*2/11追記* この日記、2/8にいったん公開したのですが、Ayumiさんの内面に立ち入った記述が一部あったため、本人の意向が確認できるまでは公開を差し控えようと思い直し、2/9にいったん公開を取り下げました。その後、本人から書いた内容についての了解を得ることができたので、改めて公開させていただきます。(ただし、本人の了解は得られたものの、不特定多数の人からのアクセスが想定される場での公開であることを鑑み、件(くだん)の箇所は極力差し障りのないように書き換えました。ご了承ください。また、今回省いた内容は、私にとってはとても大事な出来事だったので、それも何らかの形で保存しておきたいという気持ちから、オリジナルの日記もそのままの形で保存し、今日から新たに始めたパスワード制で保護された形で公開することにしました。)
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昨日は、IU音楽科のGraduate Recital(大学院生によるリサイタル)で、ブラームスのクラリネット三重奏曲イ短調(クラリネット、チェロ、ピアノ)と、オリヴィエ・メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』(クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ)を聴いてきた。
演目からもお分かりのとおり、今回のリサイタルはクラリネット奏者がメインで、それ以外の奏者は彼女のサポート共演者。そのうちのヴァイオリン奏者を友人(かつ私の日本語クラスの生徒)のAyumiさん(日系ドイツ人)が務めるというので、それが目当てで行ったんだけど、メシアンの曲が予想以上に素晴らしかったばかりか、ブラームスの曲もとても美しい曲で、本当にいいリサイタルだった。すごく寒い夜だったけど、重い腰を上げて行って本当によかった! コンサートが終わった後、ここまで深い余韻にひたれるのは久しぶりかも。
それほど感銘を受けたのは、曲目や演奏が素晴らしかったこと以外に、メシアンの曲にとても興味深く意義深い背景があったということ(そしてリサイタル会場に置かれていた、作曲者メシアン自身による本曲の解説文のリーフレットのおかげで、演奏の前にそうした予備知識を得ることができたこと)も大きかったと思う。
ここのリンク先に詳しく書いてあるけど、メシアンは英文学者の父親と詩人の母親のもとに生まれ、文学的素養や才能にも非常に優れていたこともあって、自作の曲の多くに文学的・芸術的な解説文を書いているらしい。幼少の頃からピアニスト、オルガニスト、作曲家としての才能を花開かせただけでなく、神学、鳥類学への造詣も深く、様々な鳥の鳴き声を収集・分析して自らの音楽にも取り入れていたほか、「音を聴くと対応する色が見える」という共感覚の持ち主でもあり(それゆえ自曲の解説文などに色彩への言及が非常に多い)、本当に多種多彩な才能の持ち主だったらしい。私がコンサート直前に大慌てで読んだこの『世の終わりのための四重奏曲』の解説文も、深い神学的知識に裏打ちされ、独特の色彩感覚などに富んだ、とても文学的な文章だった。私はやっぱり文学畑の人間なので、そういう文学的な表現や解説がついている曲だと、それだけで思い入れが深くなってしまうところもあるのかもしれないけど。
でも、そうした文学的要素以上に私が感銘を受けたのは、
この曲がナチスの収容所で書かれ、初演されたという事実。第二次大戦中、ドイツ軍に捕らえられたメシアンは、ヨハネ黙示録第10章(
「そして私は力強い御使いが、雲に包まれ、虹を頭上に戴きつつ、天から降りてくるのを見た。。。。そして御使いは言った、『第七の御使いによってトランペットの響きが鳴り渡る時、偉大なる神の神秘は成就されるであろう』。拙訳)にインスピレーションを得て収容所内でこの曲を作曲したのだそう。四重奏の編成としては珍しい「クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ」という構成も、たまたま同じ収容所にこれらの楽器の奏者が収監されていたという偶然の事情によるものらしいけど、昨日の演奏を聴いた限りでは、この組み合わせはこの曲ではとてもうまく活かされているように思った。
1941年1月15日の、収容所内での初演では(幸いにも監獄の所長が音楽に理解のある人で、この曲の演奏を特別に許可してくれたらしい)、零下30度を超える厳寒の中、3万人を超える囚人たち(主にフランス人、ポーランド人、ベルギー人)が、「弦が3本しかないチェロ」や、「鍵盤を押さえると元に戻らないピアノ」などの奏でる音色に聴き入った、とメシアンはこの解説文に記している。(
Wikipediaの解説によると、メシアンは後に、「私の作品がこれほどの理解と集中力をもって聴かれたことはなかった」とも語っているのだそう。)
ブラームスの三重奏曲は4楽章全体を通じてとても調和的(harmonious)で美しい旋律が耳に心地よかったけど、それと比べると、メシアンのこの曲は不協和音なども多用されていて、いわゆる「わかりやすい美しさ」というのとは少し違う。でも聴く人の耳と心をとらえて離さない、不思議な魅力と美しさ、そして哀しさに満ちている曲だった。不協和音が効果的に使われていることで、曲全体にピンと張りつめた緊張感のようなものが漲っていて、全8楽章からなる長い曲(演奏時間約50分)なのに、聴いているこちらを全く飽きさせなかった。ところどころで挿入されるクロウタドリやナイチンゲールの鳥の鳴き声を模したクラリネットやヴァイオリンの旋律も、黙示録的なもの(この世の終末とその後に到来する最終的な平穏の予示)を思わせる感じで効果的。
全体的に不協和音の響きや緊張感が漲るこの曲の中で、第5楽章と第8楽章は唯一(というか唯二?)、例外的にただひたすら穏やかで美しい旋律が奏でられ、その他の楽章と好対照をなしていたのも印象的だった。(「イエスの永遠性への賛歌」「イエスの不滅性への賛歌」と名付けられたこの2つの楽章は、それぞれピアノを伴ったチェロの独奏と、ピアノを伴ったヴァイオリンの独奏で演奏される。)やっぱり一番しみじみと心惹かれたのはこの美しい二つの楽章かな…。でも緊張感漂う他の楽章あってこそ、この珠玉のような二つの楽章の美しい旋律がより活かされているんだろうというのは素直に実感できたけど。人生の不条理への怒りや哀しみをなめ尽くした後でこそ得られる悟りの境地というか、そうしたものを超克した先の心の平安というか… そういうものを心の深い部分で受け止められたような気がしたから。
以前は不協和音が多用される曲はあまり好きではなくて、自分で聴くことはほとんどなかったんだけど、最近、ピアノの先生のなつきちゃんから練習曲として渡されたバルトークの小曲(「ブルガリアのリズムによる舞曲第一番」)にも不協和音がかなり多用されていて、この曲の練習を通じて(ほんの少しずつだけど)不協和音ならではの美しさや魅力を理解しはじめた気がする。とすると、メシアンの曲をこうして受け入れ、深く味わえたのも、なつきちゃんのもとでピアノを続けてきたおかげかな。。。 こうして自分では弾くことはおろか存在さえ知らずにいたかもしれない曲を選んでもらい練習させてもらえることで、音楽への理解も少しずつ深まり、幅が広がっていっている気がする。(なつきちゃん、ありがとう
)
にしても、
このリサイタルの間中、お腹の中の赤ちゃんがさかんに動いていた(暴れていた?^^;)のには笑った。でも不思議なことに、メシアンの第5楽章と第8楽章の間だけはあまり動かず、じっとして聴いていたみたい。これはきっと美しくて穏やかな旋律が心地よくて静かに聴き入っていたからだと思うんだけど、第5楽章が終わって、次の楽章で4つの楽器が一気にいろんな音を奏ではじめるとまた盛んに動き出していたのは、赤ちゃんにはやっぱり不協和音はちょっとアクが強すぎるということなのかな?(笑)母親の私が「(知的レベルで音楽を理解して)美しい」と思って聴いていたとしても、赤ちゃんの耳には違って聴こえるのかな。それとも母親が美しいと思って心地よく聴いているものなら、赤ちゃんも心地よく聴いているのかな。(だとすると、あれは暴れていたんじゃなくて、踊ってたってことか
。)どっちなのか、実はけっこう気になったりして…(笑)。
コンサート終了後、ちょうどその日に焼いていたお菓子の差し入れをもってAyumiさんに一言ねぎらいの言葉をかけに行った。そのときAyumiさんは、「この曲を弾くと、この曲が作曲された背景や初演されたときのエピソードのことに思いが飛んで、いつもとても心が動かされる」…と話してくれた。
このリサイタルが、そしてメシアンの『世の終わりのための四重奏曲』が本当に私にとって深い余韻を残す特別なものになったのは、コンサート後のこの一幕があったからかも。Ayumiさんはまだ若いけど、ドイツにいた頃から既にベルリンのオーケストラなどで活躍していたみたいだし、(しかも
(クラシック・ファンにしか分からないミーハー・ネタだけど)かの有名なバレンボイムとも大学の指導教官を通じて知己らしく、何でも大学のカフェテリアで一緒にコーヒーを飲みながらおしゃべりすることもあった(!)とかで、何だか既に世界の大舞台に身を置いている感じだし、)とにかくこれからの飛躍や活躍がとっても楽しみ。
日本語も既にかなり上手なのに、「漢字やvocabularyをもっと増やして、もっと上手にしゃべれるようになりたいし、お母さんとももっといろんなことを日本語で話せるようになりたいから」と、多忙なスケジュールの合間を縫って私の日本語クラスに通ってくる彼女は、きっとすごい努力家なんだと思う。心も姿勢もまっすぐで、なんというか、「心が澄んでいる人」という表現がぴったりの人。昨日のコンサートでの演奏と、その後の彼女の言葉を聴いて、ますますそう思うようになった。
彼女のような人と話していると、こちらも心や姿勢をまっすぐにして、がんばらなきゃ…って気になってくる。
…うん、がんばろう!(最近少々さぼり気味のピアノも含めてね・笑)