『光明寺
西山(せいざん)浄土宗総本山。建久九年(一一九八)、法然上人の弟子・蓮生法師(熊谷次郎直実)が、師のすすめによってこの地に草庵を開いたのが始まりです。
その後、法然上人の高弟である證空上人とその弟子達に受け継がれてきました。
光明寺の周辺、粟生広谷の地は、法然上人が初めて念仏の教えを説いたところです。総門の前に「浄土門根元地」の石碑が建てられているのは、正親町天皇より「法然上人ノ遺廟、光明寺ハ浄土門根元之地と謂イツベシ」という綸旨を賜ったことに由来しています。
総門をくぐり、ゆるやかな石段を上がると宝暦三年(一七八三)に建てられた御影堂が見えてきます。
この御影堂には建永の法難で四国へ流罪と決まった法然上人が弟子の願いに応えて自らお作りになったといわれる「張り子の御影」が祀られています。
また、その背後の丘には法然上人の御遺骨を納めた御本廟(非公開)があります。
多くの寺宝には木造千手観音立像や絹本着色ニ河白道図(鎌倉期:東京国立博物館勧告保存)などの国指定重要文化財も含まれています。
境内には樹齢一五〇年を超える楓の木々がたくさんあり西山の紅葉の名所として有名です。』
(「長岡京市の史跡紹介」説明書きより)
『解説板より
当寺は西山浄土宗の本山で寺伝によれば、建久九年(一一九八)に蓮生法師(熊谷次郎直実)により創立され、法然上人を開山第一世としています。
境内は広く、洛西一の伽藍を誇り、主要な建物は山内に点在して廊でつながれています。
応仁、元亀、天正の兵火にあい、江戸時代には享保十九年(一七三四)の火災により焼失し、大半の建物はそれ以後の建立です。
總門をくぐり美しい石畳の参道を登ると、正面に壮大な御影堂が、その右奥には阿弥陀堂があります。
御影堂は宝暦三年(一七五三)の再建で、派手な装飾はないが全体的構成の精美性を意匠の主眼としたものです。
阿弥陀堂は寛政十一年(一七九九)の建立で、本堂より少し華やかな造りになっています。
御影堂の後方にある御廟は明暦二年(一六五六)の再建で禅宗様を基調とした華麗な造りです。
軒下回りの組物には多くの彫刻が施され、廟内の板壁は飛天や雲、蓮の花などが極彩色で描かれています。
その前にある拝殿は山内では最も古い承応二年(一六五三)の建築です。
御影堂の左下には、元文元年(一七三六)の釈迦堂、勅使門があり、庫裏、講堂へと続きます。
天保四年(一八三三)に建立された講堂は食堂とともに浄土宗寺院でも檀林(仏教の学問所)に関する類例の少ない遺構群であります。
平成五年二月 長岡京市教育委員会』
光明寺は長岡京市内の北部にある。その背後は低い山地となっており、お寺そのものの境内はその麓から少し登りになっている状態だ。もともと光明寺は「紅葉の名所」ということで知られており、シーズンには広い境内、参道回りとあらゆる場所に真っ赤な楓や紅葉が広がり、来るものを圧倒する。あまりにも人が多いので、お寺本来の駐車場では全く足りずに周辺の空き地が臨時駐車場となって、大型観光バスなども次々にやってくる状態となる。余りもの見応えに私自身も紅葉シーズンにはほぼ毎年のように訪れている。阿弥陀堂などの巨大な建造物を背景に撮影すると、なんとなく写真撮影の腕が上がったような錯覚に陥るので、大変な枚数を撮ることになる。
ガイドブックやテレビなどで紹介されることもあるので、とにかく紅葉が結びついてそれ以外の情景が浮かばなくなってしまうようだ。しかしふと考えた時に、紅葉の名所は同時に桜の名所であるケースも比較的多いということを、あちこちのお寺や神社を訪れるにしたがって認識するようになり、ひょっとして光明寺も案外桜の木が多いのではないかと想像した。ネットの写真で調べてみると、確かに光明寺の境内に桜が写っているシーンの写真が掲載されていた。
というわけで大いに期待しつつ、光明寺を桜撮影という目的で訪れることにした。
光明寺には何度も訪れているので、臨時駐車場があるのかと思いきや、やはり桜シーズンはマイナーな扱いなんだろうか。本来のお寺の駐車場しかない。しかも比較的空いている。こうして門前の駐車スペースに車を置いて、総門から参道を上っていくことにする。特に文化財を公開するというものでもないので、無料でそのまま入ることができる。紅葉シーズンは確か有料だったように思う。
参道の両側に、密集してはいないが所々に桜の木が満開の花を咲かせて出迎えてくれる。緑の合間に白い桜の色が覗いて、なかなか良いコントラストだ。境内に到着。けっこう人が来ている。全体を見回すと予想以上に桜の木が多い。しかも満開状態となって、なかなか見事と言える。本堂などの建物を一緒に重ねて撮影していく。数は少ないが桃色の花も見られる。天気もちょうどよく、なかなか絵になるような写真を撮ることができる。今までは紅葉にだけ意識がなかったが、初めて光明寺の桜を見ると非常に新鮮。こういうところを今まで見逃していたというのはある意味残念な気がする。
浄土宗の総本山にあたるので、法然との関わりが強いお寺となる。というわけでお寺そのものは、平安時代終わりから鎌倉初期にかけての創建となる。京都のお寺などでは例外なく応仁の乱などの戦火により、堂宇が焼失しその後の再建となっている。考えてみれば本当にもったいないものだ。天明の大火というのもあるが、応仁の乱がなければ京都には国宝の建造物がとんでもない数あったことになる。まぁこんなこと言っても意味がないが。
こうして十分満足できるほど撮影をして、光明寺を後にした。桜の拝見と撮影。十二分に楽しむことができ、非常に良かったと言える。