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有機的生産と機械的生産との本質的差異(2/3)

2004年12月02日 19時14分50秒 | 研究ノート

§6 農業生産過程の特殊な本質


 一般的な労働過程の理論的分析によっても(『資本論』1巻、5章、1節)、協業、分業および近代的工作・動力機構の影響下で生産過程が受ける形態変更の詳しい描写によっても(『資本論』1巻、11~13章)、マルクスによって、その固有の特性の中で農業の生産過程を理解する試みは、行われなかった。マルクスは、農業と工業の生産過程は本質的に同質であり、工業の生産の分析によって発見された小経営から大経営への発展傾向は同じく農業の財貨生産にも当てはまる、という暗黙の前提から出発している。彼が農業に投げかけたたくさんの一時的な側面からの眼差しは、ほとんど何もかも同質性についての例示の性格を持っている。そして同じく農業に捧げられた総括「大工業と農業」(『資本論』1巻13章10節)は、経営技術の発展は工業と同じく農業においても実現する、という根本思想から引き出されている。そこと同じくここにも、大経営による近代的機構と他の資本主義的設備と方策の助けをともなった小経営の駆逐が存在する。
 我々はこの同じとする立場の批判的考察にはいる。マルクスによって適用された労働過程の術語を農業的生産に転用する試みは、両方の生産領域の間の本質的差異の無視から出発し、同じものであるという理解に導く、という困難にもうすでに巻き込まれている。
 3種類の、(1)人間の目的意識的活動である労働、(2)それから生産物がつくられるはずの自然物である労働対象、(3)それをとおして労働対象が労働者によって加工される物体である労働手段が、マルクスによると生産物の製造に属している。後二者である「客体の要素」は「生産手段」としてまとめられ、それと「人格的要素」としての労働は対立している。
 「労働手段は」マルクスの定義によると「労働者が自己と労働対象との間に置き、彼の行動の導体としてその対象に奉仕する、物体あるいは物体の複合体である。彼は物体の機械的、物理的、化学的諸特徴を利用し、他の物体に対する力の手段として彼の目的に応じてそれを作用させる。」(『資本論』1巻、141ページ)-マルクスは大地もまた農業における労働手段に含めている。(142ページ)ところが農業における生産過程において大地は、種子の耕作で見られるように、労働対象に対する人間活動の単なる「導体」としてだけ機能しているわけではない。大地は、単なる仲介者つまり植物の卵の孵卵器ばかりでなく、養育者でもある。土地はその物質の一部を植物性生産物の増成のために譲り渡す。土地は、耕作によって補給された労働手段との合作において、労働手段と同じく原料としても見なされるべきである。マルクスの定義はそれゆえに貫徹していない。耕地の表土は、同時につまり同じ生産諸過程の同一の段階で、-そのうえ問題なのは-客体の生産要素の両方の範疇の中に出現し、外部装置としてそれが人間の労働を植物本体に移動させ、同時にそれが材料として生産物の形成に移行する。
 同じくマルクスの労働手段の定義は農業の家畜について不十分であることが判明している。農業の家畜が生産過程に積極的に関与させられている限り、マルクスはそれを労働手段に含めている(前掲書、142ページ)。しかしその家畜が労働手段として演じている役割は前述の労働手段の定義では収まりきらない。農家は、ものを引く馬、乳を搾り子牛を生む牝牛、卵を生む雌鶏および雄鶏を利用するとき、けっしてこの「物体」の「機械的、物理的、化学的特性」を、他の物体に対する力の手段として合目的に行使させるために、利用しているだけではない。ここではその上あるいはそれどころか第1に生理学的特性を考慮にいれる。(3) 「家畜の意志」つまり家畜の素質、能力、欲求が生産過程に同じく決定的な要素として現れる。それゆえここではマルクスの定義があまりに狭いことがはっきりする。農業は特有の生命の問題と独自の機能・能力で労働手段を用いている。

(3) 生理学的特性は単に機械的、物理的、化学的特性の組み合せにすぎず、その限りでは本質的に異質なものではない、という反対があるだろう。生物学的問題がいつかこのような意味で消滅し、有機的生命を非有機的成分からつくりだすことに成功することも不可能ではないだろう。しかし我々はまだこの問題の解答の跡をたどっているわけではない。自然の支配の中に生理学的特性と法則はいずれにせよそれ自体として序列づけられている。


 また「原料」としての種子については、それ固有の事情が存在している。種子が生産物の増成を行う機能は、マルクスによるそのなかに原料の実体が存続するような、形成されるべき生産物へのその物質の引渡しに終わるのではない。胚芽核のまわりについている栄養物質は、後で外から補給される栄養の集まりの多さに比べるととてもとるに足りない。(植物と家畜の)種子を種子たるものにしているのは、将来の生産物のためにその法則と形態の中にしまい込まれている胚芽細胞の中心の生きている点である。そのことが農業の生産過程において種子に、マルクスの原料の定義にはけっして含まれていなかった、それ独自の意味を与えている。農業において種子が満たす機能を、工業的加工部門たとえば製粉所、醸造所、蒸留所等の演じる役割と比べると、ここに存在する特殊性がはっきりと現れる。そこには実際、機械的、物理的、化学的作用による単なる形態変化をとおして新しい生産物になる、マルクスの意味での原料、つまり死んだ物体が存在している。農業生産ではまったく異なっている!そこでは種子は生きた有機体として活動しており、それが経験する変化は生理的な進化である。
 そしてそれとともに我々は農業的生産と工業的生産との根本的な相違の前に立っている。農業においては生きているものの生育が問題であり、工業においては死んだ物体の加工が問題である。死んだ物質の加工には人間の意志が存在しており、それが、直接の推進力をとおして、つまり自分の意志を持たず次々にまわしていくにすぎない諸結合部分をとおして、生産物の製造のために必要な物体の分離と結合を実行する。それに対して農家は、分離させ、結合させる活動を生きた自然の自発的行為に譲り渡さなければならない。これが直接的な生産者である。人間の労働はまず二次的な立場に立つ。人間の労働は生きているものの育成の法則と気分に自分自身を適合させる。人間の労働は直接生産者を生産物製造過程に参加させるだけである。工業的財貨製造は機械的過程であり、農業の生産は有機的過程である。
 生産の経営的区分は原料生産と加工生産における区分である。それによると、農業を除いた採石、鉱山等における原料の経営的獲得は原料生産と見なされる。完全に手元にある自然物のこの単なる占有は、両方とも原料の源である土地に結びついている限りでは、今はなるほど農業的生産と同質である。しかし経済的観察の他の側面にとって両者は対立している。人間の労働が生産物の創造で演じる役割については、鉱山における原料生産と耕地での原料生産との間には、耕地での原料生産と加工生産との間にあるのと同じ根本的差異がその代わりに存続している。鉱物と鉱石の獲得は、その同一の段階が人間の意志の主導権と指導の中断されない結集の監督下にある、純粋に機械的な過程の中で実現する。だから我々は加工とともに占有を機械的生産の概念の中にまとめ、それを有機的生産としての農業と対立させる。
 農業的財貨獲得の中心にある有機的過程がその固有の本質を決定している。有機的過程が消滅するやいなや、本来の農業的生産は中断してしまう。取り入れ作業は農業的生産領域から工業的生産領域への移行を形成している。それは、一方では農業的労働過程の特別の条件の下でなお続いており、他方動かしうる死んだ対象に関する労働(輸送、脱穀、精白等)として機械的生産の領域に属するのに十分である。製粉、製パン、、バターおよびチーズつくり、蒸留業等におけるより広い加工はこれに含めるのに十分である。農業経営の中にそれがまだしばしば埋め込まれることは、それについてはまちがってはいない。他の加工部門と同じく、このいわゆる「農業の副次的工業」にもマルクスの生産理論は当てはまり、そこから、我々が後で見るような、ひどくまちがった推論がより狭い本来の意味での農業的生産の発展に導入された。
 農業労働は植物と動物の生命現象のための準備と補助の臨時労働であるという事情から、生産のこの領域にとっての一連の根本的な特質が生じている。仮の方向づけへの個別的描写にはいる前に、いくつかの重要なことがらへの視点、つまり工業的生産と農業的生産との本質的違いから直接生じてきた相違を見ることは、適切であると思える。

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