2008年8月のブログ記事一覧-ギャラリー貴祥庵 ―《貴志 理の 日々の思いついたままのイメージ絵画、心に残る言葉、歳時の記録を綴る》―


風13

 

しづかさや湖水にうつる雲の峰 霞東

 しづかさや湖水の底の雲のみね  一茶

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




風12

 

夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
            
 秋風や水より淡き魚のひれ  

 

― 三橋鷹女 ―

     

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




風11

 


  足のうら洗へば白くなる  
  こんなよい月を一人で見て寝る
  山に登れば淋しい村がみんな見える
  入れものが無い両手で受ける
  せきをしてもひとり

「俳句は詩なのです。私をして云わしむればむしろ宗教なのです。宗教は詩であります。決して哲学ではありません。之を論じることになれば、すこぶる長くなりませう。私はただ結論をここにあげて、あとは賢明なあなたの解釈に任せませう」

― 尾崎放哉 ―

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




風10

 

コスモスの花ゆれて来て唇に

― 星野立子 ―

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




風9

 

雲のゆくえへ 

 

庭にたちいでただひとり

秋海棠(しゅうかいどう)の花を分け

空ながむれば行く雲の

更(さら)に秘密を闡(ひら)くかな

 

               ― 島崎藤村 ―

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




風8

 

どこまでもトウモロコシ畑のつづく風景の、ひろびろとのびやかな感じ。トウモロコシ畑のあいだの道を走っていると、そのひろがりののびやかな感じに、五感がゆっくりとつつまれてゆく。トウモロコシは、どんなトウモロコシをとっても、まったくおなじものは一つとしてありません。みんなちがうのです。ひたすらトウモロコシとつきあって生涯をおくった、バーバラ・マクリントックという分子生物学者の言葉をおもいだす。

 一本のトウモロコシの固有な性質から一粒の実の性質へ、さらに一本の染色体の性質へ、トウモロコシという一本の植物を全体として成り立たせている原理を究めていって、とうとう「動く遺伝子」の秘密を突きとめて、81歳でノーベル賞にきまったときも、やはりたった一人で、トウモロコシ畑のなかにいた人だ。トウモロコシと心をかよいあわせた人、トウモロコシの一本一本の伝記が書ける人、とまでいわれた。

 自然は「自然という本」なのです、とトウモロコシ畑の分子生物学者はいった。その本を読むには、私たちは時間をかけてものを見なければなりません。そして、じぶんの扱ってる対象が語りかけるところに耳をかたむける辛抱づよさを、また、対象のほうからわれわれを訪れるようにさせる開かれた心をもたなければなりません。人がどんなことを考えついてみたところで、それはもともと自然のなかに存在していたものなのです。‥‥‥

「自然という本」を読むこと。自然のなかに書きこまれた文章を読むこと。トウモロコシ畑の分子生物学者のそうした態度、ものの感受のしかた、考えかたのすすめかたをささえたのは、科学者自身との対話にもとづく伝記によれば、「事物の全一性に対する自覚」なしには、科学は自然という世界を理解することができないだろうという深い確信だ。物事のあいだに線を引く理由はどこにもありません、と彼女はいった。

 根本的にいって、すべてのものは一つなのです。ところが、私たちがすることといえば、細分化をおこなうことなのです。しかし、分けられたものは真実とはちがいます。私たちの物を見る見かたは人為的で、実際にはあるはずのない細分化に満ちています。仮定を立ててはならないことに、私たちは仮定を立ててきました。おおきな危険はドグマから生まれます、と彼女はいった。モデルが現実ととりちがえられてしまうのです。そうして私たちは、細分化された科学の技術をもちいて、今日じぶんたちがその一部である世界をおそろしく損ないながら、それでも平然としているのです。...

長田弘「詩は友人を数える方法」(講談社)

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




風7

 

空は天使のようにきれいだ
青空と波とは一体となる
ぼくは出かける 光がぼくを傷つけたなら
苔のうえで息絶えよう

ランボー・五月の旗

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




風6

 

波をジャブジャブジャブジャブかきわけて
(ジャブ ジャブ ジャブ)
雲をスイスイスイスイおいぬいて
(スイ スイ スイ)
ひょうたん島は どこへ行く
僕らをのせて どこへ行く

丸い地球の 水平線に
何かがきっと 待っている
苦しいことも あるだろさ
悲しいことも あるだろさ
だけど 僕らは くじけない
泣くのはいやだ 笑っちゃおう

すすめ ひょっこりひょうたん島
ひょっこりひょうたん島
ひょっこりひょうたん島

「ひょっこりひょうたん島」
作詞:井上ひさし/山元護久 作・編曲:宇野誠一郎

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




風5

 



ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

......

                      さとうきび畑(作詞/作曲:寺島尚彦)

 

 

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




風4

 

罪障の山にはいつとなく煩悩の雲あつくして、仏日のひかり眼(まなこ)にさへぎらず。生死の海には常時に無常の風烈しくして、真如の月やどる事なし。生を受るにしたがひて苦しみにくるしみをかさね、死に帰するにしたがひて闇(くら)きよりくらき道におもむく

(一遍上人語録)

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




風3

 

草取り

 

腰をのばしていっぷくすると

チーチーぜみが山でなく

たった二反の山田でも

ヒエやコナギや牛の毛や

十本の指は

草とりに

すくなすぎる

小さすぎる

もうよっぽどきたかとふりむけば

まだ五六歩しかとってない

 

植えたからには

つくらにゃならぬ

つくるからには

世間なみ

そんな見栄と二人づれ

腰がうずく草とりを

米つくりのつらさを

きいてくれる

誰もおらない

静かな山ん中の棚田

せみがなく

                   ( 浅田 二三男 詩集「夜更けのはなし」 )

 

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




風2

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 

今日から再開です。

 

唄を忘れた金糸雀は 後の山に棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた金糸雀は 背戸の小藪に埋けましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた金糸雀は 柳の鞭でぶちましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた金糸雀は 象牙の船に銀の櫂
月夜の海に浮かべれば 忘れた唄をおもいだす

                          (西条八十)

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




晨18

 

明日から一週間ほど出かけますのでブログの更新はしばらく

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




晨17

 

 「おまえはどういう神話を生きているのか」と自分に本気で問わずにはいられなくなっていた。人間が完全に神話から解放されたことなどこれまでにあっただろうか? …つまりこどもに昔の神話を教えずにおくことならできようが、神話への欲求を、まして神話を生みだす能力を、こどもから奪いとることはできないのである。

 われわれの精神は、古代的な衝動の向う方向からはもはや離れたようにみえるが、通りすぎてきた発達途上の目印をいろいろとなおまだ身に帯び、少なくとも夢と空想のなかでは太古のままのことをくり返している。

 夢や空想はじつは本能にもとづく未発達なあるいは古代的な思考形式である。

C.G.ユング『変容の象徴 精神分裂病の前駆症状』

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




« 前ページ