1764年4月15日は『ポンパドゥール侯爵夫人』の忌日?
フランス国王ルイ15世の寵姫、公妾?
現大統領官邸エリゼ宮も邸宅のひとつ?
「ローズポンパドゥール」は夫人が好んだ色「ポンパドゥールピンク」に由来する四季咲きフレンチローズ?? pic.twitter.com/lwBKpig6Fl
1938年4月15日は『クラウディア・カルディナーレ』の誕生日?
大好きなヴィスコンティ映画の伊女優?「山猫、熊座の淡き星影」等。
セクシー女優(CC)として(BB)ブリジット・バルドー、マリリン・モンロー(MM)と。その名の薔薇も? pic.twitter.com/5voXDDkzp3
【滋賀・向源寺/十一面観音立像(平安初期)】後頭部の暴悪大笑面を拝観できるように、フロアの中程に展示され、背後を見ることができる。寺伝では天平8年に泰澄が造ったとされるが、像容に密教の影響があることから平安初期の作品とみられる。 pic.twitter.com/qR4Lygfwvu
ー昨日~今日は太陽・エリスの合と金星・土星・アスボルス・オルクスのGクロスの日。エリスは「自分の中の打ち捨てられた(または自ら打ち捨ててきた)部分ともう一度再会してすくい上げる」という意味があるし、オルクスはあらゆる「嘘つき」への容赦無い鉄槌を意味する。端折れば土星は現実化かな
Gクロスには金星・アスボルスが絡むので、何があろうと、自分の「体」全体でスッキリ感じる結末を迎えられるのが一番いいと思う。そういうサバイバル。何かあったひとは、それが贖いであろうと許しであろうと、自分が胸をはってもう一度綺麗な自分と向き合い、進んでいけるように姿勢を創る機会かも!
けれど、もしこの数日で濾過できない怒りを抱えてしまったひとがいるなら、19日の新月までに、何とかそのエネルギーを他人を巻き込むことなく自分自身が前に進むためのバネに変換出来たら一番いいな。そんなエネルギーだと思う
某有料動画サイトで「お試し無料期間」を提供してもらったので、アナと雪の女王を改めて観た。で、改めてみた感想として「怒るほどのことじゃないな」と思い直した。
逆に何故私はあそこまで怒ってたのだろう?と、昨日から振り返ってた。これがグラクロ効果なのかしら…>打ち捨てられた自分との再会
ぶっちゃけ、すんごく期待して、ワクワクしながらわざわざ映画館まで足を運んだのに、裏切られた反動がきつかったのだろうと思う。
何度見てもシナリオは納得出来ないし、キャラの使い方も酷いと思うし、重要な伏線を無視しているのも何だかなあと思うが、エンターテイメントとしては最高なんだよね。
なんちゃって北欧の世界観で構成されているが、結局中身はアメリカンな乙女たちの話だし、姉妹のドロドロを描くには尺が足らない&ディズニーには相応しくない ということなんだと思う。
あとやはり、美女と野獣と比較されることが我慢ならなかったんだとも。
何度見ても内容的には美女と野獣をかなり意識している構成になっているし、真実の愛はこちらこそが本物ですよ!みたいな宣伝が我慢できなかった。美女と野獣は性別どころか生物的な枠も超えた愛を見事に表現していること、愛以上に、受け入れてもらえない苦しみなど、言外の表現が見事だった
美女と野獣公開直後に、フェミ団体のせいで批判されたトラウマの解消のために、わざと今までの定番パターンをゴリ押しした上で裏切るという、破壊行為にも我慢できなかった。
最初のハンス王子とのワクワクするようなミュージカルシーンを、全て粉々にしてしまうやり方など、今でも納得出来ない。
あと普通に公開されているだけならここまで思わなかったとだろうが、この映画を出汁にしてフェミ達が自己肯定感に酔っている事も我慢できなかった。
「ありままの自分で生きることって大変なことなんだよ」と伊集院光がコメントして批判されたが、彼のコメントは的を得ていると思う。
…と、結局批判しちゃっているのだが、不愉快さがなければ、ブルーレイを買って何度も見直したいくらい、映像も音楽も素晴らしいんだよね。最後のほうは、最初見ていた時はイライラして把握してなかったが、クリストフとアナの自然な愛情の高まりとか、ああ、いい感じじゃないのとホッと安堵したし。
難しいことをぬきにして、子供向けにわかりやすく、姉妹愛を表現したディズニー映画と捉えれば、少々の矛盾を抜きにしてシナリオの稚拙さも目をつぶれば、面白い映画として爽快感をもって楽しめるのかもなぁとも…。
まあしかしやはり…結局ヴィランズを描くことはディズニーには出来ないのかもね。
ヴィランズという、物語の「悪」を全て引き受けて流れる厄祓いの「ひとがた」は用意しても、彼らの心情に迫るところまではディズニーは出来ないし、目指していないのかもしれない。
動画サイトでマレフィセントも観たが、アンジーおすてき映画になってて、結局マレフィセントは良い人になってる。
実は自分の中にも、秩序を守る善なるものと、秩序を壊す悪なるものは同居しているのだが、というか正義や善悪というもの自体が、とても曖昧で簡単に変わるものでもあるのだが、それをしてしまうことは西欧的価値観ではあり得ないことなのかもしれない。
私が最初に観た時に悲しかったのは、アナとエルサそれぞれの、描けなかった本来の彼女たちの「シャドウ」の部分が、自分の中のそれとリンクしていたからかなぁ…とも思ってる。
それが「打ち捨てられた自分との再会」なのかもね。
何しても、感情的になって怒る時は、必ず自分の中の何かと繋がってしまってるんだよね。
アナ雪が好きな人には不快な思いをさせてしまったと思います。謝罪します。
『「いいこと書いてますね」と言われることが増えましたが、僕がいいことを書いているのではなく、「いいことを書いている」と思えるその人がいい人。「偏見だ」と思う人はその人に偏見があり、「悪意がある」と思う人には悪意がある。』すべては受け手次第で決まるもの
自分の話したい事と他人が聞きたい事は違うもので、上手に一致させらせる人は運の流れに乗る場合が多い
自我を無くし、自我を消す、自我が無くなれば、運の流れに乗れるようになる
他人の喜びが自分の喜び変換できる人は幸運を掴むもの。自分だけの喜びに生きる人は、必ず苦労と不運を掴むもの。