切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

蓮華寺・都城六勇士之墓・・・明治維新   京都市南区    2023.6.11 訪問

2023-06-12 23:21:04 | 撮影


 蓮華寺・都城六勇士之墓は東寺の西、新幹線の高架橋沿いにある。
 蓮華寺というお寺は 西山浄土宗のお寺であり、ごく一般的な地域のお寺だと言える。このお寺は関係者が鉄道好きなようで、境内いっぱいに本格的な 線路が敷かれている。鉄道ファンの間ではかなり有名で色々なイベントも催されているようだ。寺の関係者がかつて京福電鉄に勤めていたという話も聞く。
 お寺の境内は細長く緑が豊かで、本堂に至るまでさほど余裕はない。また隣接する墓地についての説明その他は何も見られない。おそらくこのお寺の墓地だとは思われるが、その辺 よくわからない。

      

 広い墓地の方は「狐塚」と呼ばれており、寺の境内に入り口があるが、そこから入る墓地はかなり狭く、狐塚の方の墓地との間に鉄柵が設けられており、狐塚の方は別の墓地のような気もする。この辺りも調べてみたがもう一つよくわからず、蓮華寺と直接の関係はないのではないかという感じだ。

  

 この狐塚は「都城六勇士之墓」があることで非常に有名であり、参拝者も多いという。墓地面積はかなり広く、もちろん一般の人々のお墓が中心であり古くは明治の頃のお墓もあれば、つい最近建てられた真新しい墓石もそこそこに目立つ。この中に「都城六勇士の墓」があるはずで探してみるが、あまりにも墓石が多くよくわからない。あれこれ探してようやく薄い石の板を見つけた。いわゆる石碑だ。ここに慶応三年と言う文字が読み取れる。そしてその横に小さな墓石が並ぶ。 1基だけが明治に建てられたようなかなり風化したもので、後のものは比較的最近新たに建て替えられたようだ。その小さな墓石にも側面に慶応三年の文字が見える。もちろん正面には一人一人の氏名が彫られている。この「都城六勇士之墓」というのは一体どういうものなのか。

   

 幕末から明治維新にかけての京都は非常に不安定な状態にあった。大政奉還が行われその後、王政復古の大号令が出されて新政府及び薩長藩等との対立が鋭くなっていく。そんな状況の中で起こった事件だ。
 薩摩藩の都城から兵士が上京し、京都伏見の警護に当たっていた。1868年、慶応三年十二月、6名の薩摩藩兵士が見回りに出る。そこに伏見奉行所からの徳川方の兵士集団と遭遇し、銃撃を受けることになる。ここで争いごとになるのを薩摩藩兵士が避けて詰所へ戻った。しかしこの時に薩摩藩の兵士に思い違いがあり、結局自分たちは徳川の兵隊たちを見て逃げたのではないかと疑われると考え、移された東寺の内部で切腹自殺をした。
 その該当者が「大峰兼武・横山貞明・坂元正備・野邊盛次・安藤利次・内藤利徳」の6名だ。結局このようにして死ななくても良いはずの薩摩藩兵士が亡くなってしまった。そのことを不憫に思った東寺の僧である阿刀慶増はその6名を狐塚墓地に埋葬し墓を建て、その後 自らも責任を感じて自刃することになる。
 こうして今現在、狐塚墓地には 6名の墓石と東寺の阿刀慶増の墓石が横一列に並んでいる。幕末から明治維新にかけてこのような悲劇はあちこちで起こっている。特に舞台となった京都においてはかなり広い範囲で、様々な戦いが繰り広げられ、 あるいはまた要人の暗殺事件等も多発し、今現在ではそういった場所には石碑や説明板が立てられ紹介されている。これらの悲劇を今も心の中に思いつつ 訪れる人は非常に多い。

   
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