切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

大嘗大神~両讃寺 京都府京田辺市

2021-06-23 23:38:25 | 撮影



大嘗大神

 

『大嘗会田跡(だいじょうえ)
  京田辺市大住大嘗料
奈良時代には大住地域に九州南部の大隅隼人が 移り住み、朝廷の儀式に奉仕し、特に大嘗会には風俗舞(隼人舞)を演じていた。
今に残る「大嘗料」という地名は、往時の隼人司領であった大嘗会田の名残である。
室町時代書かれた、隼人司の中原康富の『康富記』康正元年(一四五五)十月一七日の条に
「・・・大住内隼人領大嘗会○○田地一町二反有・・・」とあって、天皇即位の際行われる、大嘗会のための領地として、朝廷に属していた田地があったことがわかる。
大嘗会田がいつまで続いていたか、定かでないが、明治初年まで大住の人たちが宮中に土地の果物を献上していたことが、古文書に記されている。
  京田辺市教育委員会
  京田辺市文化財保護委員会』
  (駒札より) (○は判読不能)

  

 大嘗大神の場所は周囲を田畑に囲まれ、農家が点在するような場所だ。現在ではそのすぐ北側に、新名神高速道路の建設工事が真っ最中であり、完成すれば風景は大きく変わるだろう。最寄りの駅はJR学研都市線の大住駅。ここから北へ徒歩約30分、2kmの距離だ。
 大嘗大神に着くと意外なほど小さな神社であり、敷地も非常に狭い。中央に小さな祠があり、その脇には大嘗会田跡と彫られた石柱が立っている。大まかな由緒は駒札の通りだが、大嘗会というのは大嘗祭のことであり、現在では一般に新嘗祭とも呼ばれる。新しく天皇が即位した時に、五穀豊穣・国家安寧を祈って催される宮中の儀式であり、神事とされる。
 上記には奈良時代に大隅隼人が移り住んだとある。彼らがもたらした隼人舞が宮中に受け入れられ、彼らにはこの土地が正式に与えられた。その伝統は延々と続き明治になるまで 続いたと言う。隼人舞そのものは今現在でもこの地で毎年行われている。
 大嘗祭の起源は弥生時代に始まると言われており、ごく普通に考えれば、人々は農耕をして生産物を食し、子孫を残して生きていくというのが、ごく当たり前の必要な生活形態であった。そこに大王が誕生し、次第に宮中の組織が形成され、階級社会となっていく。まだまだ原始的な社会においては、自然の形態というのは 人々の生活に幸をもたらすものとして崇められ、いつしか信仰の対象ともなっていく。それだけに自然の災禍などに対しては、安全祈願や五穀豊穣と共に祈る祭祀が、次第に整った形で各地で行われるようになる。そういった意味では、飛鳥時代あたりになると、隼人舞などと言う祭祀の踊りというのは、神と結びついて尊いものとして位置づけられる。
 そういった点から考えると、この辺りの土地というのは極めて重要な意味を持つ土地であったはずだ。この土地の農耕民たちは、宮中から与えられた農耕地に尊敬の念を抱き、農耕生産が無事に行われるように祈りの対象として、祠を建てたのが始まりだろうと考えられる。そこから考えると随分こじんまりした祠ということで、 何か今一つ合点がいかないような感じがしないでもない。かつて昔はもう少し大きいものだったのかもしれない。そのような歴史的な背景を頭に浮かべながら、この祠と周囲の水田を眺めていると、古代人の積極的な活動が目に浮かぶようだ。
  


両讃寺



『両讃寺
   京田辺市大住八河原九番地
浄土宗に属し、発迎山と号する。
慶長六年(一六〇一)創建、万延元年(一八六〇)の再建とされる。
寺伝によると、時の領主大住家友はこの地の城山に住まいし、西村の阿陀堂、東村の釈迦堂を信仰したが、織田信長に敗れ、両堂も荒廃した。その際橋本甚太夫と刀根源太夫の二人は堂宇を再建、二尊を遷し、願故上人に住持を依頼、そのときに発迎山両讃寺と号したという。
阿弥陀、釈迦の二尊を安置したので両讃寺と名付けたのであろう。現在は阿弥陀如来立像だけである。
○薬師如来立像
月読神社の神宮寺だった福養寺にあった像。平安時代前期(九世紀)の素木の一木造の像で、古くから 雨乞いに霊験があるという。
  京田辺市教育委員会
  京田辺市文化財保護委員会』
   (駒札より)

   

『石造十一面観音
 この十一面観音像は、ほぼ等身大で霊験あらたかといわれている。
 むかし、身重の人が信仰すると、女の 子の場合は美人、男の子の場合は美男子、いずれも賢い子が生まれるといわれ、今も遠方から参詣する人があるという。この観音像及び御堂の建造年代は明らかでないが、天明年間 (一七八一〜一七八九)、有志の人々が集まり観音講を組織しまつったと伝えられる。
  京田辺市教育委員会
  京田辺市文化財保護委員会』
   (駒札より)

 

 両讃寺は、 JR学研都市線大住駅から北へ約2 km。 周囲は水田及び農家などが多い。
 由緒については上記の駒札の通りだ。元々はこの土地一帯は仏教の聖地であり、大勢の修業者が訪れ日々研鑽に努めたと言うが、この大住には阿弥陀堂と釈迦堂と言う二つのお堂があり、大住家友という領主がこれを篤く信仰していた。信長に敗れた後、二つのお堂は戦火に焼け衰退した。まもなく江戸時代になろうという時に、阿弥陀如来と釈迦如来を一緒に祀るお寺が創建され、それが両讃寺となった。
 これは阿弥陀と釈迦の二尊の名前から来ていると言われている。これらの仏像は平安時代のものと言われており、本来ならば文化財指定にされていても当然というものだろうが、今の段階では無指定だ。
 お寺そのものは境内本堂ともに立派なもので、非常に落ち着いた雰囲気があり、草木もよく整備されている。近くの大嘗大神とともに訪れるのがいいだろうと思う。

   
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