伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

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私の北の桜守

2018-03-18 19:54:00 | 樺太
 今朝新聞を読んでいたが、シズ子さんが書いた文章かと思った・・・

 と驚いて見せてくれた。道新の読者の声欄で「「北の桜守に人生重ねる」と

 いうエッセイで、5歳の筆者が樺太の大泊港で迷子になったという内容。

 昭和20年8月22日に大泊で緊急疎開船3隻が留萌沖などで潜水艦の攻撃

 を受け、約1700人が犠牲となり、その直前に別の船で疎開したとのこと。


 


 私たち一家は幸い3隻に乗れなかったが、3年後の昭和23年の夏に引き

 揚げてきた。当時の筆者と同年齢で末っ子の私だけは大泊に出るのに知人の

 馬車に乗せてもらった。

 私は大泊の港でここで待っていなさい・・・と言われるまま母たちの来るのを

 何時間も泣きながら待っていた。もう自分の人生はこれで終わりか・・・と思

 うほど悲しくて辛い長い時間だった。

 綿糸で編んだリュックの中に自分の小さな人生をぎっしり積み込み、胸には布

 で住所・本籍・親の名前・生年月日と自分の名前を大きく書かれた名札がしっ

 かり縫いつけられていた。が誰も私のことなど気にもとめていなかった。

 大泊はすごい混雑で、主のいない馬が沢山走っていたらしいが、小さな私には

 そんなことは目に入らなかった。ただひたすら身も世もなく泣き続けていた記憶

 だけが鮮明に残っている。父の遠縁を頼って伊達の地に降りた時は、ここは別世界

 天国か・・・と嬉しかった。

 亡き母にも当時のことは辛くて聴けなかったが、あの時のことは、自分の心の

 中に葬っていたように思う。8歳上の姉に聴いても、みんな忘れていたと言っ

 て多くを語らない、彼女もまた自分の中に封印しているのかも知れない。

 私も「北の桜守」を観たいと思っているが大泊港の映像では号泣してしまうか

 も・・・。


  この文章を縮小して道新の「いずみ」に応募したが多分

  載らないでしょう・・・ふっふ


  でもここからコピーする方法を知ったので一つ利口になった。

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