昨日道新を読んでいたから
鈴木 しづ子という俳人知っている?
と聞かれたが
聞いたことのない名
道新の卓上四季
「コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ」を読み
興味がわいたのでネットで調べた。
ウィキペデイアより
1919(大正8)年6月、東京市神田区三河町生まれ。父の俊雄は日本大学工学部卒で間組に勤務する会社員だった。東京淑徳高等女学校(現淑徳中学校・高等学校)卒。女子大学(府立高女)への入学に失敗し製図の専門学校に学び、1940(昭和15)年に製図工(インダストリアルデザイナー)として岡本工作機械製作所(その後GHQの接収により東芝車輌となる)に入社。男性名で詩誌に甘美な詩を寄せ、臼田亞浪の俳誌『石楠』に投句。上司の誘いで社内の俳句サークルに参加し、松村巨湫に師事。1943(昭和18)年、巨湫主宰の句誌「樹海」に投句するようになる。戦争中に母の綾子を亡くし、婚約者の戦死を知る。1946(昭和21)年に第一句集『春雷』を刊行。若い女性俳人の句集として話題となる。1948年に55歳の父親が32歳の女性と再婚する。
職場結婚をするも1年余りで解消し、岐阜市に移住。岐阜にはアララギ派の歌人だった叔母の山田(旧姓:鈴木)朝子が住んでいた。1950(昭和25)年より柳ヶ瀬でダンスホールのダンサーとなり、その後那加町(現各務原市)の進駐軍向けキャバレーに勤務。そこで出会った黒人の米兵と同棲を始めるが、彼は朝鮮戦争に出兵となり麻薬常習者となった末に母国に帰還して没した。そうした中で1952(昭和27)年、師・巨湫宛に送られていた未発表作品をまとめた第二句集『指環』が刊行され、週刊誌でも取り上げられる。「樹海」の同人仲間たちが、しづ子にほぼ無断で完成させたものだった。しづ子は出版記念会には姿を現したものの、同年9月15日付の投句を最後に消息不明となる。『指環』は娼婦俳句と蔑まれながらも性の解放の時流にあって高く評価され、世間に『樹海』の存在を強く印象付けた反面、泥に落ちた女というしづ子への烙印を色濃くした。しづ子は恋人の米兵が出征したころから岐阜から巨湫へ毎日俳句を郵送しており、それら大量の未発表句をもとに巨湫は、しづ子の消息不明後も1963年まで『樹海』にしづ子の句を掲載し続けた。
戦中戦後の混乱期を、自らの意志に沿って思いのままに生きた俳人。消息を絶った後は「赤線の娼婦となり、アルコールに溺れた廃人となって自殺した」という噂が流布されていたが、それを示す証拠はない。その生涯は永らくベールにつつまれていたが、江宮隆之の小説『凍てる指-しづ子幻詠』、『風のささやき-しづ子絶唱』(いずれも河出書房新社刊)で解明された。しづ子の映画化を企画していた黒澤エンタープライゼズ所属の川村蘭太(本名・川村義之)は、マイナーな俳句結社であった「樹海」の同人たちがその名を高めるためにしづ子のスキャンダル性を寄ってたかって作り伝説化した可能性を指摘している。川村によるとしづ子の未発表句は7300ほどあったという。
代表作
- 夏みかん酢つぱしいまさら純潔など
- 夫ならぬひとによりそふ青嵐
- 娼婦またよきか熟れたる柿食うぶ
恋の夢わたしは匂うものさえない
男の体臭かがねばさみしい私になった
ひとに手をあづけて心盗みおり
日雇女と違わざる汗踊りて滴らす
花火消ゆ純潔とおき日の果てに
厨にて老ゆる女となるのはいや
夫ならぬ人の唇あまし夜の新樹
人を愛する血が激ちては陥ちゆけり
三百六十五夜男いて性根崩さるる
生きようと化粧私をなくし出ず
花活ければ孤独の相やりきれず
公園の真夜の接吻擦るひびき
札束の無礼月夜を唾し帰る
死ぬと云う男の銭や得て生くる
娼婦と違ふ夜の灯の暗さ撥ねかえす
暗き灯の飲食美衣と云うなかれ
慄然と病めば死ぬ身と決めてひとり
女とは妥協なき暗さ今日も昏れぬ
燃えぬ身のドレス落ちゆくあきらめり
文学とおしここに陥ちゆくひとりのおんな
眉かきてジルバはさびしき男に
私は、「夏みかん酢っぱしいまさら純潔など」の句が好き
奔放で情熱的な破天荒な女性だったのネ
今度本を買って読んでみよう・・・。
当時の時代背景もあるのでしょうが
ここまで自由に奔放に生きることが出来れば
後悔や悔いのない生涯だったのではないでしょうか。
俳句が心のよりどころでありプライドだったんだろうと
思われます。
ある意味羨ましいくらいの生き方ですね
私も本を買って読んでみます
教えてくれてありがとうございます
私もこういう生活に憧れますが
現実はそうも行きません。
でも
一般の女性よりは自由に生きてきたかしら・・・。
人生の終盤に近付いているのに
心はいつも動揺しています。