ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

二つの美術展を見る

2020年08月08日 07時44分00秒 | 美術 アート
現在、秋田県内で二つの美術展が行われています。一つは「ミュシャ展」です。これは横手市にある秋田近代美術館で行われています。もう一つは秋田市立千秋美術館の「岡本太郎展」です。先日はミュシャ展を観てきました。そして昨日は「岡本太郎展」を見ました。ミュシャの作品は花や葉など自然の植物をモティーフにしそこに優美な姿態の美女を配置した絵画表現は別名ミュシャ様式と呼ばれます。これは後代の画家などにも大きな影響を与えました。我が国の大正期から昭和前期にかけての挿絵画家が描く美人画や『ベルサイユのばら』の池田理代子さんの漫画などにもその雰囲気を感じることができます。
さて、ミュシャは美人ばかりを描いたわけではありません。1910年、彼は50歳を機に生まれ故郷のプラハに戻ります。そして、チェコスロヴァキアを題材にした『スラヴ叙事詩』シリーズの制作に取り掛かります。『スラヴ叙事詩』の全作品の20点を描き終えたのは彼が66歳の時でした。ミュシャは『スラヴ叙事詩』の全作品をプラハ市に寄贈した事でも判るように、彼は出来上がったばかりの祖国チェコスロヴァキア共和国をこよなく愛した人でもあったのです。ミュシャの後半生は自らのアイデンティティを求めて、『スラヴ叙事詩』を描いた。
次の画像である。

これはスラブ叙事詩の最後の作品「スラブ賛歌」と題されている。
この作品の現物は4800mmx4050mmもの大作なので今回はスライドでの展示となったようであるが現物展示を見たかったと思った。

さて、もう一つの美術展の「岡本太郎展ー太陽の塔への道」ですが、これは彼の代表作「太陽の塔」が創られるまで経緯とそれが2018年に永久保存され再生を果たしたのを記念した美術展です。岡本太郎は1950年代前半に縄文土器の芸術的価値を高く評価し、日本文化の源流が縄文にあると主張したことはよく知られています。それまで茶の湯などに代表される簡素な様式が日本文化だとされていた風潮に意義を唱えたのが岡本太郎だった。縄文の火炎土器の力強さに岡本が惹かれ、それが日本文化の源流と考えたのである。彼は1957年に冬の秋田を訪れてナマハゲ行事や雪に埋もれる人々の暮らしに触れ、自ら写真を撮っている。彼は縄文土器に原日本人のルーツを探りあて、それが日本美術の原点であるとした。岡本の太陽の塔にはそのような背景があったのだ。



これらの画像は岡本太郎展で筆者が撮ってきたものである。いずれにも岡本の美に対する共通の姿勢が感じられると思う。

二つの美術展を見て思うことは、ミュシャは売れるポスターなどの商業作品を数多く残したが自らのアイデンティティをスラブ民族の歴史に求めた。また岡本太郎は大阪万博で「太陽の塔」を残したが、彼の美の源流は縄文に求めたと思うのである。

なお本稿での画像は筆者が会場で撮影したものである。両方の美術展において、写真撮影は許可されていた。「ミュシャ 展」では観覧者がSNSで記事にしたものを会場の受付に提示すれば、記念としてミュシャのシールが貰えるとのことであった。

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