『御神徳由緒
「古事記」神代の上巻に伊邪那岐の大神は己の罪、穢れを祓うために阿波岐原において禊祓いを行ったゆえんで、祓戸の大神として古來より神社の祭典、諸祈願祭には「祓詞」を奏上し、幣で左、右、左と祓うことによって萬物を清め罪穢れを除き去り、厳粛に祭典が執行される。
大神は禊をして「国生」と多くの神々を生成され、その中で一番貴い御子神が「天照大御神」である。
伊邪那岐の大神(男)伊邪那美の大神(女)は夫婦として初めて、大婦の正道を定める。
御神徳
「延命長寿」「夫婦円滿」「家内安全」
産霊の祖神
「縁結び」「子授り」「安産」
白石神社』 (駒札より)
『白石神社由緒
当社の御祭神 伊ざなぎの命
伊ざなみの命
その創立は古く
大同年間(八〇六年~八〇九年)に
朝廷より村中に建立勧請
されたと伝えられている。
境内に大きな白石があることから
白石大明神として、社名になった。
この巨石に対する信仰が
神社の始まりと云われている。
白石神社』 (駒札より)
『白石神社
緑豊かな山々と清らかな渓流に恵まれた小山の里に鎮座する当神社は、伊邪那岐命に伊邪那美命の夫婦二柱を祭神とする。
当神社の神域としての起こりは古代の自然崇拝から、社殿の横にある巨岩を神が降臨した盤座(いわくら)として祀ったことが始まりであると言われている。
創建は、宝永二年(一七〇五年)の比留田家文書によると、平安時代初期の大同年間(八〇六年~八一〇年)に朝廷から村中に勧請されたとされる。また、同文書編纂時期には、社殿が檜皮葺、拝殿が藁葺きであったと記されている。現在の社殿は平成九年二月に改築されたものである。
御神体である巨岩(幅九メートル、高さ四メートル、奥行三メートル)の上部には石を割り取るために彫られた矢穴列痕が三条ある。これは徳川家康が伏見城を再建するために築城石として切り出そうとしたのではないかと推測される。
境内にある樹齢三百年を超える街神木の大杉は、平成十三年に「京都市区民の誇りの木」に選定されている。
京都市』 (駒札より)
山科区にある白石神社へ行ってきた。
名神高速道路に沿って細い道を東へ向かうと、もう間もなく京都東インターチェンジというところを、山間の集落があり、その中の細い道を縦断していく。初めてくると細い道が交錯しているので少しわかりにくい。
ようやく白石神社への入り口へ到達。近くの空き地に車を駐めてあとは歩いて登っていく。とはいっても大した距離でもなくすぐだ。高い樹木に囲まれた鬱蒼とした森林の中を歩くことになり、ほどなく石段の上方に神社が見えてきた。集落からこんなに近いのかと逆に意外だった。
由緒については上記の通り。丁寧に三つもの駒札が立てられ、説明がなされていた。この辺りは「大石」と言う地区名があり、名前の通り、古代から多くの巨石があちこちに姿を見せていたようだ。当時においてはこういうものも信仰の対象となり、人々はご利益を求めて祠を建て、祀るようになる。
祭神は駒札にある通りだが、いずれも古事記や日本書紀に出てくる神話の神夫婦である。この二人の物語はその中で描かれているが、あくまでも神話は神話。しかし、創作話であっても、このような名前の神を当時の人々は、どのように思って創り出したのか。そういった点には興味がある。
場所といい周囲の環境といい、いかにも鬱蒼とした森の中の神秘的な神社という感じだ。本殿のすぐ横に古代から祀られてきた巨大な石が鎮座している。周囲に縄が巻かれ、今でも大切な信仰の対象であることを示している。
かつては巨石があるということで、ここから城郭建築のために、石垣用の巨石が切り出されたという話もある。この辺の話については、さらにずっと奥の方にある、牛尾観音に行った際に改めて書きたいと思っている。
さまざまな謂われを持つ神社というものは、その祭神も含めて本当に興味深い対象であると言える。古代より日本人が、天変地異や疫病流行など、自分たちの手には負えないことに対する助けを求めて、このような信仰にいたるということ自体が興味深い。
しかも近世以降、科学技術の進展とともに「信仰」というものに対する様々な賛否の意見が交わされる中でも、日本の神社というのは実にしぶとく全国に残されており、未だに参拝に訪れ、お参りしている人の姿を見るたびに、日本人の精神文化の、どういう表現をすればいいかわからないが、奥の深さというものを感じざるを得ない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます