西宗寺
『西宗寺由来
当寺は、浄土真宗蓮如上人御旧跡の随一。 蓮如上人に帰依し 山科本願寺の寺地を寄進せる海老名五郎左衛門信忠は、法名浄乗と賜わる。
文明十三年(一四八一) 十月十八日、御絵像の 「方便法身尊形」を下され、山科本願寺諸堂と共に建立なされた西宗寺の開基となる。
明応七年大阪にて上人御不例なり。翌年二月山科本願寺へ御登里を願われ、浄乘の子祐信に その用意仰せつけたまう。山科へ御つきあり。 御影堂の御真影に暇乞いなさり、祐信に御尊影 「山科蓮如上人御形見の御影」を与えたまう。
明応八年(一四九九)三月二十五日、上人恩徳のふかかりし、この地で浄土に遠帰したまう。 かなしきかなや日月西雲にかくれ法灯もゆらぐ。
西宗寺縁起より』 (説明書きより)
西宗寺は分かりにくい場所にある。山科盆地を横断する国道1号線の北側の住宅街に建っている。交通機関を利用する場合には、地下鉄東西線東野駅から西へ約1km。
由緒については上記の石碑の碑文にある通りだ。浄土真宗の僧である蓮如ゆかりのお寺であり、室町時代に山科本願寺の堂宇の建設とともに創建された。
蓮如の85年に及ぶ生涯はまさに山あり谷ありで、波乱万丈の長き人生を歩んでいる。途中には比叡山の延暦寺の僧兵たちにより本願寺は焼き討ちにあい、蓮如は逃亡。そして再建。あるいはまた加賀の一向一揆などで大きな影響を被るこのようなの日々を記せばきりがないほどだ。大阪へ逃れていた蓮如は山科へ戻ることを切望し、この地へ戻ってくる。最後はある意味、隠居生活のような日々を送りつつ、ここでその生涯を閉じる。
山門の横に大きな石柱が立っており、そこには「蓮如上人御往生之地」 とある。当時はこの周辺は、農耕作地として開かれたのどかな地であったのではないかと思う。北の方には蓮如のゆかりの場である山科本願寺が見えていたことだろう。
『西宗寺由来
当寺は、浄土真宗蓮如上人御旧跡の随一。 蓮如上人に帰依し 山科本願寺の寺地を寄進せる海老名五郎左衛門信忠は、法名浄乗と賜わる。
文明十三年(一四八一) 十月十八日、御絵像の 「方便法身尊形」を下され、山科本願寺諸堂と共に建立なされた西宗寺の開基となる。
明応七年大阪にて上人御不例なり。翌年二月山科本願寺へ御登里を願われ、浄乘の子祐信に その用意仰せつけたまう。山科へ御つきあり。 御影堂の御真影に暇乞いなさり、祐信に御尊影 「山科蓮如上人御形見の御影」を与えたまう。
明応八年(一四九九)三月二十五日、上人恩徳のふかかりし、この地で浄土に遠帰したまう。 かなしきかなや日月西雲にかくれ法灯もゆらぐ。
西宗寺縁起より』 (説明書きより)
西宗寺は分かりにくい場所にある。山科盆地を横断する国道1号線の北側の住宅街に建っている。交通機関を利用する場合には、地下鉄東西線東野駅から西へ約1km。
由緒については上記の石碑の碑文にある通りだ。浄土真宗の僧である蓮如ゆかりのお寺であり、室町時代に山科本願寺の堂宇の建設とともに創建された。
蓮如の85年に及ぶ生涯はまさに山あり谷ありで、波乱万丈の長き人生を歩んでいる。途中には比叡山の延暦寺の僧兵たちにより本願寺は焼き討ちにあい、蓮如は逃亡。そして再建。あるいはまた加賀の一向一揆などで大きな影響を被るこのようなの日々を記せばきりがないほどだ。大阪へ逃れていた蓮如は山科へ戻ることを切望し、この地へ戻ってくる。最後はある意味、隠居生活のような日々を送りつつ、ここでその生涯を閉じる。
山門の横に大きな石柱が立っており、そこには「蓮如上人御往生之地」 とある。当時はこの周辺は、農耕作地として開かれたのどかな地であったのではないかと思う。北の方には蓮如のゆかりの場である山科本願寺が見えていたことだろう。
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