二条城から四条大宮のあいだにある3箇所の寺社を順に回ってきた。何れもそれ相応の歴史的由緒を持っており、内容を詳しく書き始めればキリがないほどなので、基本的な内容に留めながらなるべく短い文章で紹介しようと思う。
高松神明神社
『御祭神は天照大御神・八幡大神・春日大神。
源高明(九一四~九八二)の邸内に祀られていた鎮守社高松明神が始まり。当地は高松殿と称され、源高明は醍醐天皇の皇子、西宮左大臣と呼ばれた。「拾芥抄」という本には「姉小路北西洞院東高明親王家」と記されている。
高明の末娘明子は藤原道長と結婚し、当所に住して高松殿と称された。
その後、一一五五年には後白河天皇が当所で即位した。保元の乱(一一五六年)の際には後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らの軍勢がここに参集して、崇徳上皇方の白河北殿へ攻め込んだことは有名である。
その後、平治の乱(一一五九年)で高松殿は焼失するが、当社のみが残った。
境内には、地蔵尊、金比羅神社をはじめとする末社があったが、幕末の蛤御門の変による大火によりことごとく焼失した。
境内には一七九四年に紀州九度山の伽羅陀山真田庵に安置してあった真田幸村の念持仏を拝領してきた神明地蔵尊「幸村の知恵の地蔵尊」がある。地蔵堂の台石をさすり、子達の頭をなでると知恵を授かると信仰されている。
かつては宝性院という寺院と神社が一体で、高松神明宮宝性院という神宮寺であった。明治時代初めの神仏分離令により宝性院は廃寺となり、高松神明神社だけが残り現在に至る。』
(HP説明書きより)
『神明地蔵尊の縁起
神社の境内にお地蔵さんをお祀りすることはめったにありません。 「神明地蔵尊」はその例外で、大変珍しいといわれています。
永禄八年(一五六五)、このお宮は「高松神明宮宝性院」といい、 神官はいません。最初の社僧、宥玉法印(伝燈法師位法印大僧都 新玉)は山之内(右京区)からお入りになり、その後約三百年間、 明治元年の「神仏分離令」まで、社僧がお祀りをしていたのです。 「神明地蔵尊」は、寛政六年(一七九四)、「高松神明宮宝性院」 (真言宗東寺宝菩提院の末寺に属していた)の社僧が紀州九度山 の「真田庵」(高野山真言宗伽羅陀山善名称院)に毘沙門天と ともに安置されていた二体の地蔵尊のうちの一体を拝領して参り、 同年六月、神殿の東側に三間四面の地藏堂を建てました。
智将で知られる真田幸村の念持仏でありましたので、「幸村の知恵 の地蔵尊」としてお祀りしました。大変美しいお姿の半跏坐像の ありがたいお地蔵さんは、多くの参拝者から信仰され、活況ある 境内となりました。
約五〇年後の天保十一年(一八四〇)十月、東西二間南北三間半、 切妻破風の屋根の地蔵堂に建て替えました。元治元年(一八六四)、 七月、蛤御門の変により、当社も罹災しました。
境内の稻荷神社、不動明王、弘法大師、金比椎神社等と一体に地蔵堂も焼失しましたが、「神明地蔵尊」のみがご無事でありました。 明治になって神仏混淆が禁止され、宝性院は廃寺となり、高松神明神社だけが残りました。排仏の憂き目に会わなかった「神明地蔵尊」は、社務所内でずっとお祀りを続けていましたが、明治二十 六年(一八九三)、本殿の西側の現在地に地蔵堂を建てて、お祀りをするようになりました。
地蔵堂正面の台石をさすって、子達の頭をなでますと、智将辛村 にあやかり、知恵を授かる御徳がございます。地蔵尊にお供えを いただいた洗米と小豆を蓄えておいて、地蔵盆に、小豆粥としてお詣りのみなさまに供養したと伝えられています。
高松神明神社 宮司』 (説明書きより)
地下鉄烏丸御池駅から西へ少し歩いたところにある。
この神社の由緒については上の説明書きの通りだ。直接神社の由緒を書いた駒札はなかったが、高松殿跡や地蔵堂の由来の説明などがあちこちにある。高松殿は平安時代に造営されたものと考えられており、その鎮守社として伊勢から天照大神を勧請し祠を建てて神社として創建されたという。ご利益は開運厄除け。他に八幡大神、春日大神を祀っている。
保元の乱では、ここに源平の軍勢が集結し基地としたことはよく知られている事実だ。
また地蔵尊については本来、神社の境内に置かれることは極めて珍しく、ある意味非常に貴重な例となる。関ヶ原の戦いに敗れた真田幸村が、現和歌山の紀州に蟄居させられたことから、その念持仏をこの地蔵尊に祀って神社に置かれたものだと言う。
神社全体はやや細長い境内を用い、所狭しと鳥居や地蔵尊、本殿などがあって、いかにも平安時代に整備された京都の細い路地が縦横に交わる中の、狭い敷地に建てざるをえなかったことがよくわかる造りとなっている。
なお高松殿については消失して今現在ではその跡という史跡が残っているだけ。様々な歴史の舞台で登場する神社でもあり、一般的には名前はあまり知られていないが、重要な役割を果たしたところであるので、是非とも訪れるといいと思う。
中山神社
『中山神社
延暦十三年(七九四)に桓武天皇の勅命により建立されたと伝えられている。素戔嗚尊を主神とし、朝タ、內裏の門を守護するという櫛石窓神、豊石窓神の二神を合祀する社で、石神(岩上)神社ともいわれる。
嵯峨天皇の後院 (退位後の御所)冷泉院の鎮守社として崇められたと伝えられ、慶長七年(一六〇ニ)、二条城造営により現在地に移転したが、天明八年(一七八八)の火災にかかり、現在の社はその後再建されたといわれる。社名は、この地が鎌倉時代の内大臣中山忠親の邸跡に当たることに由来すると伝えられる。 京都市』
(駒札より)
中山神社は堀川通から西側へ路地を一本入ったところにある。縦横の路地は何れも一方通行なので車を停める所はない。大通りのコインパークなどに入れて後は歩かざるを得ない。
由緒については非常に短いものだが、京都市のものが立てられていた。この説明でほぼ十分くらいに表されていると思う。
創建の時期と沿革については諸説あって確定したものはないようだが、駒札にある説が最も有力だとされているようだ。
794年というのは平安遷都の年。新たに建設された平安京の守り神として設置された神社として位置づけられた。もちろん当初は内裏との位置関係から設置場所が決められたが、後年駒札にあるように、二条城の建設により少し南側へ移転したということのようだ。
ここもやはり細長い敷地に石鳥居や本殿などが密集しており、奥の扁額には「 岩上大明神」と記されていた。これは神社が面している細い路地が岩上通りというところから、地域の人からそう呼ばれてきたものが反映されているんだろう。
壬生寺
『壬生寺
鑑真和上ゆかりの律宗・壬生寺は、 正暦二年(九九一)創建された。本尊の廷命地蔵菩薩(重要文化財) をはじめとする多数の地蔵菩薩を祀っている。古来よりの地蔵信仰と共に、厄除・開運の寺としても知られ、二月の厄除け節分会は約九〇〇年もの歴史をもつ 行事である。境内には、塔頭の中院や壬生狂言の舞台である大念仏堂(重要文化財)、千体の石仏を安置した千体仏塔など八棟のお堂がある。また、列仙図屏風 (長谷川等伯筆・重要文化財)、室町時代の作を含む 一九〇点の壬生狂言の仮面や仏像などの寺宝を今に伝え、万万灯供養会などの年間法要や七〇〇年の伝統を持つ壬生狂言(重要無形民俗文化財)は、每年盛大に行われている。
当寺の境内は、新選組が大砲や剣術・馬術の訓練をした場所として有名であり、壬生塚には近藤勇の胸像、 芹沢鴨らの墓塔がある 。池田屋騒動があったとされる祇園祭宵山の七月一六日には、每年、慰霊供養祭が行われる。
また境内地の一部を活用して、保育園や老人ホームが開設され、地域福祉事業を進めている。 京都市』
(駒札より)
壬生寺は阪急京都線及び嵐電の四条大宮駅西側にある。
まだこのブログを始める前に訪れて写真を撮影している。もう5年くらい前だ。有名なお寺であり重要文化財なども所有し、大きなお寺として印象に残っている。今回はブログで紹介すべく久しぶりに訪れた。
境内が広く駐車場もあるので便利だ。ところが山門前に回って風格のある山門を撮影し、短い石橋を渡って境内に入る。その途端、かつて訪れた時の壬生寺の様子とはずいぶん違っているのにすぐ気が付いた。
境内がずいぶん狭くなっている。よく見ると境内奥北側の方に、かなり大きな老人ホームマンションが建っている。その手前には保育園が設置されている。この二つの施設で広かった印象のある境内はずいぶん狭く感じるようになっていた。このようなケースはお寺にしろ神社にしろ、比較的よく見られるケースではあるが、財政的な問題もあり、同時に社会貢献の立場から、駄目だというわけにはいかない。やはり前向きに受け止めざるを得ないということになる。
由緒については駒札の通り。ただ創建の経緯については諸説あって確定的なものはない。一応駒札にもあるように、渡来人の僧である鑑真和尚の創建というのが有力な説のようだ。平安時代中期の話。
この壬生寺では無形重要文化財の、「壬生狂言」と言う舞いが七百年前頃に始められ伝えられている。この壬生狂言を舞う舞台は国の重要文化財に指定されているが、どうも記憶が曖昧で、今回はその舞台の前に保育園があって、通常では舞台の側面しか見えないような状態になっていたように思う。もしそうであるならば、毎年行われる壬生狂言はどのようにして見ることになるんだろうか。もうひとつよくわからない。
また壬生寺は歴史の舞台にもよく登場する。新撰組やその関係者のお墓などが境内にあって供養されている。
しかも戦後に不信火によって、重要文化財の本堂が本尊と共に焼け落ちてしまうという災禍にもあっている。今の本堂はその後の再建であり、重要文化財の本尊は律宗の関係のお寺から迎えられたものだ。
外出自粛要請があったが、壬生寺にはそこそこ人が来ていた。境内が広いのでいわゆる密になるような場面は全くなかった。機会があれば壬生狂言を見たいとは思うものの、気がついたら終わっていた、というふうな有様なので、おそらくこれからも見ることなしに、あの世に行ってしまうだろう。
高松神明神社
『御祭神は天照大御神・八幡大神・春日大神。
源高明(九一四~九八二)の邸内に祀られていた鎮守社高松明神が始まり。当地は高松殿と称され、源高明は醍醐天皇の皇子、西宮左大臣と呼ばれた。「拾芥抄」という本には「姉小路北西洞院東高明親王家」と記されている。
高明の末娘明子は藤原道長と結婚し、当所に住して高松殿と称された。
その後、一一五五年には後白河天皇が当所で即位した。保元の乱(一一五六年)の際には後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らの軍勢がここに参集して、崇徳上皇方の白河北殿へ攻め込んだことは有名である。
その後、平治の乱(一一五九年)で高松殿は焼失するが、当社のみが残った。
境内には、地蔵尊、金比羅神社をはじめとする末社があったが、幕末の蛤御門の変による大火によりことごとく焼失した。
境内には一七九四年に紀州九度山の伽羅陀山真田庵に安置してあった真田幸村の念持仏を拝領してきた神明地蔵尊「幸村の知恵の地蔵尊」がある。地蔵堂の台石をさすり、子達の頭をなでると知恵を授かると信仰されている。
かつては宝性院という寺院と神社が一体で、高松神明宮宝性院という神宮寺であった。明治時代初めの神仏分離令により宝性院は廃寺となり、高松神明神社だけが残り現在に至る。』
(HP説明書きより)
『神明地蔵尊の縁起
神社の境内にお地蔵さんをお祀りすることはめったにありません。 「神明地蔵尊」はその例外で、大変珍しいといわれています。
永禄八年(一五六五)、このお宮は「高松神明宮宝性院」といい、 神官はいません。最初の社僧、宥玉法印(伝燈法師位法印大僧都 新玉)は山之内(右京区)からお入りになり、その後約三百年間、 明治元年の「神仏分離令」まで、社僧がお祀りをしていたのです。 「神明地蔵尊」は、寛政六年(一七九四)、「高松神明宮宝性院」 (真言宗東寺宝菩提院の末寺に属していた)の社僧が紀州九度山 の「真田庵」(高野山真言宗伽羅陀山善名称院)に毘沙門天と ともに安置されていた二体の地蔵尊のうちの一体を拝領して参り、 同年六月、神殿の東側に三間四面の地藏堂を建てました。
智将で知られる真田幸村の念持仏でありましたので、「幸村の知恵 の地蔵尊」としてお祀りしました。大変美しいお姿の半跏坐像の ありがたいお地蔵さんは、多くの参拝者から信仰され、活況ある 境内となりました。
約五〇年後の天保十一年(一八四〇)十月、東西二間南北三間半、 切妻破風の屋根の地蔵堂に建て替えました。元治元年(一八六四)、 七月、蛤御門の変により、当社も罹災しました。
境内の稻荷神社、不動明王、弘法大師、金比椎神社等と一体に地蔵堂も焼失しましたが、「神明地蔵尊」のみがご無事でありました。 明治になって神仏混淆が禁止され、宝性院は廃寺となり、高松神明神社だけが残りました。排仏の憂き目に会わなかった「神明地蔵尊」は、社務所内でずっとお祀りを続けていましたが、明治二十 六年(一八九三)、本殿の西側の現在地に地蔵堂を建てて、お祀りをするようになりました。
地蔵堂正面の台石をさすって、子達の頭をなでますと、智将辛村 にあやかり、知恵を授かる御徳がございます。地蔵尊にお供えを いただいた洗米と小豆を蓄えておいて、地蔵盆に、小豆粥としてお詣りのみなさまに供養したと伝えられています。
高松神明神社 宮司』 (説明書きより)
地下鉄烏丸御池駅から西へ少し歩いたところにある。
この神社の由緒については上の説明書きの通りだ。直接神社の由緒を書いた駒札はなかったが、高松殿跡や地蔵堂の由来の説明などがあちこちにある。高松殿は平安時代に造営されたものと考えられており、その鎮守社として伊勢から天照大神を勧請し祠を建てて神社として創建されたという。ご利益は開運厄除け。他に八幡大神、春日大神を祀っている。
保元の乱では、ここに源平の軍勢が集結し基地としたことはよく知られている事実だ。
また地蔵尊については本来、神社の境内に置かれることは極めて珍しく、ある意味非常に貴重な例となる。関ヶ原の戦いに敗れた真田幸村が、現和歌山の紀州に蟄居させられたことから、その念持仏をこの地蔵尊に祀って神社に置かれたものだと言う。
神社全体はやや細長い境内を用い、所狭しと鳥居や地蔵尊、本殿などがあって、いかにも平安時代に整備された京都の細い路地が縦横に交わる中の、狭い敷地に建てざるをえなかったことがよくわかる造りとなっている。
なお高松殿については消失して今現在ではその跡という史跡が残っているだけ。様々な歴史の舞台で登場する神社でもあり、一般的には名前はあまり知られていないが、重要な役割を果たしたところであるので、是非とも訪れるといいと思う。
中山神社
『中山神社
延暦十三年(七九四)に桓武天皇の勅命により建立されたと伝えられている。素戔嗚尊を主神とし、朝タ、內裏の門を守護するという櫛石窓神、豊石窓神の二神を合祀する社で、石神(岩上)神社ともいわれる。
嵯峨天皇の後院 (退位後の御所)冷泉院の鎮守社として崇められたと伝えられ、慶長七年(一六〇ニ)、二条城造営により現在地に移転したが、天明八年(一七八八)の火災にかかり、現在の社はその後再建されたといわれる。社名は、この地が鎌倉時代の内大臣中山忠親の邸跡に当たることに由来すると伝えられる。 京都市』
(駒札より)
中山神社は堀川通から西側へ路地を一本入ったところにある。縦横の路地は何れも一方通行なので車を停める所はない。大通りのコインパークなどに入れて後は歩かざるを得ない。
由緒については非常に短いものだが、京都市のものが立てられていた。この説明でほぼ十分くらいに表されていると思う。
創建の時期と沿革については諸説あって確定したものはないようだが、駒札にある説が最も有力だとされているようだ。
794年というのは平安遷都の年。新たに建設された平安京の守り神として設置された神社として位置づけられた。もちろん当初は内裏との位置関係から設置場所が決められたが、後年駒札にあるように、二条城の建設により少し南側へ移転したということのようだ。
ここもやはり細長い敷地に石鳥居や本殿などが密集しており、奥の扁額には「 岩上大明神」と記されていた。これは神社が面している細い路地が岩上通りというところから、地域の人からそう呼ばれてきたものが反映されているんだろう。
壬生寺
『壬生寺
鑑真和上ゆかりの律宗・壬生寺は、 正暦二年(九九一)創建された。本尊の廷命地蔵菩薩(重要文化財) をはじめとする多数の地蔵菩薩を祀っている。古来よりの地蔵信仰と共に、厄除・開運の寺としても知られ、二月の厄除け節分会は約九〇〇年もの歴史をもつ 行事である。境内には、塔頭の中院や壬生狂言の舞台である大念仏堂(重要文化財)、千体の石仏を安置した千体仏塔など八棟のお堂がある。また、列仙図屏風 (長谷川等伯筆・重要文化財)、室町時代の作を含む 一九〇点の壬生狂言の仮面や仏像などの寺宝を今に伝え、万万灯供養会などの年間法要や七〇〇年の伝統を持つ壬生狂言(重要無形民俗文化財)は、每年盛大に行われている。
当寺の境内は、新選組が大砲や剣術・馬術の訓練をした場所として有名であり、壬生塚には近藤勇の胸像、 芹沢鴨らの墓塔がある 。池田屋騒動があったとされる祇園祭宵山の七月一六日には、每年、慰霊供養祭が行われる。
また境内地の一部を活用して、保育園や老人ホームが開設され、地域福祉事業を進めている。 京都市』
(駒札より)
壬生寺は阪急京都線及び嵐電の四条大宮駅西側にある。
まだこのブログを始める前に訪れて写真を撮影している。もう5年くらい前だ。有名なお寺であり重要文化財なども所有し、大きなお寺として印象に残っている。今回はブログで紹介すべく久しぶりに訪れた。
境内が広く駐車場もあるので便利だ。ところが山門前に回って風格のある山門を撮影し、短い石橋を渡って境内に入る。その途端、かつて訪れた時の壬生寺の様子とはずいぶん違っているのにすぐ気が付いた。
境内がずいぶん狭くなっている。よく見ると境内奥北側の方に、かなり大きな老人ホームマンションが建っている。その手前には保育園が設置されている。この二つの施設で広かった印象のある境内はずいぶん狭く感じるようになっていた。このようなケースはお寺にしろ神社にしろ、比較的よく見られるケースではあるが、財政的な問題もあり、同時に社会貢献の立場から、駄目だというわけにはいかない。やはり前向きに受け止めざるを得ないということになる。
由緒については駒札の通り。ただ創建の経緯については諸説あって確定的なものはない。一応駒札にもあるように、渡来人の僧である鑑真和尚の創建というのが有力な説のようだ。平安時代中期の話。
この壬生寺では無形重要文化財の、「壬生狂言」と言う舞いが七百年前頃に始められ伝えられている。この壬生狂言を舞う舞台は国の重要文化財に指定されているが、どうも記憶が曖昧で、今回はその舞台の前に保育園があって、通常では舞台の側面しか見えないような状態になっていたように思う。もしそうであるならば、毎年行われる壬生狂言はどのようにして見ることになるんだろうか。もうひとつよくわからない。
また壬生寺は歴史の舞台にもよく登場する。新撰組やその関係者のお墓などが境内にあって供養されている。
しかも戦後に不信火によって、重要文化財の本堂が本尊と共に焼け落ちてしまうという災禍にもあっている。今の本堂はその後の再建であり、重要文化財の本尊は律宗の関係のお寺から迎えられたものだ。
外出自粛要請があったが、壬生寺にはそこそこ人が来ていた。境内が広いのでいわゆる密になるような場面は全くなかった。機会があれば壬生狂言を見たいとは思うものの、気がついたら終わっていた、というふうな有様なので、おそらくこれからも見ることなしに、あの世に行ってしまうだろう。
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