長崎原爆投下の日。
知的財産に関する課題が出たので、技術開発についてマツダのロータリーエンジンを例に考えてみる。
技術の開発とは具体的にどのような経路をたどるのであろうか。
一般的には
①研究段階
②開発段階
③事業化段階(製品から商品へ)
④産業化段階(設計・製造・物流・販売まで)
の4つの段階があると言われている(下図)。そして、次の段階への移行が困難であることから、象徴的に各段階の間には「魔の川(devil river)」、「死の谷(death valley)」、「ダーウィンの海(Darwin’s Ocean)」が横たわっていると言われている(出川 2004)。すなわち、基礎研究はできたが新しい技術を何に使えばいいかわからない(用途開発の困難性)、試作機はできたが実用に耐えないand/or開発資金がない(商品化の困難性)、商品はできたが売れない(市場での生存競争の困難性)のである。
自動車会社マツダの社長であった松田恒治(当時)は、通商産業省(当時)が1965年に設定した自動車の輸入自由化を前に、会社を救う革新的な技術を求めていた。松田が目をつけたのは、1959年に西ドイツNSUバンケル社(NSU(現在のaudi)とロータリーエンジンの基本原理を発明した(研究段階)フェリクス・バンケル博士の合同企業)が世界で初めて開発したと発表したロータリーエンジンだった。
松田は1960年に訪独し、NSU社と10年契約でロータリーエンジンを「共同開発」するとの仮契約書に署名するが、当時で2億8000万円という従業員8000人分の給料にも匹敵する法外な契約料を支払って得たロータリーエンジンは、未完成で事業化以前の状態であった。
NSU社のロータリーエンジンは、400ccで800ccのレシプロエンジンと同等の馬力を出す画期的なものではあったが、ローターが回転するときに内壁に発生する摩耗痕(チャターマーク)の解決ができておらず、連続運転で200時間も保たなかった。さらに、オイル漏れ、低速時の振動等さまざまな問題が未解決のままであった(なので事業化段階だと思って買った技術がまだ開発段階だったわけである)。
しかし、マツダの山本健一を中心とするロータリーエンジン研究本部47人の技術者は、この問題をことごとく克服する。チャターマークと低速時の振動は独特な形状をもつシール材(クロスホロー加工)を開発することで、オイル漏れはエンジン内にゴムのシール材を使うという発想の転換で、最後に残されたシール材の耐久性の問題は、日本カーボン社の開発した素材技術を応用することで解決した。マツダの四十七士は、死の谷を渡りきったのである。1985年段階でロータリーエンジンにつき各社が取得していた特許数は、NSU社291件、ダイムラー・ベンツ社299件、フォード22件に対し、マツダが取得した特許数は1302件に上ったとされている。
だが、1973年に勃発したオイル・ショックが、レシプロエンジンに比べ燃費が悪かったロータリーエンジンを直撃する。「ガソリン馬鹿食いエンジン」と酷評されたロータリーエンジンは、その後燃費の改善は実現するも、レシプロエンジンに及ばなかった。自慢の低排気ガス(NOx)も、三元触媒という新たな排気ガス対策技術の開発により相殺されてしまった。このため、マツダ以外の自動車メーカーはロータリーエンジンから撤退し、マツダもスポーツカー向けとしてのみロータリーエンジンを現在生産している。ダーウィンの海を渡ることは困難なのである。
とはいえ、1990年代以降には水素ロータリーエンジンがマツダによって研究開発されており、ロータリーエンジンは水素燃料を容易に転用できる内燃機関のひとつとして再び注目を集めている。これは吸気室と燃焼室が分離しているため吸入工程で異常着火(バックファイアー)が発生しないという構造上の特徴があるためで、現時点では燃料電池車などと比べてはるかに現実的な技術だとされている。水素は燃焼速度が速く燃焼室形状が問題になりにくいという相性の良さも有る。また、水素以外でもガス燃料であればロータリーエンジンの方が有利であるとされる。
それでは、なぜマツダだけがロータリーエンジンを製造し続けることができるのか。それはマツダが「サイドポート吸気」という吸気システムを実用化し、最も燃費効率の良いロータリーエンジンの製造特許を握っているからに他ならない。このため、ロータリーエンジン開発は『特許戦争』とも言われている。