先日用事があったついでに、京都市の左京区高野に行ってきた。ここは小学校中学年から就職後数年間を含む20数年間を過ごした場所だ。その後、京都市外に転居してここに行くことは少なくなったが、それでもこの付近を何度も何度も通っている。
小学校中学校時代の通学路の近くに「赤の宮神社」と呼んでいた小さな神社があった。帰りにここで遊んだり、或いは何かの祭で屋台が出ていて、金魚すくいなどをした記憶がある。当時の記憶からは、赤の宮神社というのは、特にこれといったものもないような、ごく平凡な公園の様なイメージしか残っていなかった。今回たまたまこの近くを通るということで寄ってみた。
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境内に車で入ると、なんと境内全体の半分を占めるほどの駐車場があった。月極駐車場だが、無論昔にはなかった。やはり経済的な課題があるんだろう。その端っこに車を停めて撮影に行く。何分にも半分が駐車場なので、境内そのものがずいぶん狭くなってしまっている。小さな子たちが、虫取り網を持って蝉を追っかけてキャーキャー言いながら楽しそうに走り回っていた。
正面に舞殿があり、その奥に拝殿と本殿がある。江戸期の再建で比較的新しい。その横には清水が出るということで、これを汲みに来る人が多いという。ちょうどこの時にも大きなペットボトルを持って、水を汲んでいるおばさんがいた。かなり由緒のある湧き水で、京都の水百選にも選ばれるているとのこと。
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本殿の横には赤い鳥居が数10本密集して並んでいる。ちょうど伏見稲荷の赤鳥居が並んでいるその小規模型だ 。一番奥まで進むと小さなお稲荷さんがあった 。当然そこには狐がどんと控えていた。この神社はどのような歴史を持っているのか。
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赤の宮神社というのは謂わば通称で、正式には賀茂波爾神社(かもはに、又は、かものはにのじんじゃ) と言う。
この名前から容易に想像がつくように、下鴨神社、正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)との関係が思いつくだろう。実際、下鴨神社の境外摂社となる。
下鴨神社の歴史はかなり古く、崇神天皇の頃だと考えられているが、第一、崇神天皇そのものが実在したのかどうかが分かっていないし、仮にそうだとしても大体3から4世紀頃の創建ということになる。時代で言えば古墳時代ということだ。
そして赤の宮神社は当然その後ということになるが、由緒や沿革などはよく分かっていないという。しかし平安時代の『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927年)中に「愛宕郡 二十一座 大八座 小十三座」の「賀茂波爾神社」の記名があり、この神社のことだと考えられる。とすれば平安時代のはじめ頃には既にあったものと思われる。
赤の神社は近くを流れる高野川との関連もあるのではないかと考えられている。
大昔、高野川は埴川(はにがわ)と称され、今より東側を流れていたらしい。しばしば枯渇したり、或いは水が溢れて洪水を起こしたりと、かなり荒れた川だったらしい。後年、川の流れが変えられて、遅くとも平安時代には今現在の場所を流れていたらしい。名前も埴川から高野村を流れるということで、いつしか高野川と呼ばれるようになったと考えられている。
あくまでもこれらはひとつの説であって、確定的なものではない。古い呼び方の埴川だが、「埴」は土のことを表し、かつて祭事用土器を作る集団がこの辺りに居住していたのではないかと思われる。そこからこの辺りの守り神として賀茂波爾神社という名前の「波爾」(はに)の部分が付いたのではないかとも考えられる。
いかんせん古文書とか社伝等きちんとした歴史的な経緯の記録が残っておらず、あくまでも様々な学説の中の1つであるということ。でもそれなりに呼称の部分から追求していくと、何か説得力みたいなものを感じる。ずっと後になって賀茂波爾神社が衰退し、伏見稲荷から「赤の宮稲荷」がこちらへ呼ばれて、小さな稲荷社が設置された。稲荷社が赤く塗られているところから、通称「赤の宮神社」と呼ばれたという説がある。
一方それとは別に、先の祭事用土器を作るための粘土質の土がこの辺によく産出し、それが赤土であったために、赤の宮と呼ばれるようになったという説もある。どれもこれももっともらしくてなかなか面白い説だと思う。
詳しくは知らないが、下鴨神社の祭りである「葵祭」とも関係があり、この時期には赤の宮神社の舞殿で舞いが演じられるとも聞いた。また葵祭りの紋章である葵が、赤の宮神社にも少し形を変えて使用されている。
こうしていろいろと調べてみると、自分が子供の頃に育った地域にかなりな由緒があると思われる神社があったのだと、今更ながら感心させられた。
もうこの赤の宮神社に行くことはないと思うが、自分なりにこうして写真と文にして残しておくのも意味のあることだと思っている。
全く同じ感想です。葵祭のことを調べてる中でこの記事にたどりつきました。立派な神社だったことに驚いてます。