国道500号を朝倉方面へ走っていると、屋外にある小型ジェット機が目を引きます。屋根には「太刀洗レトロステーション」の看板が。中には昭和時代の生活用品など1,500点余りが展示されています。以前、この建物は旧国鉄甘木線の太刀洗駅舎でした。
建物は元駅舎をそのまま利用しており、少し雑然としています。管理人にお断りして写真を撮りました。
これは五右衛門風呂です。小学生の時に友達の家で一度だけ入ったことがあります。周りは木材なので、中の釜だけ持ってきたようです。
これは桶風呂。見たことがあるような気もしますが、記憶が曖昧です。
学生時代に、下宿で使っていた物よりも古いタイプです。
同じ形の、これより少し小さな火鉢を家で使っていました。この上で餅を焼いたりお好み焼きを作ったりしました。薬缶でお湯を沸かすのも火鉢でした。その頃は部屋の真ん中に火鉢がありました。電気こたつを使うようになって火鉢の居場所がなくなりました。
小学生の頃、これも家にありました。何の料理に使っていたのかは分かりません。母が蒸しパンを作ってくれたような覚えもあるのですが。
懐かしいアルマイト製(?)の弁当箱です。この弁当箱には覚えがありますが、使っていた場面が思い出せません。
昆虫採集セットは夏休みの定番でした。中には注射器と殺虫液と防腐剤の瓶が入っていました。でも効き目はありませんでした。子ども向けですから、安全第一だったのでしょう。金網の虫籠もお馴染みでした。
電気スリッパ。高校3年生の時、部屋で受験勉強をするのにお世話になりました。まだ空調機がない時代です。石油ストーブは家族が使っていましたから、私は褞袍に電気スリッパでした。頭寒足熱で重宝しました。
右手にあるのは豆炭あんかです。これらの品々を見ていると、昔の自分に出会ったような気がします。
昔の小学生には戦艦や戦闘機の模型が人気でした。学校近くの文房具屋さんや模型店にありました。いまも模型店はあるのでしょうか。お金がない私には縁がありませんでしたが、箱の絵を見るだけでもワクワクしました。
元駅舎だけあって、国鉄関連の品物もあります。向こうの部屋には電気製品やカメラが展示されています。
これはいつ頃の製品でしょうか。結構大きいテレビです。まだ小さな画面で見ていたころ、テレビに取り付けて画面を大きく見せる拡大鏡がありました。
これは相当古いラジオですね。まだ現役です。管理人の方がスイッチを入れてラジオ放送を聴かせてくれました。
手回し式計算機です。就職を間近に控えた春休みに帰郷すると兄が、就職すると仕事でそろばんが必要になるぞと言いました。そろばんが苦手だった私は、採用試験にそんな科目はなかったわいと少々慌てました。
しかし入ってみると、タイガーの手回し式計算機がありました。しばらくすると各課に大型の電卓が配布され、私がそろばんで悩むことはありませんでした。
ここは昭和の展示館になっていますが、もともとは篤志家が昭和62年に「大刀洗平和記念館」として開設したものです。戦時中の資料を展示していましたが、平成21年に町立の平和記念館が出来ると、所蔵する2千点以上の資料を町に寄付されました。
太刀洗駅は旧陸軍の大刀洗飛行場の最寄り駅でした。戦前は多くの兵士や家族で町は賑わい、この駅を利用しました。写真は駅舎からホームに行く地下通路です。いまは途中で塞がれています。
向こうに見えるのが甘木鉄道のプラットホームです。地下通路からホームに上がる階段があります。もちろん今は使えません。甘木鉄道は国鉄甘木線の廃止を受けて設立された第3セクターです。太刀洗駅は今は無人駅となっています。
平成8年、博多湾で九七式戦闘機が引き揚げられました。機は修復復元されてここに展示されていました。その後、町立の平和記念館の開設時に他の資料とともに町に寄付されました。いまは大刀洗平和記念館内に展示されています。現存する唯一の機体です。
目の前の道路を隔てて2代目の平和記念館があります。
懐かしい物ばかりです。
薔薇の花の弁当箱は持ってました・・・それでも、今みたいにおかずは入っていなかった当時の生活が一気に蘇って来ました。
そして気になる「太刀洗」という地名です。
明治初期の町村制施行で太刀洗が村になった時、国の役人が間違って「太」を「大」としたため、そのまま「大刀洗村」になりました。
いまも大刀洗川という川があります。
でも駅名は「太刀洗駅」です。記念館は「大刀洗平和記念館」
しかも両方とも所在地は大刀洗町ではなく、隣町の三輪町です。
少々ややこしいです。
中でも当大刀洗川は戦の後、太刀などを洗って血で真っ赤に染まったそうですね。子供の頃聞いたことがあります。
南北朝の時代、この時の合戦は筑後川の戦いといって、日本三大合戦の一つだそうです。
この辺りには戦いにちなむ地名が今も残っています。