退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

幸福な世界 7

2015-08-10 02:06:40 | 韓で遊ぶ


標語になった辞表
3年前、私は軍の入隊を100日後に控え、休学しました。
そして入隊までの残った時間を利用して小さな部品工場に就職しました。
私の辞書に適当にやるという言葉はありませんでした。少しの間、身を置いたところでしたが、私は使命感を持って仕事をしました。
誰よりも早く出勤して、夜の間にうず高く積もった雪を片付け、職場の先輩に会うと礼儀正しく挨拶を交わしました。
「おはようございます。」
私もまた、会社を率いていく大切な構成員であるので、どんな仕事でも最善を尽くしたいと思いました。仕事を始めて1週間ぐらいたった頃、昼食の後、残った時間30分がとてももったいないと思うようになりました。大部分の人が、その時間を特別にすることもなく無意味に送っていたのです。作業場の明かりまで消して昼寝をしたり、呆然と座って時間を費やしたりしました。私はその余分な時間を充実して送りたいと思いました。
「その時間に何をすればいいだろうか。そうだ、本を読めばいい。」
短い時間の読書をすることに決めた私は、すぐに次の日から実践に移しました。おじさんたちの中には、やめるようにと言う人もいました。
「君、少し寝ておけ。今、休んでおかないと午後に疲れるから。」
無理をするなという言葉を聞くたびに、私は本を読みながら頭が冴えてくるという言葉でおじさんたちを安心させました。そうやって1週間が過ぎました。ところが、ある日工場長が声をかけてきました。
「なぜ、君は休まないで本を読んでいるのだ。」
「ただ休んで時間を送るのがもったいなくて。」
私の答えを聞いて満足そうな微笑を浮かべた工場長は、翌日の昼の時間に私と一緒に本を読み始めました。
その後、不思議なことが起こりました。工場には本を読む人が一人二人と増えていきました。いつの頃からかは、昼の時間に手に本を持っている姿が自然に見えるほどになりました。
3ヶ月の勤務が終わった時、私はなじんだ会社を辞める気持ちで、出さなくてもいい辞表を提出しました。3ヶ月なじんだ人たちは、私が最後に退社する時見送りに出てきてくれました。そして私はすぐに入隊しました。入隊して少し後に意外な話を聞きました。
私が出した辞表が、何かの標語のように職場の入り口にかけられているという話でした。自分から変ろうとする意思、自分から実践しようとする態度、この小さなことが人々の日常に少しずつ変化を与えたということです。
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幸福な世界 7

2015-08-09 06:31:33 | 韓で遊ぶ


母の貧乏性
今日も朝から、大したことでもないことで母と口げんかをしなければなりませんでした。
「母さん、このブラウスまた手洗いしたの。これはドライクリーニングしなければならないと何回も言ったじゃないの。」
「手洗いしたって同じなのに、何もお金を出して人に頼まなくても。」
顔さえ見れば、あれこれともめる私たち母娘が、一緒に暮らす理由は幼い娘のためです。母は共稼ぎの私たち夫婦の代わりに娘の世話をしてくれています。考えてみると、争いの始まりはすべて母の貧乏性にあると言えます。新しい下着を買ってあげても、古くなって捨てたものを拾って着ます。食卓に座ってもそうです。魚を出すと魚の身に見向きもせずに骨だけを取り出しチュウチュウしゃぶったりしますから。娘は祖母がどうしてそうなのか気になるようです。
「おばあちゃん、おばあちゃんはなぜ魚の骨だけを食べるの。」
「うん、ばあちゃんは、これが一番好きだから。」
母はいつも同じことで私と喧嘩しても、変わる事を知りません。夫が出張に行った日の夜にもそうでした。
その夜のお釜の中には、母と娘の食べる量のご飯しかありませんでした。冷蔵庫に冷たいご飯が一膳ありましたが、電子レンジが故障していました。だからと言って新しくご飯を炊くのも嫌だったので、仕方なく冷たいご飯に水をかけて食べようとテーブルの上においたら、よりによってその時電話がかかってきました。ですが、話をしている間に母が先手を取っているではありませんか。母は私が食べようと置いておいた冷たいご飯に水をかけてもぐもぐ食べていました。それを見た私はカッとして、ご飯茶碗を取り上げ、声を上げました。
「母さんのご飯はここにあるじゃないの。何で私のご飯を食べるの。」
これに負けずに母はご飯茶碗を取り返して言いました。
「私も自分の娘に暖かいご飯を食べさせたいのだよ。お前は私の娘だから。」
私は母の一言が胸にぐっときて鼻先がうずきました。
「母さん、、、、」
母の貧乏性のせいで一日に何回もあれやこれやと言い争うけれど、それは私にひとつでもおいしいものを食べさせたい、着せたいという「母の気持ち」だからでした。母から受けた愛を大事に思って、これからは少しずつ返さなければならないと思います。
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幸福な世界 7

2015-08-08 06:27:10 | 韓で遊ぶ


5年ぶりの客
少し前に意外な電話を受けて胸につきあがるものがありました。
全く思いもかけないことだったので少なからず動揺しました。
「もしかして、私を覚えていますか。5年前インターネットカフェに文章を投稿した母親です。」
その言葉を聞くなり、5年前のことをぼんやり思い出しました。5年前、私が加入していたあるインターネットカフェに、一人の母親が苦しい事情を寄せたことがありました。
夫が急に死んで、子供を育てるのが大変で、暮らし向きも大変で助けてくれという内容でした。
嘘なのか本当なのか、会員たちの間で論議は起こりましたが、友達と私は本当だというところに意見をまとめました。
私たちは、すぐに子供用品を買って母親に送りました。
見返りを求めてしたことではありませんでした。ただ、快く受け取ってくださいというメールは送ってあげました。ですが、何の連絡もないとだまされたのかしらという思いもして不愉快になりました。
ですが、それから5年ぶりにその母親が会いたいと言う連絡をくれたのでした。
電話を受けた週の土曜日の午後、母親はいつの間にか大きくなった子供をつれて私の家に来ました。初対面だったのですが不思議なほどになじみのある思いがしました。
「私の電話でひどく驚かれたでしょ。電話番号が変わっていなくて本当に良かったです。」
彼女は、あの時は本当にありがたかったとお礼を言いました。そしてこの間の暮らしを少しずつ話しました。
夫が急に亡くなった後、赤ん坊と共に生きていくのが漠然としていた頃、彼女はわらでもすがる思いでインターネットカフェに文章を載せたと言いました。
思いもよらずネット仲間が物心両面で支援してくれたおかげで元気を取り戻したと言いました。
「本当に、期待もしていませんでした。ですが多くの方々が助けてくれたんです。私にとってどれだけ大きな力になったかわかりません。」
あまりにも大変で疲れていて感謝の挨拶も全くする余裕が無かったと言いました。それで遅くなっても必ず恩返しをするために連絡先を残しておいて、やっと今になって一人一人訪ねていると言いました。
「これは私が焼いたクッキーです。少ないのですが私の気持ちだと思って受け取ってください。」
おいしそうなクッキーがいっぱいに入った箱には、息子と共に撮った写真が1枚入っていました。写真の中には感謝の文章も書かれていました。
「私の家族の笑顔を守ってくれた、すべての皆様に心からお礼を申し上げます。」
5年前の返事のないことに寂しい思いをしたことをすまないと思うほどに美しい贈り物でした。小さな種ひとつが多くの実を結ぶように、人の小さな真心がひとつ二つと集まって母親の心に希望の芽を育ててあげたということです。そして5年の間、その感謝の心を持って遅ればせながら助けてくれた人々を訪ねる彼女の勇気に拍手を送りたい。
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幸福な世界 7

2015-08-07 08:13:00 | 韓で遊ぶ


待ってあげただけです
発達障害がある息子を一般学級に入れることは一種の冒険でした。
息子は、どこでもきゃあきゃあと声を出して授業の支障になったりしました。
「うぁ、うぁ、あ、あ。」
息子を特殊学級に入れなかったのは、一般学級の教育が発達障害の治療にいいと信じたからでした。ですが、急な突発行動のために、息子は1,2年生の大部分を特殊クラスで過ごしました。ですが、息子に変化が起きたのは3年生になってからでした。息子は授業の時間に、それ以上は声を上げませんでした。
席に座って本を読んだり、一人で昼ごはんを食べたりしました。子供の行動がその様に大きく変わった秘訣は担任の先生にありました。
「私がしたといっても、信じて待ったことの他にありませんよ。」
先生は息子が変る事を願いながら、いろいろな規則を作り、酷なくらいに黙って待っていたのでした。
体育の時間になると、息子が服を着替えるまでクラスの子供たちを待たせ、足野球をする時も息子が先にボールを蹴れるように配慮してくれました。息子がきれいにご飯を食べ終わるままで、連絡帳を全部書き終わるまで、先生の指示に従って子供たちは無条件に待ちました。どんなにのろい動きでも先生は顔をしかめたり怒ったりしませんでした。
その前までは、息子は運動会となると片隅で見物だけをしなければならない身の上でした。今までそうしてきました。ですが、3年生になってからは、友達と一緒に仲良く太鼓踊りを披露しました。ふわりふわりと楽しそうに踊りを踊る息子を見るなり胸がつかえました。
息子は力いっぱい体を動かしました。先生は愛のこもったまなざしで息子の踊りを見ていました。私は胸が詰まって涙が出そうなのをぐっと我慢しましたが、結局は泣き出してしまいました。
「よくやったわ。先生ありがとうございます。ううう、、、。」
先生は、子供を心から愛する方法を教えてくれました。深い愛情を持って、子供が一人でもやりとげられると信じてじっと待つこと。これこそが先生が子供を教える方法であり、うちの子を変化させた秘密でした。
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