川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

東京都立池袋商業高校<1-7>クラス会

2009-05-04 03:42:16 | 友人たち
 土曜日(5月2日)に75年度池商<1-7>のクラス会がありました。
 仕事の都合でどうしても本番にでられない根本くんが4時には会場に来ているというので「銀座・麒麟」に出かけました。この店の料理長をしている松島くんと二人で久闊を叙しているところでした。
 15歳の少年が白髪交じりのおじさんになって笑顔で迎えてくれました。今は大田市場にある野菜の仲買卸商のベテランです。やんちゃで怖がる人もいた(?)といいますが穏やかな風貌のどこにもその気配は残っていません。夜中からの仕事です。日本全国からの野菜の流通の要にいて欠かせない仕事師になっているようです。旧友の薦めで毎日ニンニクの世話になっているぼくはさっそくニンニク確保作戦の相談をしました。
 今年50になると言います。それぞれに一筋の道を歩いて来た二人です。二人の出会いの風景は何ともいえないいいものです。
 定刻の5時が近づくにつれて一人、また一人と入室してきます。名簿とにらめっこしながら名前を確かめていきます。ほとんどの人をたちどころに思い起こすことが出来ました。なんということか、一番わかりにくかったのが幹事長の大久保さんです。
 ぼくがみんなに会いたいと頼んだときから電話でもメールでも何度もやりとりをしています。ぼくの中では15歳の時の小柄で可愛いしっかりもののイメージが焼き付いたままです。どこでどういう風に鍛えられたのか、しっかり者には違いないけれど自信に裏付けられたバイタリティあふれる中年女性に変貌していたのです。
 この人がいてくれたお陰でこの喜びの日を迎えることが出来ました。それでも男子17名中5名、女子29名中13名の消息は今なおつかめないということです。
 本番がはじまり一人一人のスピーチがあります。ぼくはこれを聴くのが一番の楽しみです。最後にぼくの一言(?)が終わりかけた頃、根本くんが顔を出してくれました。誰もが嬉しさでいっぱいでした。仕事場に帰ってやりくりをする事が出来たのでしょうか。一生に何度もあるというわけではないこの機会を大切に思って帰ってきてくれたのでしょう。
 結局、私たち夫婦を含めて22人の人生が出会いました。信州の奥島くんなど数名のメッセージも大久保さんから紹介されました。
 交流は4時間以上に及びました。ぼくはいつもの通り話しに夢中になって、松島料理長の自慢の料理を味わうことができません。(帰りの電車の中で、無類の食いしん坊である妻がさすがだとほめていました)。
 上越(新潟県)から駆けつけてくれた佐々木さんは遠い日のことを思い出させてくれました。入学早々の5月、お父さんを亡くしました。ぼくが心配して「鳥越奨学金」を申請し、浅草での面接に同行したとのことです。返済も不要で助かりましたとお土産まで貰いました。「面接に同行」の場面はどうしても思い起こすことが出来ません。
 教員にとっては当然の行為でも一人の生徒とその母親には一生覚えて置いてもらえるとはなんとありがたいことでしょう。(ぼくは鳥越奨学金を運営してくださった方々に改めてお礼を言いたくなり、パソコンであたってみましたが出てきません)。佐々木さんはお母さんの故郷に帰り今回は夫婦でやってきたと言います。在学中にも川越を訪ねてくれたことがあるそうで妻との会話も弾んでいるようでした。
 生まれたときから視覚障害を持つお子さんが今年高校に入学したという洋子さんの話も印象に残りました。友人の野辺明子さんや田中典子さんの人生を思い起こしながら聞きました。元もと優しい人ですが息子さんと歩む人生が力強さを付け加えてくれたのではないかと思います。友人達と川越を訪ねてくれるそうです。
 ぼくと同じように病気と闘っている人もいます。でも、どの人の顔も明るく輝いて15か16の<1-7>のHRが蘇ってきたようです。
 どなたかが言いました。たしかに、30数年ぶりに「高一」のクラス会をやるなどということはそうは無いことです。よっぽど仲が良かったということでしょう。
 
 ぼくにとっては貴重な証言がありました。
 「先生に殴られた。自分の人生の愛の鞭だった」。憲之くん。ぼくが殴った生徒がいるなんてもうスッカリ忘れていたことです。大島への解散旅行での出来事だったそうです。「たばこ」か「酒」かのお仕置きです。
 大島に行くにあたって酒とたばこを禁ずるとぼくが強く言い聞かせたという証言がありました。2年生以後、このような「クラス旅行」は特例中の特例で2度と無いことだとある先生に言われたという話しも出てきました。「特例中の特例」をやるにあたってぼくもかなり緊張していたのでしょう。それにしてもいまもって思い起こすことが出来ません。こんな調子だとまだまだあるのかも知れませんね。
 警察官になりたいと言ったら「国家権力の犬になりたいのか」と言われた人がいたとの証言もありました。この種の言動が当時のぼくにはあったことが想像されます。一面的なものいいで教員としては不適当な言葉です。言われた人は誰なのかわかりませんがどういう思いをしたのでしょうか。
 
 非常勤講師の人々の専任化の闘いや、ぼくの「全員5」を廻って職場が分裂し、組合が少数派になった直後です。「主任」の廃止、制服の廃止、カリキュラムの改訂など5年間に亘る私たちの学校改革が後退を余儀なくされていました。改革運動の中心にいるとみなされたぼくに対する批判をぼくが担任する生徒に向ける卑劣な教員もいました。
 そんな中で子どもたちの置かれている生活の現実とより深くきり結び、ともに学び共に生きる歩みを一歩でも印したいとぼくは緊張し、かつ、張り切っていたはずです。5月には他の学校の人たちにも呼びかけて「在日朝鮮人生徒の教育を考える会」を発足させています。夏休みには3年続けて北海道・池田町の農家に3年生有志を連れて行きました。

 いうなれば「ぼくがぼくになる」闘いの最中に生徒であることを運命づけられた皆さんです。ぼくにはいい面もどうしようもない面もあったに違いありません。そんなぼくを「先生」として受け入れて、30数年後に夢のような時間を作ってくれました。ただただ、感謝あるのみです。

 大久保さんがメールをくれました。一部を紹介します。


 昨日は本当に懐かしく楽しい、夢のような時間でした。
 一気に1年7組にタイムスリップでしたね。
 みんなの笑顔に出会え、あらたな思い出となりました。
 私以外?は、みんな変わっていなくて、嬉しい驚きでしたし、私の変化?も皆さ んへ笑顔の元となり、それはそれで、まぁいいか!でした。
 段取りが悪くて、スミマセンでした。この反省は次回に生かしたいと思います。
 思いがけず、クラス会の機会を作って頂いて、先生には心より感謝申し上げま  す。
 ありがとうございました。
 これを機に、また数年後にでも、できたら良いなぁ…と思います。それまでは、 先生も元気でいて下さらないと、だめですよ!
 私もダイエットしておきますので(笑)

 信州で自動車教習所の教官をしている奥島くんから送られてきた近影が添えられています。いかにも先生といったスーツ姿です。会ってみたいなあ。

 ぼくのことですから大久保さんの言葉を真に受けてまた会う日を楽しみにし続けることでしょう。