goo blog サービス終了のお知らせ 

kirakira 日記

きらきらした人生にしよう♪

マスターコース12日目

2015年10月28日 23時59分55秒 | 心屋学(心屋から学んだ事)
マスターコース12日目。
今日はほとんどが、苦手な人や過去のトラウマ、次のステージに行く障害を簡単に消すワークだった。

私は、次のステージに行く障害を消すワーク、そもそもカウンセリングが途中で成り立たなくなった。
私がやりたくてできてない事、何個かあるうちの1つを選んだのが、やっぱり経済的に気になるから、「1週間に1,2回仕事をして、月収手取りで20~30万円の仕事をする」という事。
子供がいるから、あんまり仕事はしたくない、だから負担のない範囲で稼ぎたい。

ゆみとペアで、ゆみは「カウンセラーをやってみたい」だった。ゆみがしてから私のを言った時、ゆみに「恐っ。現実を見た」と言われた。「厚かましい!?」と聞きつつ、私は本気やで。
少しは「え、無理やろ」って気持ち、まだあるけどね。やっぱり職安とか行くと特に現実こうだよと叩きつけられてるみたいでそう思った。
でも、おこがましいとか、厚かましいかもしれんけど、子供との生活に負担かけたくないもん。そして自分の時間もほしいもん。仕事しててそう思ったから、こう思うのが厚かましいというより、当然の権利、というかこのくらい思っていいんじゃないか、罪悪感は感じなくていんじゃないかと思うようになってた。

ワークでは、ブレーキ・障害物を確認する。
仕事するのに、引き留めるものになるのは子供かな。でも、障害とは思いたくない。子供はかわいいし、大事やから。
仕事したら時間取られる、仕事に夢中になったら家庭をないがしろにする自信があると言う私。

その障害のイメージを思い浮かべる。
私の場合は、自分は井の中の蛙みたいな感じ。私じゃなくても、他にもいっぱいいるし、自分なんて大したことないみたいな。でも、みんないるけど、押しのけて上へ行くイメージ。

ゆみにジャンプしてみようかと言われて、でもそうじゃないんだなー。
ジャンプしたら、元の位置に戻る。もっとこう上に行くイメージ。
と言うと、「じゃ、そもそも自分は蛙じゃなくてタカだったんじゃない」と教えてくれる。そう、マスターで出て来た自分のセルフイメージ「何でも思い通りになる愛される能あるタカ」としてたから。
ゆみが「他の蛙けちらして、飛んでタカになろうか」みたいな事言うと、私「いや、蛙にも命はあるから、けちらすのは...」的な事言ってた。一気にジャンプしようか的な事も言われて、そこで私が、いや一気じゃなくて、ちょこっとジャンプちょこっとジャンプで、ちょっとずつ山を登って行く感じかな、と言うと、ゆみに「行きたくないんちゃう」みたいな事言われて、「行きたくなかったら、それでもいいねんで」と言われる。

そう一気に行かなあかんかなーというのもある。子供いるから、一気じゃなくて、ちょっとずつブログしたり、そんなんでいきたいねんなーと思う。

ゆみに、そもそも「1週間に1,2回仕事をして、月収手取りで20~30万円の仕事をする」っていうのもしたい事なのかという事を確認された。
そうやねんな、今に焦点を当てると今の今したい事じゃないねんな。

でも、自分も仁さんにブログ紹介されてすごい人と思われたいとか、それでカウンセリングしてほしいという声が上がってカウンセラーになって稼いで、みたいな筋書きがある...。恥ずかしながら。
やっぱり、どっかで経済的に不安がつきまとい、稼がなと思ってる。

でも、子供と一緒にいたいねんな。仕事して、仕事のために焦って、子供にあたるような事はしたくないねんな。
そして、子供の事を大義名分のようにしてるけど、やっぱり自分の時間もほしいねんな。
だって、子供との時間ってほんと体力使う。自分と向き合う時間もほしいねんな。
子供との生活ってほんと気付きが多い。それをアウトプットもしときたいねんな。

あー、これか。私のしたい事って、これだけか。
お金と結びつけんかったら、シンプルやわ。
お金は心配。でも、自分がしたい事って今お金を稼ぐ事じゃない。
すごい人と思われたいはある。でも、それはお金を稼がなくてもできる事かも。そして、お金を稼ぐは結果としてついて来るものであって、目指さなくていいのかも。

このワーク、途中で成り立たなくなったけど、そもそもワークを最後までするっていうより、自分は蛙じゃなくてタカだったって事に気付く、そして本当は私のしたい事は、今はそれじゃないという事に気付いた。
それでいいんかな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんとなく不調 ― 悩んでもいい

2015年10月15日 06時26分49秒 | 心屋学(心屋から学んだ事)
なーんとなく不調。気分が。

いっつもやりたい事あって、悩む事はあるけどマスター行って、ぐるぐる考えるのから抜け出すのが早くなってたのに。

きっかけは、意外にも思い起こしてみると、講師のあっこさんがメーリングリストで「からっぽ、いいじゃん」って書いてた事かも。
私は、前はぐるぐるぐるぐる考えてたのに、答えがぽんと出て考えないようになって来た。
そしたら頭がからっぽで真っ白、って時が訪れた。
そしたら、脳が過去も未来も見てなくて、今に集中できて、子供との時間も大切に使えていいなと思ってた。

ただ、最初はからっぽって良い事なのかーと思いつつ、あっこさんに再度言われると、心屋的にはOKなのかーと○と思ってた。
ただ、段々「からっぽ、いいじゃん」に捉われて、普段ぐるぐる考える自分は×と思ってしまってたんだわ。

そしたら、考えてしまう私は×と思って、考えないようにしてたとこあるかも。
そう、何か頭がからっぽになった辺りから、思考をストップするというコントロールする事もできるようになってた。いつもなら、思考が止まらないのに。

だから、ちょっとした悩みというか、姪の事とか持ち上がると、「弟が問題解決する言うてたから、私はほっとこう」とか考えてた。心屋的にはそれでOKなのかもしれないけど、私の思考がもやもやしてたんかも。
これほっといていいの、また傷付けられるんじゃ、前よりひどい事だったらどうする、それで何かあったら何か手を差し伸べなかった自分に後悔するでと。
で、考えないように同時にしてたから、もやもやまで行かず、なんとなく気持ちが沈むというか。

いいよ、考えたらいいねん。気になる事は考えたらいいねん。ただ、子供の前でいつまでもその時間を無駄にするまで考えなかったらいいねん。そうするためにはどうしたらいいか。行動を起こしたらいいねん。そしたら、少しは自分の気が済む。そして行動に起こしたら、また次の思考・行動が見えて来る。この繰り返しやわ。
考えるだけで終わるから疲れるねん。

思考が思考を呼ぶのは、悩みだとマイナスのように捉えられるけど、これも実は私の良い所で、アイデアがどんどん出て来る所でもある。妄想というか。妄想はアイデアの源。

そう、やり過ぎると抜けれなくなるのは問題だけど、これも私の良い所なんだわー。
ま、これからも適度に考えてくださーい、私。


ちょっと今回の事を言ってるのと似た記事をたまたま見つけた。
藍色シアン 2015-10-14 19:01:43 不幸を減らすことを「努力」「苦労」「頑張り」っていうんです。
不幸をなくそうとする、というか、私のこの場合は、悩みをなくそうとする。
悩みがある事がいけない事と思ってる。

例えば子育ての悩み持ってたら、イコール子育てうまくいってない人みたいに思われるのがいやとどっかで思ってるんだ。
赤ちゃん先生芦屋短大の打合せで、最近の子育ての悩みをシェアして下さいと言われて、「私、悩みないもん。私、子供かわいいから悩みないもん」と思ってしまってた。
悩みがあったら、子育てでつらい思いしてるんだと思われるのがイヤ、みたいなのがどっかあった。

いや、小さい悩みの1つや2つあるやろ。
別にそれあったからと言って、子供をかわいく思ってないわけじゃないんだー。
別に言ってもいいんだー。

悩みがあってもいい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

罪悪感を感じてなくていい理由、もう1つ

2015年10月04日 07時29分05秒 | 心屋学(心屋から学んだ事)
それに、さらに言うと、人が「私、こんなに苦しんでるのに、あんたはのんきでいいねー」的に思って、それぞれの感情をぶつける、もしくはぶつけられてると感じる、そういう時って、言われたらずっと気にしてしまうけど、人はそうグチや文句をつぶやいた後、忘れてる事もある。

言われた、もしくは言われてる気がするという本人だけがずっと気にして、罪悪感を感じてるのに、相手は意外と忘れて、もしくは忘れようとして他の事に対して前向きになってる。
その人にとって、言えると癒える、言った時からその事から解放されていくって事もある。

人は意外と強い。
私が思ってるほど、ずっと落ち込んでない。ずっと同じ所にいない。
自分が見てるのはその人の一部。いっときだけ。
そこから上がってく。

そしたら、人のためをと思って、ずっとその事を考えてる自分がかわいそう。
自分の時間がもったいない。
それこそ人生の大損。


損するのが嫌いな私。
損したくなかったら、罪悪感なんてカキーンとぶっ飛ばしたらいい。

(この表現は、NHKの「あさいち」で「いい母プレッシャー」を特集してた時に、濱田マリが言ってた。子供がいて仕事する罪悪感、子供が高校生くらいになった今もあるけど、カキーンってバットで飛ばしますねと言ってた。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

罪悪感の正体、何となく分かって来た

2015年10月02日 03時50分54秒 | 心屋学(心屋から学んだ事)
人がつらい時に、自分だけ幸せでいたら罪悪感を感じる、という気持ちがある。
今に目を向けたいのに。

でも、実際、人の事なんてそう長く思ってられない。
実際のところ、自分に関係ないのだから。
そりゃ、その人が自分に身近であればあるほど、思いはあるけど。
それでも、ずっとそればっかり考えてられない。

それなのに、ずっと考えようとするのは、自分が「あいつみたいに冷たい人間になりたくない。私はちゃんとあなたの事を思ってますよ」とアピールしたいんだ。心の中で。
心の中でだから、相手に伝わってないのに。
相手に伝わってないから、自分だけが心の中で引っ掛かって、自分だけが自分の今に目を向けれなくなって。
もったいない、そんなの。

それは、どこから来たのか。

ふっと、思い出した。過去の事。
夢のおかげと、母が泊まりに来てるから、母となんかやりとりしてて。

母は基本元気だけど、時々頭痛で寝込む事がよくある。
昔からそうで、私が子供の時、母が寝込んでる時に、父が少年野球に行く事があった。
約束、というか毎週のルーティーンワークなので仕方がない。
そういう時母は「私が寝てる時に、クーガー(チーム名)行くか」と言った。
父は、そういう時、「晩ご飯どうする?」と聞く時があって、そういう時も母は「私が寝てる時に、晩ご飯の事聞くか?作れって言う事?」のように言ってた。

前者の言葉は、子供心に、「それは別やろ」と思ってた。
心配はするけど、切り離して考えていい事やと思う。
おっても治る訳じゃないし。おっても何もできんし。


そっかぁ、と思った。
これやわ。
元々の私の考えは、病気で大変やとかわいそうやけど、用事があって行くのは別じゃん、なわけ。
それなのに、母がそれは冷たいというような感じで言うから、「そうするのは悪い事なんやー?」と思って、「私はそうじゃないよ。ちゃんと心配してるよ」って証拠に、罪悪感を感じたんやわ。

更に言えば、人が大変な時でも、ルーティーンワーク・仕事なら、義務だから行っても仕方ないけど、「自分がやりたい事」のためだと、絶対今する必要じゃないねんから、今せんでいいやん、先に延ばしてもいいやん、と思うようになった。

(あ、それは、子供が小さい時に仕事したくない、にも当てはまるかも。でも、それはほんまにしたくないからいいと思う。)

ま、まだこれ以外にも過去の経験があって、自分が決めた事によって罪悪感を持ったという出来事があったかもしれない。けど、今思い出すのはこの事。



他の人が感じない所に私は罪悪感を感じるのは、私が逆なら、関係ない人も責める癖があるからだ。
マスター9日目の帰りに、ふっと頭によぎって、それから考えないように自然にしてた。
答えを見つけ出したいんだけど、性格の悪い自分がバレたくなかったんだ。
だから、すごく自然に、すごく巧妙に、それに関する思考を停止した。

自分は性格悪くも、全然関係ないのに人を責める。でも、全然関係ない人を責めるようになるにあたいする経験をして来たんだ。
我慢しすぎて来たんだ。
余裕がない状態でずっと来たんだ。
だから、関係ない人に物に、心の中であたる習慣がついたんだ。
すっごい職業病やな。

私、仕事してて心に余裕がなくなった時、何かあると自分が責められるの知ってたから、それを避けるためにすぐ人を責めるようになってってた。インド人や社長、すぐ人のせいにして来るから、私もそう言われんように、人を責めてた。心の中で。
東京オフィスの所長も、トラブルや残業続きの時、社内で「お前ら、皆、敵やー」って言ってたらしい。
その言葉が自分にもピッタリ来た。
本当は関係なくても、皆敵のように感じて、頭の中で責めてた。
だから、自分も責められてる気がするんやろうな。


だから、今回の場合に当てはめて言うと、例えば自分ががんになったら、他の人も「がんになってよ」並みに思うと思う。
だから、近所の人にも「検診受けた方が良い」と言われると、「あなたもがんが発見されたらいいのに」と思われてるような気がしてしまってた。実際の所は分からない。
心屋が言うには、「世の中、そんなに冷たくないよ。あなた以外はね」との事。
私が、人も私と同じようにつらい思いすればいいのにと思うから、人にもそう思われてるような気がするんだ。

実際、帝王切開になった時、「何で私だけ?」と思った。
他の人は、普通分娩で産んでるのに、と。
分娩台乗ったらすぐ産まれたわ、なんて言う安産の武勇伝みたいなの聞くと、もやもやした。
他の人もなったらいいのにって思った。
本当に性格の悪い所を露呈する事になるけど、実際そう思った。
それで、私を責める人がいるなら責めたらいいんだ。
でも、感じてはいけない感情なんてない。感情は自然に出て来るものなのだから。
それより、そんな事思ってませんと誤魔化して、その根底にある気持ちを無視する事が自分にとってかわいそう。

何で自分だけならなあかんの?同情するんやったら、同じ経験をして、同じ思いをしろ、みたいな。
責める気持ちがある。
でも、それは心の奥を見ると、気持ちを分かってほしいという事、寄り添ってほしいという事だと思う。

だから何も罪悪感まで感じんでいいのよ。
相手の気持ち、分かって寄り添うだけでいいのよ。

姪の事も、何か連絡あったか母に聞いたら、「友達と旅行行く計画立ててる」って。
私の方が本人より落ち込んだり、心配してるやん。
本人、無理してるのかもしれないけど、忘れるために前向きになろうとしてるだけかもしれないけど。
心配してるこっちがあほらしい。本人、人生楽しんでるのに。

でもこうやって、頭で考えるより実体験で、罪悪感感じないでいいんだ、感じたってしょうがないんだと思うと、バカバカしくなって来る。



心理学とかでは、皆それぞれ、人生の自分の舞台に立ってると言う。
罪悪感を感じるというのは、人に対して、そのステージで演じるのあなた下手だから、私が替わると言ってるようなもの。その人は必要であって、苦しんでるステージがあるんだから。取って替わるなんて、おこがましい。
そんな暇あったら、自分のステージ盛りたてたらいい。

人が宿題できてないのを見て、私できたから手伝うよーってしゃしゃり出てるみたいなもん。
宿題できてるかしらんけど、部屋片付いてないやん。そんな暇あったら、部屋片付けなさい、みたいなもん。

自分には自分の持ち場がある。
人が、自分が構ってあげないと、同情してあげないとと考えるなんて、おこがましい。
罪悪感なんて感じなくて良い。
自分と人は切り離して考えて良い。

気持ちに寄りそうのはいい。
それをしたら、後は自分の事気にしたらいい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

責める・責められるは、どこから来てる?

2015年10月01日 23時33分04秒 | 心屋学(心屋から学んだ事)
マスターがあって、母が泊まりに来てたから、母と喋ったりしたけど、母っていつも「責める」と思った。

地域の小学校建設の是非を問うアンケートを配りに来たご近所さんと外で会って喋ってたら40分位経って、「待たされて子供がかわいそう」と言われた。私もそれが気になってたから、言われてムカついた。そしてつい「お母さんだって、私が子供の時、市場で人に会ったら喋ってて、私結構待たされる事多かった」と言った。その後、母に「あんたはちょっと言ったらすぐ、『お母さんは』って人の事言って来るって言う。自分の事、治せばいいねん」と言われる。そんな言い方をするからお互い、言い合いになるねんな。

それでも、そういうの私だいぶ言わんようになってたのに言うのは、どうせ言っても言い合いになる → 分かってもらえない → 親に色々期待するのはあきらめた。
子供の時の「大切にしてもらえない」ひいては「分かってもらえない」をずっと握り締めて来たんやろな。

お母さんにも責められてるんじゃなくて、「分かってほしい、寄り添ってほしい」があるだけ。
素直じゃないんやな。
お互いやけど。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする