木口屋に人が住み始めたのは戦国時代末期~江戸時代初期のようです。もともとは金峰町阿多区に住んでいた人たちが移住してきたようです。日向国(宮崎県)方面に移住するつもりが方向を間違って枕崎の方に来たようです。
●くっちゃ(口屋) ...(今はクッジャと呼んでます)
金山に出入りする人を監視するところを口屋といった。東の方の口屋は集落入口の三差路にあったといわれ、ここには大きな木があったので、西の口屋と区別する必要上「木口屋」と名付けられたものであるという。
●ととぼい
「外堀」と書き、山口から木口屋に向う市道の途中にある小字名である。その東を内堀という。昔、ここでは早馬が行われていた。「堀」は「堤」で見物の場所であった。馬頭観音がいまに残っている。
●もとせいば
「本砕場」と書く。宇都から木口屋に向う途中にある小字名である。砕場は製錬所であって、昔ここに金山があり、その製錬場のあったところである。木口屋公民館前に建てられている地蔵像は、本砕場から移したものであるという。
以上、紹介するよう指令を受けていましたので、書きました。たぶん「枕崎市史」の575ページから引用です。それにしても、ご先祖さまたちは、方向オンチなのかあきらめやすいのか、日向と木口屋では方向も距離もずいぶん違うと思うんですが...
●くっちゃ(口屋) ...(今はクッジャと呼んでます)
金山に出入りする人を監視するところを口屋といった。東の方の口屋は集落入口の三差路にあったといわれ、ここには大きな木があったので、西の口屋と区別する必要上「木口屋」と名付けられたものであるという。
●ととぼい
「外堀」と書き、山口から木口屋に向う市道の途中にある小字名である。その東を内堀という。昔、ここでは早馬が行われていた。「堀」は「堤」で見物の場所であった。馬頭観音がいまに残っている。
●もとせいば
「本砕場」と書く。宇都から木口屋に向う途中にある小字名である。砕場は製錬所であって、昔ここに金山があり、その製錬場のあったところである。木口屋公民館前に建てられている地蔵像は、本砕場から移したものであるという。
以上、紹介するよう指令を受けていましたので、書きました。たぶん「枕崎市史」の575ページから引用です。それにしても、ご先祖さまたちは、方向オンチなのかあきらめやすいのか、日向と木口屋では方向も距離もずいぶん違うと思うんですが...
経緯はいろいろあったが 総じてそんなところで良いと思うよ ただ年代が江戸時代に入って数十年経過しとったと思うが わしも記憶が定かでないもんで・・・
わしは 今ナカンモイの先祖の墓に眠ってるよ
であるから 祖之助さん一行も 方角を間違ったとは信じがたい おそらく日向方面へ行くというのは名目だけで 新天地を探しながらの移動だったのではないか
阿多から日向方面へは薩摩半島の高い尾根を越えなければならない 女の足では無理 そこで一旦南下のコースをとったというのが理解しやすいが・・・ 如何に
もっと詳しい情報がありましたら追加してください。
田布川、金山から山道を踏み入ったか 桜之城麓から川辺線(昔の道は 今の国道ではなく木口屋寄りであった)を上る途中ととぼい付近からキグッヂャに踏み入ったか
いづれにしても ととぼい付近までは既に所有者が決まっていたので丘を越えたキグッヂャしかなかったのであろう
新天地にはコンコンと湧き出る水や川があり 平たん地もあった(木口屋入口付近から旧農協界隈) 旗山からの眺めもよかった
それに女 子供連れで 荷物も多いし これ以上の移動歩行は困難と判断し 隊長祖之助氏は協議の上 ここを安住の地と定めた な~んてことが推測されるが・・・ 如何に
枕崎市誌はまだ半額で提供しているようです 詳しくは枕崎市HPで・・・
ところで、キグッジャの梅は咲きましたか?