らとリアリズム写真運動を提唱した写真家として知られています。

写真は現実の事物や人物の或る時の一瞬を切り取り、記録することを目的に発明された技術ですが、今では記録することを超えて表現の一手段として誰にでも気軽に扱えるようになってきています。

私もたまにはカメラを片手に散歩がてら気にいった景色などを撮ったりしています。

さて先日、その土門拳の作品を所蔵している土門拳記念館を観てきました。
7万点にも及ぶ氏の全作品を所蔵しており、テーマ別にその作品を展示していました。

同時に展示されていたのは、新宿の歌舞伎町に生息する人々に焦点を当てその有様を描写した作品でした。
作家の名前は、梁丞佑(ヤン・スンウー)という韓国出身の方です。



「新宿迷子」と言うタイトルの作品群でした。
全身に彫り物をしたその業界の男、それに驚愕の眼を向ける女性、コマ劇場前で母の仕事が終わるのを待つ少女など、歌舞伎町に生息する人々に向ける視線の鋭さに圧倒される作品でした。

そこにあるのは平穏無事な市民生活ばかりではないという現実でした。
田舎町に住み、毎日決まったように勤め先に出掛けそして帰ってくるという市民生活にはもちろん、少なからず意味のある事ですが、また同時に歌舞伎町と言う盛り場でのこのような風景も今の私たちの国に存在する現実であるには違いないのです。

梁丞佑(ヤン・スンウー)氏の作品を見ていて、この風景はどこか見たことがあると感じました。
それは、昨年の秋に三沢市の寺山修司記念館を訪れた時のことです。
その時、寺山記念館で開かれていた森山大道氏の写真展を観たことを思い出しました。
写真の作風に類似点があるように思えたのです。


さて、土門拳氏の写真に対する姿勢は「リアリズム」そのものです。

戦後の一時期、芸術の様々な分野で「リアリズム」が提唱されたことがありました。
演劇や映画、文学の分野で「リアリズム運動」がありました。
それは多くの場合、社会の底辺や隅々に眼を向けなければならない、と理解されいわゆる「社会主義リアリズム」とも呼ばれたことがあったようです。

今では「社会主義リアリズム」と言う言葉自体が死語のようになっており、その考察や研究さえ充分に行われているとは言えません。

今は、ゲームや映画で「バーチャル」な世界が、幅を利かせている時代です。
それは、それで悪くはないのですが、今一度、土門拳氏や木村伊兵衛氏が提唱した「リアリズム写真」の意義を振り返ってみるのも必要な時に来ているのではないかと、思って観てきました。
「リアリズム」は決して古臭い概念ではないと思います。

戦闘が起こっているのは、ゲームや映画の中だけではありません。
紛争や飢餓による死者は今でも地球の各地に起こっているリアルなことなのです。
そして、そのことは明日の私たちにも、起こり得る事なのです。

そんなことを考えながら、美術館のグッズコーナーを眺めていたら、分厚い写真集を買い求めていた若い女性がいました。
その写真集は、おそらく彼女の年齢からして生まれる以前に撮られた写真です。
そのような写真に興味を持つ若い人もいるのだ、となんか明るさを感じました。

最後に土門拳記念館の建物の全景をお見せして、今回の記事を終わります。



秋田までの帰りに夕日が良く見える場所がありました。
そこで海に沈みゆく太陽を撮ってみました。
これについては、また後日に記事にしたいと思います。


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