『伊東甲子太郎外数名殉難の地
伊東甲子太郎は常陸(茨城県)の出身で、学問もでき、剣は北辰一刀流の名手であった。
元治元年(一八六四)に門弟ら七人を率いて新選組に入隊し、参謀として重視された。
しかし、尊皇派であった伊東は、次第に隊長近藤勇と相反するようになり、慶應三年(一八六七)三月に同士十五人とともに新選組を脱退して御陵衛士と なり、高台寺月真院を屯所とした。その後、薩摩藩の援助を受け、盛んに討幕を説いた。
しかし、新選組との対立は深く、同年十一月近藤勇らは、伊東を招いて酒をふるまい、酔った伊東をその帰路、この地で刺殺した。
この知らせを聞いた伊東一派は、直ちに駆け付けたが、待ち伏せしていた新選組数十名の隊士に襲われ、三名が斬られた。
世にこれを油小路七条の変という。
京都市』 (駒札より)
本光寺はJR京都駅の北西の方角、すぐのところにある。日蓮宗のお寺だが創建の詳細についてはよくわかっていない。江戸時代の初期に僧、日尭によって創建されたと伝えられている。周囲は京都駅近くということもあって、ビルが建ち並ぶ中のわずかな住宅や商店が並ぶような油小路通り沿いになる。門の幅は狭く奥行きが少し長いものの、全体として敷地は狭くて境内そのものも狭い方となる。ちょうど紫陽花が花開いていた。
このお寺が有名なのは駒札にもある通り、「油小路七条の変」という事件による。幕末に徳川の政権もかなり弱っており、幕府軍とそれを倒すべく尊王攘夷・勤王の志士・佐幕派たちによる争いが、京都を中心に各地で勃発するようになる。そのような不安定な状態の京都において尊皇攘夷を見張る新撰組が結成され、伊東甲子太郎が近藤勇の考え方に賛同し入隊する。しばらくは参謀役として活躍したものの、次第に考え方の食い違いにより伊東は新撰組を脱退。このことを新選組は許さず、本光寺近くの路上で伊東を刺殺。この連絡を受けた伊東たちの仲間も駆けつけたものの新選組の襲撃に あった。
伊東甲子太郎を幕末期の新撰組の一員として取り上げているような本は、あまりないだろう。また学校の教科書にも、それが高等学校のものであっても取り上げているようなものはないと思われる。そういった意味では尊王攘夷及び佐幕派の武士たちとの争いにとって、小さな一つの事件だったのかもしれない。したがって伊東やこの事件の名前を知ってる人は少数派だろう。だが幕末期の動乱において詳細な研究をしている人々にとってみれば、こうした事件の与えた影響も無視できないものとして捉えられているのではないかと思う。京都は都があっただけに、幕末期の様々な出来事に関わる石碑などがあちこちにある。また戦いの中で若くして命を失った勤王の志士たちの墓もあちこちのお寺にある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます