連日のこの暑さにララがまたまた逃亡した。
朝起きるとララが逃亡したと昭南さんが騒いでいた。
ベランダの網戸が少し開けられていた・・・。
私はすぐに着替えてどうせまた家の周りをウロウロしているのだろうと
捜しに行こうとしていたら、いたいた、蝶を追いかけている・・・・・という声に
外を見ると、なになに目の前の昭南菜園のトマト畑にいるではないか・・・・。
ほんとにマッタク・・・ララは弱虫というか用心ぶかいんだから・・・・・・と2人で
大笑いしてしまった。
逃亡してトマト畑で涼んでいるのか・・・・隠れたつもりでいるのか・・・
土の匂いを楽しんでいるララ君
昨日室蘭の姉夫婦が来た。義兄さんのきょうだいが伊達温泉に集まり一泊したとのこと
東京に帰る人を送らなければならないと早々に帰って行った・・・。
何かしらきょうだいはホットしていいもんだ・・・・。
姉は私と八歳違うので早速今いろいろと調べている樺太でのことを聞いてみると
さすが引き揚げ船の船の名前まで知っていた・・・・。
徳寿丸というので樺太の資料を調べてみると、あったあった
姉の記憶をたどり正確な日も解った・・・・・・。
わたしたち家族祖母、伯母、父母、兄3人、姉の計9名が真岡港から引き揚げたのは
昭和23年5月23日だったのだ。1481名だった。その中に私も含まれていたと思うと
感無量である・・・。
でもあとでゆっくり調べてみると資料には徳寿丸は6月19日、7月1日、7月15日にも出港している
伊達ですぐ運動会があったという姉の記憶から私は6月だったような気がする・・・・。
まてまて、この資料は函館着の資料だった・・・ますます6月だろう・・・。
終戦直後の引き揚げ船が爆撃されて以来初めて引き揚げ船が出たのは21年12月からだった。24年7月
までナホトカを含めると348、675人にもなる。
その時点で残留者は1900名もいる。
今昭南さんは「終わらざる夏」を読んだばかりなので、2人で当時のソ連軍の
火事場泥棒的やり口に、改めて憤慨して・・・やりきれない、やり場の無い
怒りを感じている。
日本もそりゃ、戦争中は悪いことをあちこちでしたけどさー、
降伏した後でなぜ攻めるのさ・・・・それに捕虜にしてシベリアまでにも連れていき
満足な食料も与えず極寒の地で強制労働をさせ、6万人もの人を殺し、マッタク
人間ではない・・・。
先日新聞を読んでいたらその中には15歳の少年も含まれていたとのこと・・・。