川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

朝鮮族自治州

2009-05-20 20:09:40 | 出会いの旅
 突然の暑さのためか体調が今ひとつです。2004年7月、中国吉林省朝鮮族自治州を訪ねたとき、妻が書いた文章(「木苺」125号)を紹介します。


  国境の街・延吉で聞いた話
                         鈴木倫子(川越市)

 しょぼしょぼと冷たい雨の降る延吉空港で私たち一行を待っていてくれたのは、現地ガイドのAさん。朝鮮族の女性だった。
 到着が夜中の12時にもなろうという時間。私たちも疲れていたが、明るい笑顔で迎えてくれたAさんも、くたびれた顔色だった。
 翌朝ホテルへ来たときは、前夜のスカート、パンプスといった「お出迎えモード」とはうって変わったカジュアルなパンツルックで、はじけそうな女の子。一瞬、別人かと思ったほど。聞けば、私の息子と同年ぐらい、夫も子どももいるのだから、けっして「女の子」なんかじゃないのだけれど、とにかく元気いっぱい、よく笑い、闊達におしゃべりしてくれた。
 埼玉にある留学生のための宿舎で暮らし、東大宮のスーパーなどでアルバイトをしながら日本語学校に通っていたというAさんの「ガイド」は、紋切り型のそれではなくて、自分の家族の暮らしや来歴を率直に語りながら、延吉のひとびとの生活を生き生きと伝えてくれるものだった。おかげで私は、旅行社のガイドさんではなく、まるで知り合いの「女の子」に生まれ故郷を案内してもらっているような、ほっこりした気持で旅をすることができた。Aさんと交わしたたくさんの話の中から、私の使い古した記憶装置に残っていることをいくつか、ここに書きとめておこうと思う。

●そこは満州族の「聖地」だった
 延吉は、延辺朝鮮族自治州の州都だ。延辺は昔は間島省と呼ばれていた。高知県の詩人、槇村浩が「間島パルチザンの詩」で描いた、あの間島である。Aさんの話では、もともと「間島」というのは、豆満江の川中にある島だけを指す地名だったのだという。ちなみに豆満江(トマンガン)は朝鮮での呼称で、中国では図們江と呼ばれている。 はじめは耕地が乏しい朝鮮側の人たちが、川を渡って島で出づくりしていたのだという。彼らはやがて対岸の中国側にまで、手を広げるようになり、「間島」と呼ばれる地域も広がっていったのだという。それが19 世紀の終わりごろのことだ。当時の中国は清朝である。長白山とその麓一帯は、皇帝の薬草を採取するための土地で、人々が住むことの許されない「聖地」だった。だがそれは中国での話であり、朝鮮からみれば「無人の地」ということになる。「聖地」は同時に「辺境の地」であり、そこは昔から辺境の民が跋扈する土地でもあった。漢族が支配していた時代には、彼ら主として女真族はまさに辺境の、王化に従わない野蛮な夷狄だった。女真族改め満州族の王朝である清朝にとって、そこは民族の故地として、特別な土地となった。でも辺境であることには変わりない。そして辺境というのは、政府の目が届きにくい。異民族であろうとなかろうと、アウトローたちの天地となり、やがては中央の支配者たちを脅かすことになる。
 内憂外患の清朝末期、政府にとって、国内の不穏分子よりは、異民族ではあっても地道に畑を耕す人たちの方がはるかに安心だと思われたのだろう。朝鮮の人たちの潜りの耕作と居住は半ば公然のものとなり、やがて日本が朝鮮を植民地支配するようになると、さらに多くの人々が国境の川を渡って住み着くことになった。
 
●北朝鮮に親戚があるAさん
 延吉というところはまさに「国境の町」で、そこにすむ朝鮮族の人たちは、紛れもなく「国境の民」だ。陸続きの国境をもたない日本人にとっては、行ってみて、人々と出会って、はじめて痛切に実感できることに違いない。それはまったく新鮮な感慨だった。
 Aさんの家族の「延辺朝鮮族」としての歴史はごく新しい。たぶん私とそう年は違わないと思われるAさんのお父さんが、若いころ、最初は一人でこの地にやってきたのだというから、それは解放後のことだ。何度か往ったり来たりするうちに定着して、家庭をもち、両親を呼び寄せたのだという。いまでもお父さんの兄弟や親戚が北朝鮮に住んでいる。文革の時代は北朝鮮の親戚にずいぶん助けてもらった。いまは、中国にいるAさんたちが朝鮮の親戚を援助している。Aさん自身も年に何回か衣類や食料やお金を送っているそうだ。親戚の人たちは、延吉からの援助がないと生きられないという。人民政府で働いている夫の方には、北朝鮮にいる親戚はいない。援助はAさんの実家の問題だから、夫の稼ぎを当てにしてするわけにはいかない。Aさんは、北朝鮮に仕送りするためと、子どもの教育費のために、稼がなくてはならないのだということだった。

●あんた日本にまで行って、なにやってたのよと言われて
 延吉で生まれて育ったAさんは、留学中の夏休みに帰省したとき知りあったBさんと結婚して、延吉に戻ってきた。そんなAさんのことを、友人たちは「せっかく日本に行ったのに、大金も持たずに帰ってきて、地味に暮らしているなんて、貴女はいったい日本でなにをやってきたの」とあきれかえっていたそうだ。日本に行った若い女の子たちは、こんな田舎町にもどってはこない。日本でお金持ちをみつけて結婚するか、中国に帰ってきても北京とか上海とか、大都会に行って派手な暮らしをすることができる。戻ってくるときは大金を掴んで戻ってくる。みんなそう思いこんでいるようなのだ。日本での生活がどんなものか、みんな知らないの。たくさんお金を稼ごうと思ったら、水商売や風俗店で働くしかない。確かにそうやってお金を稼いでいる女の子もいたし、運のいい子は金回りの良い日本の男をゲットして日本国籍を取ることもある。でもそういう道を歩んだ子のほとんどは、ズルズルと深みにはまって学校卒業はおろか、人生を踏み誤ってしまう。物価の高い日本でアルバイトをしながら勉強するというのはたいへんなことだったけれども、私は地道なアルバイトだけやってきた。だから大金を持って帰ってくるわけがないし、結婚相手の仕事先が延吉で、両親もこの街にいるのだから戻ってきた、そういうことよ、といっしょうけんめい話をして、このごろやっとみんなわかってくれたみたい。Aさんは、そう言って笑った。

●「棲み分け」をしている漢族と朝鮮族
 延吉は漢族と朝鮮族が共存する町。町の看板や道路標示は、必ず漢字とハングルが並んでいる。しかし生活する場所こそ共有されているが、人生において両者が重ね合わされることは少ないようだ。まず学校が、漢族と朝鮮族、それぞれ違っている。実際には「越境」も行われているが、制度としてそうなっている。朝鮮族の女の子には、「朝鮮族の男は威張るだけでダメ、漢族の男は優しくて、家の中のこともやってくれる」と、漢族の男性への評価が高いが、二つの民族間の婚姻は、ごく最近の話で、まだまだ一般的にはなっていない。朝鮮族は朝鮮族と、漢族は漢族と結婚するというのが、伝統的な婚姻のあり方だ。ことばや生活慣習といった文化の違いが、そのまま受けつがれているからなのだろう。
 私は「生活の場所が共有されている」と書いたが、これは単に、互いに排斥しあうことなく「同じ街に住んでいる」「同じ職場で働いている」ということを言ったにすぎない。「生活の場」ということになると、それはむしろ截然と仕切られていると言った方があたっているかもしれない。二種類の文字の看板が林立し、画一的な外観のビルや集合住宅が建ち並んでいる都市部だけを見ているとわからないが、一歩農村部に足を踏み入れると、それが歴然としてくる。
 長白山に行く途中、Aさんに注意を促されて、車窓に目をやった。一面に耕作地が広がっているが、畑地のところは畑地ばかりが続き、水田が現れると今度は水田だけが続く。日本の農村風景では二つが入り混ざっているのが普通なのだが、ここではけっしてそういう風景は現れない。さらに、家の屋根の形が二種類あって、これも互いに入り交じることがなく、しかもよく見ると耕地の種類に対応するように存在している。ひとつは切り妻の屋根。これが畑地に囲まれるようにして現れる。もう一つは入母屋の破風がついた屋根、しかも屋根の裾が反り返っている。それは必ず水田の中に現れてくる。あ、朝鮮の民家の屋根だと気づいた。すると、味も素っ気もない切り妻屋根の方は漢族が住んでいるのか。「当たり」だった。つまり、村はひとつの村かもしれないが、その中で漢族と朝鮮族は画然と棲み分けをしているのだ。
 延辺は中国東北地方随一の米倉らしいが、Aさんの話によると、この地で稲作をはじめたのは朝鮮族だそうだ。以来朝鮮族は米を作り続けている。漢族は畑作だけだという。米は、少し前まで日本にもあった食管制度のようなもので価格を統制されているので、米作農家は実入りが少ない。畑作物は統制されていないのでよいお金になる。だから漢族は、苦労ばかり多くて、年一回しか収穫できない米作りをわざわざやろうとは考えない。では、朝鮮族はなぜ、実入りのよい野菜農家に鞍替えしようとしないのか。Aさんは、「野菜は堆肥や人糞を肥料に使うから汚い、という理由で朝鮮族は決してやろうとしないんです」と説明してくれた。朝鮮族は好んで米を作り、漢族は野菜を作る。農村では漢族と朝鮮族が、住む場所だけでなく作物まで「棲み分け」して、両者が競合することはない。この文章の冒頭で、「共生」ではなく「共存」ということばを置いてみたのは、そんなわけだった。 

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