切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

正一位武氏稲荷大明神・・・地域の稲荷信仰     京都市下京区    2024.5.2 訪問

2024-05-26 21:27:23 | 撮影


 「正一位武氏稲荷大明神」は五条大宮の西南に位置する。周囲には寺院が非常に密集しており、この神社もそうした中の一つに紛れ込んだ感じになっている。名前はかなり壮大なものだが実際に現場についてみると、家屋が密集した中の一角に小さな土地が用意され、そこに赤い小さめの鳥居が 1基立っていて、奥に小さな祠がある。そういう意味では神社そのものがかなり小ぶりのものだが、内部はしっかりと整理されており、よく手入れもされていて大事に扱われているのがよくわかる。

 名前に「正一位」とあるが、神社の階級においてはもちろん最上位のものとなる。このような地域の小さな神社に正一位とはいくらなんでもと思うかもしれない。この神社は稲荷大明神というがごとく、祭神は「稲荷大明神」となる。そしてその総本社は伏見稲荷大社である。つまり伏見稲荷大社の祭神を勧請してあちこちに創建された小さな神社にも、総本社の伏見稲荷大社の階級を名乗っても良いということになって、正一位を名乗っている。元々 律令制時代のもとではこういうことはなかったのだが、神社というのは年数が経てば経つほど、神社の価値が上がると考えられ階級も最終的には正一位になるとの考えがあり、特に鎌倉時代初期、後鳥羽天皇が伏見稲荷大社を訪れた際、ここから勧請された各地の稲荷社には 正一位を名乗っても良いという命を下したという。そういったところからここの神社も堂々と正一位という神社としての格が最上級であることを名乗っているわけだ。

 

 このように考えると各地にある稲荷社は、伏見稲荷大社から祭神を勧請することによって自動的に、正一位の神社となることになった。今や全国において稲荷大明神や稲荷社は約 3万から4万社あると言われている。中には敢えて正一位を名乗っていないところも数多いが、少なくとも正一位武氏稲荷大明神は神社の周りに掲げられているのぼり旗にも正一位が織り込まれている。

 元々の稲荷信仰というのは「狐」像に関わるイメージが強いが、これは平安の昔から人々が懸命に育て収穫した作物を食べるネズミを駆除してくれる存在として、キツネが信仰の対象という風になったと考えられている。諸説あるので必ずしもこれが正しいかは分からない。「稲荷」という最初の記録は、「山城国風土記」の逸文に、「伊奈利」という神が渡来人の秦氏により祀られていたと記されており、日本においてはこれが農業の米作りなどを重視する風潮から、「稲荷」となったのではないかと考えられる。平安時代以降は秦氏の勢力が強まり、同時に稲荷信仰も広まっていくことになる。

 

  戦乱の後の平和な江戸時代になると、各地に人口の多い都市が出現し、多くの人々が密集して家を建て住むようになると、やはり地域の守護神が必要だという思いから、ご利益の多い稲荷社を建てようという話になる。こうして今で言う町内会ごとに小さな祠と鳥居が建てられ、稲荷大明神を勧請し稲荷社が数多く建てられたということになる。それは同時に人々の信仰の対象であるだけでなく、庶民の思いが神社に対する志ということで何か贈り物をという思いが募り、裕福な者は鳥居を寄進する風習が明治になってから強まったらしい。これがいわゆる千本鳥居の由来となったものだ。今ではかつての五穀豊穣の内容に限らず、 家内安全や祈願成就、そして商売繁盛などにもご利益が広がり、新たな土地開発で多くの人が住む地域ができると稲荷社が建てられるという具合になった。そういった意味では総本社の 伏見稲荷大社だけではなく、全国から大変な信仰を集める一大信仰の代表的な神社ということになる。

 

 「武氏」の名についてはよくわからないが、この地域に該当する名前の人たちが神社創建 に当たっての功績をなしたということではないかと考えられる。


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