ギャラリー貴祥庵 ―《貴志 理の 日々の思いついたままのイメージ絵画、心に残る言葉、歳時の記録を綴る》―
表現の可能性を模索しつつ美術家貴志理の日々のイメージ絵日記。柔らかな調和の取れた色調と奥深く記憶された感性との対話。
Yhaaa!3
Yhaaa!2
Yhaaa!
無題3
「絵が分からない。とりわけ抽象、現代美術が分からない。具象、写真のような絵だとなんとなく分かる気がするんだが。」との質問を時々受ける。 これに対して答えとして 「額に皺を寄せて難解なパズルを解くように無理に何を描いているか理解を求めなくてもいいのでは!」、「色、形だけを見て 恋人選びをするような感覚的な好き好きの気持ちで見ればいいのでは」と答えて来たが、もっと簡単な答えがないものか、自分はほんとうの意味での美術について会話をしているのだろうか。話せば話すほどに長く 理屈ぽっくなってしまう美術論を展開しなければならないのだろうかと。いつも自問していた。 9月10日付けの朝日新聞夕刊日本人.脈.記の絵本きらめく⑪で見かけたこんな一文より
《あるとき、店のテレビで、絵の解説番組が流れていた。となりにいた小学生がつぶやいた。「絵は心で読むんだよ」。》
「絵は心で読む」。うーんこれしかない言葉。心無い人には絵は見えないかと納得。
無題2
風15
あなたは独りで、樹々や草地や川の流れと共にいなければならない。思考やイメージで、いろんな問題を持ち込んだら独りでいられない。地上の岩や暗雲で、心がいっぱいになってはいけない。できたばかりの器のように空っぽでいるべきだ。そうすれば、これまでになかったなにかをトータルに見るだろう。もしあなたというものが内在すれば、これを見ることはできない。見るためには、あなたは死ななければならない。この世界で自分は重要なものだと考えているかもしれないが、それは違う。あなたは思考が組み立ててきたものをすべて所有しているかもしれないが、そんなものは全部古くさく、使いふるしでぼろぼろになりはじめている。
J・クリシュナムルティ「クリシュナムルティの日記」
(宮内勝典訳・めるくまーる社)
風14
.........
あかつきの薔薇いろをそらにかんじ
あたらしくさはやかな感官をかんじ
日光のなかのけむりのやうな羅(うすもの)をかんじ
かがやいてほのかにわらひながら
はなやかな雲やつめたいにほひのあひだを
交錯するひかりの棒を過(よ)ぎり
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた
わたくしはその跡をさへたづねることができる
そこに碧い寂かな湖水の面をのぞみ
あまりにもそのたひらかさとかがやきと
未知な全反射の方法と
さめざめとひかりゆすれる樹の列を
ただしくうつすことをあやしみ
やがてはそれがおのづから研かれた
天のる璃(るり)の地面と知つてこゝろわななき
紐になつてながれるそらの楽音
また瓔珞(やうらく)やあやしいうすものをつけ
移らずしかもしづかにゆききする
巨きなすあしの生物たち
遠いほのかな記憶のなかの花のかほり
......
宮沢賢治の「青森挽歌」より
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