春景色5
「こないだの朝、あっちの空に見たこともねえ長え長え雲があって、それがいつまで経っても動かねえ。一体全体、どんな按配になってるだか、その雲の下まで行ってみたくてよ。急いで弁当持って、どんどんどんどん歩いて行っただ。いくら歩いても、なかなかその下まで行きつけねえ。それでも、どんどんどんどん歩いて行っただ。とうとう、その雲の下まで行っただ (と、話している当人が言うのだ)。そこは原っぱでよ。じいさんが一人で草笛吹いてただ。しばらくそばで聞いてたけんど、汚ねえじいさんで、別に面白くもねえ。可哀そうになって百円玉一つくれてやって、とっとと帰ってきただ」
七、八年前、畑を耕して山羊だの犬だのと暮している、しごく丈夫なお婆さんから、こんな話を聞いたとき、大へん愉快な気持になった。この本の「浅草花屋敷」の冒頭に記した、お寺のヤエちゃんと、このお婆さんが、私の物見遊山のお手本である。
「遊覧日記」(武田百合子 写真・武田花 ちくま文庫)