ギャラリー貴祥庵 ―《貴志 理の 日々の思いついたままのイメージ絵画、心に残る言葉、歳時の記録を綴る》―
表現の可能性を模索しつつ美術家貴志理の日々のイメージ絵日記。柔らかな調和の取れた色調と奥深く記憶された感性との対話。
風11
風8
どこまでもトウモロコシ畑のつづく風景の、ひろびろとのびやかな感じ。トウモロコシ畑のあいだの道を走っていると、そのひろがりののびやかな感じに、五感がゆっくりとつつまれてゆく。トウモロコシは、どんなトウモロコシをとっても、まったくおなじものは一つとしてありません。みんなちがうのです。ひたすらトウモロコシとつきあって生涯をおくった、バーバラ・マクリントックという分子生物学者の言葉をおもいだす。
一本のトウモロコシの固有な性質から一粒の実の性質へ、さらに一本の染色体の性質へ、トウモロコシという一本の植物を全体として成り立たせている原理を究めていって、とうとう「動く遺伝子」の秘密を突きとめて、81歳でノーベル賞にきまったときも、やはりたった一人で、トウモロコシ畑のなかにいた人だ。トウモロコシと心をかよいあわせた人、トウモロコシの一本一本の伝記が書ける人、とまでいわれた。
自然は「自然という本」なのです、とトウモロコシ畑の分子生物学者はいった。その本を読むには、私たちは時間をかけてものを見なければなりません。そして、じぶんの扱ってる対象が語りかけるところに耳をかたむける辛抱づよさを、また、対象のほうからわれわれを訪れるようにさせる開かれた心をもたなければなりません。人がどんなことを考えついてみたところで、それはもともと自然のなかに存在していたものなのです。‥‥‥
「自然という本」を読むこと。自然のなかに書きこまれた文章を読むこと。トウモロコシ畑の分子生物学者のそうした態度、ものの感受のしかた、考えかたのすすめかたをささえたのは、科学者自身との対話にもとづく伝記によれば、「事物の全一性に対する自覚」なしには、科学は自然という世界を理解することができないだろうという深い確信だ。物事のあいだに線を引く理由はどこにもありません、と彼女はいった。
根本的にいって、すべてのものは一つなのです。ところが、私たちがすることといえば、細分化をおこなうことなのです。しかし、分けられたものは真実とはちがいます。私たちの物を見る見かたは人為的で、実際にはあるはずのない細分化に満ちています。仮定を立ててはならないことに、私たちは仮定を立ててきました。おおきな危険はドグマから生まれます、と彼女はいった。モデルが現実ととりちがえられてしまうのです。そうして私たちは、細分化された科学の技術をもちいて、今日じぶんたちがその一部である世界をおそろしく損ないながら、それでも平然としているのです。...
風6
風4
風3
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晨17
「おまえはどういう神話を生きているのか」と自分に本気で問わずにはいられなくなっていた。人間が完全に神話から解放されたことなどこれまでにあっただろうか? …つまりこどもに昔の神話を教えずにおくことならできようが、神話への欲求を、まして神話を生みだす能力を、こどもから奪いとることはできないのである。
われわれの精神は、古代的な衝動の向う方向からはもはや離れたようにみえるが、通りすぎてきた発達途上の目印をいろいろとなおまだ身に帯び、少なくとも夢と空想のなかでは太古のままのことをくり返している。
夢や空想はじつは本能にもとづく未発達なあるいは古代的な思考形式である。
C.G.ユング『変容の象徴 精神分裂病の前駆症状』
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